「わたしは自由になりたいと思ったことなど一度もないのでございますよ、旦那様。わたしのような学のない人間にでも、それくらいのことは分かります、なにせわたし自身のことですからね。それにわたしだってもう34年も生きておれば、すこしは世間の色々な話も聞きます。いいですか、旦那様、もう一度繰り返しますが、わたしは自由にしてもらおうなどと考えてはおりません」
金曜日の夜に円山公園で花見をしました。
僕にとっては今年最後の花見で、シーズンもピークを過ぎて人はそんなにいないだろうと踏んでいたのですが、大学生の新歓コンパなんかで人が一杯だった。
僕は1979年に生れた。
日本ではバブルが産声を上げ、イギリスではロンドン・コーリングが発表された。
春で浮かれていて、世界は暗闇の中でこそきらきらと輝いていた。
灯りの少ない公園の中で、屋台の周囲だけが眩しく輝いていた。
地面の上に一枚のプラスチックシートを敷いて、その上に人々が座り込み、風の中でお酒を飲むというこの習慣を、僕としては嬉しく眺める他ない。もちろん、いろいろな集団があり、いろいろな人々がいる。ある集団は統率を図り、ある集団は自分達が一番楽しいグループなのだと声高に主張し、あるグループは静かにダンボールのテーブルで食事をし、そんな風景を毎年見下ろして、桜の花は散っていく。
残った花の間から、高い月を眺めると、空は少しだけ曇っていた。
だけど、雨なんて絶対に降りそうにない。
僕は何度か女の子の友達をトイレまで送り、待ち、一緒に戻った。待っている間に何度か少しだけ酔った女の子が話し掛けてきた。どうしてなのかは良く分からないけれどトイレの前で出会う酔っ払った女の子というものはいつも僕のことを女性用トイレに引っ張り込もうとする。
かつてあるナイトクラブで、僕は英語も良く通じない白人の女の子二人組にレディースのトイレに引っ張り込まれて、なんだかもうどうでもいいような気分でそのままそこで用をたした事がある。夜中の2時にはトイレに男性用も女性用もあったものではない。
7時に集合ということにしていたのですが、結局全員揃ったのは9時半くらいだったと思う。早く来てくれた(僕よりも)2人には申し訳ないです。
終わったのは1時半くらいで、僕らは結構遅くまでいたグループだということになる。先に花見を終わりにしたあるグループから、残ったお酒をいくらか貰った。僕らが帰る頃になると、その辺のブルーシートの上で寝ている人がちらほらといて、最初はここで泊まって帰るんだろうか、と思っていたけれど、どうやら彼らは次の日(土曜日)の昼間の花見の為に場所取りをしているようだった。全くすごい事だ。
この日は去年の年末から会っていない友達にも会う事ができてとても良かった。
その人達とはアルバイトで知り合ったのですが、こういうとき、アルバイトも捨てたものではないと思う。
この日は、「ちくわ」というものが3回も登場して、僕はユング的に少しだけ意味を考えてしまった。
ちくわ1はO君が持ってきてくれたもので、彼はキュウリやチーズを入れたちくわをタッパーに持ってきてくれた。
ちくわ2はKさんが持ってきてくれたもので、彼女のは売っているそのままの袋入りだった。
そして、ちくわ3はKさん(ちくわ2のKさんとは別のKさんです)が持ってきてくれた沖縄写真の中にあった犬の名前で、そのちょっと異常なリアリティーをたたえた顔を持つ犬の名前がちくわだった。
僕はちくわがこの日の僕たちの何かを象徴していやしないか、すこし頭を巡らせてみたけれど、特に何も思い当たる事はなかった。
そういえば、この日は食べ物を持ち寄りにしたのですが、みんなが色々と買ってくる中で、京都大学に属する2人だけが申し合わせるでもなくタッパーを用いているのがなんとなく興味深かった。それはどこか完璧に腑に落ちることでもあるように思えた。
十何人かの人間が思い思いに食べ物を持ってくると(実は食べ物を持ってきていない人もいるけれど)、それはそこそこのバリエーションになり、その中には前から気にはなっていた「ふたばの豆餅」まであって、僕ははじめてそれを口にすることができました。僕にとって豆餅というものは、それがどこの誰が作ったものであっても豆餅は豆餅であって(たとえばポテトチップスは別にカルビーだろうが小池屋だろうが気にならない)、そんなにあるお店の豆餅にだけ行列ができるということが納得いかなかったのです。それがコマーシャルの力なのか、本当にその豆餅にはとてつもない商品力があるのか、雑誌でその豆餅が紹介されているのを見る度に気になっていました。でも、なかなか積極的に「よし今日は豆餅を買いに行くぞ。並んでも買う」という気持ちにはなれなかった訳です。
そして僕はやっと豆餅を食べる機会に恵まれた(Aさんのお陰です、ありがとう)。
とてもおいしかった。非の打ちようがなかった。食べて嬉しくなるくらいおいしかった。
でも、問題は僕にとって今まで非の打ち所があった豆餅なんて一度も存在しなかった、ということで、やっぱりコンビニエンスストアで売っているものとどこが違うのか、僕の未熟な味覚では判別する事ができなかった。ここまできたら、今度はいくつかの豆餅を買って来て食べ比べるしかない。
でもまあ、改めて言うまでもなく「ふたばの豆餅」がおいしいことは事実だと思う。
それからもちろん、書く間でもなく楽しい一夜でした。朝まで変なお店で付き合ってくれたみんなに感謝します。
金曜日の夜に円山公園で花見をしました。
僕にとっては今年最後の花見で、シーズンもピークを過ぎて人はそんなにいないだろうと踏んでいたのですが、大学生の新歓コンパなんかで人が一杯だった。
僕は1979年に生れた。
日本ではバブルが産声を上げ、イギリスではロンドン・コーリングが発表された。
春で浮かれていて、世界は暗闇の中でこそきらきらと輝いていた。
灯りの少ない公園の中で、屋台の周囲だけが眩しく輝いていた。
地面の上に一枚のプラスチックシートを敷いて、その上に人々が座り込み、風の中でお酒を飲むというこの習慣を、僕としては嬉しく眺める他ない。もちろん、いろいろな集団があり、いろいろな人々がいる。ある集団は統率を図り、ある集団は自分達が一番楽しいグループなのだと声高に主張し、あるグループは静かにダンボールのテーブルで食事をし、そんな風景を毎年見下ろして、桜の花は散っていく。
残った花の間から、高い月を眺めると、空は少しだけ曇っていた。
だけど、雨なんて絶対に降りそうにない。
僕は何度か女の子の友達をトイレまで送り、待ち、一緒に戻った。待っている間に何度か少しだけ酔った女の子が話し掛けてきた。どうしてなのかは良く分からないけれどトイレの前で出会う酔っ払った女の子というものはいつも僕のことを女性用トイレに引っ張り込もうとする。
かつてあるナイトクラブで、僕は英語も良く通じない白人の女の子二人組にレディースのトイレに引っ張り込まれて、なんだかもうどうでもいいような気分でそのままそこで用をたした事がある。夜中の2時にはトイレに男性用も女性用もあったものではない。
7時に集合ということにしていたのですが、結局全員揃ったのは9時半くらいだったと思う。早く来てくれた(僕よりも)2人には申し訳ないです。
終わったのは1時半くらいで、僕らは結構遅くまでいたグループだということになる。先に花見を終わりにしたあるグループから、残ったお酒をいくらか貰った。僕らが帰る頃になると、その辺のブルーシートの上で寝ている人がちらほらといて、最初はここで泊まって帰るんだろうか、と思っていたけれど、どうやら彼らは次の日(土曜日)の昼間の花見の為に場所取りをしているようだった。全くすごい事だ。
この日は去年の年末から会っていない友達にも会う事ができてとても良かった。
その人達とはアルバイトで知り合ったのですが、こういうとき、アルバイトも捨てたものではないと思う。
この日は、「ちくわ」というものが3回も登場して、僕はユング的に少しだけ意味を考えてしまった。
ちくわ1はO君が持ってきてくれたもので、彼はキュウリやチーズを入れたちくわをタッパーに持ってきてくれた。
ちくわ2はKさんが持ってきてくれたもので、彼女のは売っているそのままの袋入りだった。
そして、ちくわ3はKさん(ちくわ2のKさんとは別のKさんです)が持ってきてくれた沖縄写真の中にあった犬の名前で、そのちょっと異常なリアリティーをたたえた顔を持つ犬の名前がちくわだった。
僕はちくわがこの日の僕たちの何かを象徴していやしないか、すこし頭を巡らせてみたけれど、特に何も思い当たる事はなかった。
そういえば、この日は食べ物を持ち寄りにしたのですが、みんなが色々と買ってくる中で、京都大学に属する2人だけが申し合わせるでもなくタッパーを用いているのがなんとなく興味深かった。それはどこか完璧に腑に落ちることでもあるように思えた。
十何人かの人間が思い思いに食べ物を持ってくると(実は食べ物を持ってきていない人もいるけれど)、それはそこそこのバリエーションになり、その中には前から気にはなっていた「ふたばの豆餅」まであって、僕ははじめてそれを口にすることができました。僕にとって豆餅というものは、それがどこの誰が作ったものであっても豆餅は豆餅であって(たとえばポテトチップスは別にカルビーだろうが小池屋だろうが気にならない)、そんなにあるお店の豆餅にだけ行列ができるということが納得いかなかったのです。それがコマーシャルの力なのか、本当にその豆餅にはとてつもない商品力があるのか、雑誌でその豆餅が紹介されているのを見る度に気になっていました。でも、なかなか積極的に「よし今日は豆餅を買いに行くぞ。並んでも買う」という気持ちにはなれなかった訳です。
そして僕はやっと豆餅を食べる機会に恵まれた(Aさんのお陰です、ありがとう)。
とてもおいしかった。非の打ちようがなかった。食べて嬉しくなるくらいおいしかった。
でも、問題は僕にとって今まで非の打ち所があった豆餅なんて一度も存在しなかった、ということで、やっぱりコンビニエンスストアで売っているものとどこが違うのか、僕の未熟な味覚では判別する事ができなかった。ここまできたら、今度はいくつかの豆餅を買って来て食べ比べるしかない。
でもまあ、改めて言うまでもなく「ふたばの豆餅」がおいしいことは事実だと思う。
それからもちろん、書く間でもなく楽しい一夜でした。朝まで変なお店で付き合ってくれたみんなに感謝します。