使い込まれてカッコイイけれど、ややハリボテな本物のスペースシャトルを見て、改めてさっき見たエンデバー運搬の短いドキュメンタリーを思い出した。それから歴代のシャトル打ち上げ動画も。
皮肉なことに、よりドラマチックだったのは実物ではなくて動画の方だった。丁寧に編集されているので、ただ動画というよりも「映像作品」と言ったほうがいいだろうか。
展示されているシャトルは本物であっても動くわけではないので、実際に飛んでいる動画の方に面白みがあるという見方もできる。
けれど、僕の場合はもっと根が深い。
「アンディ・ウォーホルのすべてについて知りたければ表面だけを見ればいい。
僕の絵や映画やそして僕自身の表面だけをね、それが僕だ。
背後に何も隠されちゃいない」
ー アンディ・ウォーホル
僕は20代の前半「ポップ」というのにすっかりやられていた。当時の日本の文脈では村上隆の「スーパーフラット」ということになるかもしれない。特に京都だからというわけではないが、groovisionsは今もとても好きだ。
2010年代半ばである今は、アニメ系のイラストが「二次元」「萌えキャラ」という呼び名でどんどん進出している。京都では公共交通機関はすっかり萌えキャラにやられてしまった。駅には萌えキャラのポスターだらけ。僕はそれらには興味がないけれど、アニメ系のイラストを使うことに一定のシンパシーはある。なぜなら、アニメ表現は現実世界からゴチャゴチャしたディテールを取り去った上澄みとしての表面だからだ。そこには、鼻水も汗もバイ菌も生ゴミの臭いもない。たとえそれらが描かれていたとしても、記号化されていて僕達が日常で感じる嫌悪感は発生しない。そういう上澄みの世界は魅力的だ。
「スーパーフラット」から現代とは反対方向、過去に時間を遡ると、1980年代を代表する三人のイラストレーターが思い浮かぶ。
わたせせいぞう。永井博。鈴木英人。
遠近法は使われているものの、平面的な色の塗り方。
彼らをスーパーフラットの萌芽だといい加減に言うつもりはないけれど、実は僕は彼らのイラストが結構好きで、アメリカ旅行前日には京都駅でやっていた「わたせせいぞう展」にも行った。
こんなことを言うと、周囲のアート・デザイン系の友達に「えっ?!」という顔をされるのは分かっている。ちょうどラッセンの絵がこき下ろされるのと近い感じで、あの西海岸への憧れ丸出し(少なくとも一時期は)でバブリーなイラストは分かり易くてバカにされる。しかもこれらはキッチュに差し出されていない。まっすぐにそのまま大衆に向かって投げ付けられる。知性ではなく欲望にそのまま投げ付けられる。
が、僕は彼らが好きだ。
なぜなら、これらもアニメイラストと同じように、写実的でありつつディテールを意図的に落とした現実世界の上澄みだからだ。
あるいは、これらは「旅行ガイドブック」だということもできる。ガイドブックには旅先の写真が「理想的な」写真を使って表現される。撮影対象は景色や建物や料理であって、そこに撮影者の影は全くない。つまり人間の生身は排除されている。実際に旅行をすれば、窮屈な飛行機で疲れたり、炎天下を歩いて汗だくになったり、過密スケジュールで寝不足のヘトヘトだったり、天気も悪いかもしれないし、レストランは大混雑してるかもしれない。そういった可能性は、少なくともガイドブックの写真を見ながら旅の計画に胸踊らせている間は考えなくてもいい。疲れている私、汗だくで不快な私、お腹痛い私、は完全に排除されている。理想的な写真の提示する理想的な旅行のイメージに集中していればそれでいい。それは「旅行ガイドブック鑑賞」という1つの快楽だ。
わたせせいぞう、永井博、鈴木英人のイラストは「非実在現実」への旅行ガイドブックであり、差し出されるものは端的に快楽である。快楽に浸ることを、多くの人達は現実逃避だと言って忌み嫌うが、それは嫉妬の裏返しでもある。
カリフォルニア・サイエンスセンターで見た「エンデバー」の動画は、きれいに編集されたもので、イラストに似ている。ディテールは写っているようで実は取り除かれている。それに対して、実物のエンデバーが突きつけてくるのはディテールという汗や鼻水や疲労のような現実だった。
スペースシャトルに限った話ではない。
僕が子供の頃から築いてきたアメリカ合衆国という幻想も、ドラマや映画やニュースや小説という上澄みを超えて、合成香料の臭いやひび割れたアスファルトというディテールに、あるいはそこに存在する自身の肉体というリアルによって破壊されていく。今回の旅で、僕はそれをやりに来たので、別に幻想が冷めていくことは構わない。ただ少し寂しい。
皮肉なことに、よりドラマチックだったのは実物ではなくて動画の方だった。丁寧に編集されているので、ただ動画というよりも「映像作品」と言ったほうがいいだろうか。
展示されているシャトルは本物であっても動くわけではないので、実際に飛んでいる動画の方に面白みがあるという見方もできる。
けれど、僕の場合はもっと根が深い。
「アンディ・ウォーホルのすべてについて知りたければ表面だけを見ればいい。
僕の絵や映画やそして僕自身の表面だけをね、それが僕だ。
背後に何も隠されちゃいない」
ー アンディ・ウォーホル
僕は20代の前半「ポップ」というのにすっかりやられていた。当時の日本の文脈では村上隆の「スーパーフラット」ということになるかもしれない。特に京都だからというわけではないが、groovisionsは今もとても好きだ。
2010年代半ばである今は、アニメ系のイラストが「二次元」「萌えキャラ」という呼び名でどんどん進出している。京都では公共交通機関はすっかり萌えキャラにやられてしまった。駅には萌えキャラのポスターだらけ。僕はそれらには興味がないけれど、アニメ系のイラストを使うことに一定のシンパシーはある。なぜなら、アニメ表現は現実世界からゴチャゴチャしたディテールを取り去った上澄みとしての表面だからだ。そこには、鼻水も汗もバイ菌も生ゴミの臭いもない。たとえそれらが描かれていたとしても、記号化されていて僕達が日常で感じる嫌悪感は発生しない。そういう上澄みの世界は魅力的だ。
「スーパーフラット」から現代とは反対方向、過去に時間を遡ると、1980年代を代表する三人のイラストレーターが思い浮かぶ。
わたせせいぞう。永井博。鈴木英人。
遠近法は使われているものの、平面的な色の塗り方。
彼らをスーパーフラットの萌芽だといい加減に言うつもりはないけれど、実は僕は彼らのイラストが結構好きで、アメリカ旅行前日には京都駅でやっていた「わたせせいぞう展」にも行った。
こんなことを言うと、周囲のアート・デザイン系の友達に「えっ?!」という顔をされるのは分かっている。ちょうどラッセンの絵がこき下ろされるのと近い感じで、あの西海岸への憧れ丸出し(少なくとも一時期は)でバブリーなイラストは分かり易くてバカにされる。しかもこれらはキッチュに差し出されていない。まっすぐにそのまま大衆に向かって投げ付けられる。知性ではなく欲望にそのまま投げ付けられる。
が、僕は彼らが好きだ。
なぜなら、これらもアニメイラストと同じように、写実的でありつつディテールを意図的に落とした現実世界の上澄みだからだ。
あるいは、これらは「旅行ガイドブック」だということもできる。ガイドブックには旅先の写真が「理想的な」写真を使って表現される。撮影対象は景色や建物や料理であって、そこに撮影者の影は全くない。つまり人間の生身は排除されている。実際に旅行をすれば、窮屈な飛行機で疲れたり、炎天下を歩いて汗だくになったり、過密スケジュールで寝不足のヘトヘトだったり、天気も悪いかもしれないし、レストランは大混雑してるかもしれない。そういった可能性は、少なくともガイドブックの写真を見ながら旅の計画に胸踊らせている間は考えなくてもいい。疲れている私、汗だくで不快な私、お腹痛い私、は完全に排除されている。理想的な写真の提示する理想的な旅行のイメージに集中していればそれでいい。それは「旅行ガイドブック鑑賞」という1つの快楽だ。
わたせせいぞう、永井博、鈴木英人のイラストは「非実在現実」への旅行ガイドブックであり、差し出されるものは端的に快楽である。快楽に浸ることを、多くの人達は現実逃避だと言って忌み嫌うが、それは嫉妬の裏返しでもある。
カリフォルニア・サイエンスセンターで見た「エンデバー」の動画は、きれいに編集されたもので、イラストに似ている。ディテールは写っているようで実は取り除かれている。それに対して、実物のエンデバーが突きつけてくるのはディテールという汗や鼻水や疲労のような現実だった。
スペースシャトルに限った話ではない。
僕が子供の頃から築いてきたアメリカ合衆国という幻想も、ドラマや映画やニュースや小説という上澄みを超えて、合成香料の臭いやひび割れたアスファルトというディテールに、あるいはそこに存在する自身の肉体というリアルによって破壊されていく。今回の旅で、僕はそれをやりに来たので、別に幻想が冷めていくことは構わない。ただ少し寂しい。