リトル・トーキョーからイースト・セカンド・ストリートを北西へ。途中で交通局"CALTRANS DISTRICT SEVEN"の未来的でメカニカルな建築を眺めたり、ロサンゼルス・タイムズのビルを横目にして、強い日差しの中を僕達は歩いた。巨大なビルの立ち並ぶ明瞭な街にはほとんど人影がない。「みんな普通は車で移動するから歩いてる人なんていない」とクミコが言ったが、広い道路にも車はほとんど走っていない。「今日は日曜だから、この辺は基本オフィス街なの」とビッキーが言う。
大都市を望むとき、いつも頭に浮かんでしまうのは、この美しい人工的な世界を形成するのにどれだけの生き物が殺されただろうということだった。僕は都市が好きだ。でも、この都市が作られる前、人間が闊歩する以前、この辺りはどんなだったのだろうと思う。コンクリートのボリュームとアスファルトの下には、太陽の光を奪われた大地が眠っている。スニーカーが一歩一歩着地する度に、足の裏から数十センチ下にあるであろう土の窮屈な気配がときおり背骨を登って伝わってくるような気持ちになる。
「さっきの交通局のビルもカッコ良かったし、僕は基本的に大きな建物も好きだけど、でもいつも、この大きなビルを建てるのにどれだけの生き物が殺されたのかと考えてしまって、複雑な気持ちにもなるよ。たとえば、ビルを建てようと思ったところに樹が生えてたら、僕はその樹を切り倒さなくてはならないわけだけど、自分で樹を切らなきゃならないとしたら可哀想でできそうな気がしない」
歩きながらそう言って、僕はビッキーの方をサングラス越しに見た。当たり前だけど、クミコもビッキーもサングラスを掛けている。子供の時は、サングラスなんて格好を付ける為に気取って掛けているのだろうと思っていた。大人になると、子供の時はどうしてサングラスなしで夏の炎天下が平気だったのだろうと思う。
「そういう気持ちはわかるかもしれないわね。でも、ロサンゼルスでは心配無用よ。ここ、もともと砂漠だったんだもん」
ビッキーはしたり顔でそう言った。
「えっ、そうなの?」
「うん、だから日本と違って、そんなに樹のことなんて心配しなくてもビル建てれるの」
そうか、ここがもともと「どの程度の」砂漠だったのかは兎に角、たしかに世界のどこもかしこもが樹で覆われているわけではない。僕の「ビルを建てるなら地面の造成段階でたくさんの樹々を殺すことになる」という考え方は、山に囲まれて育った人間の偏見にすぎない。
なるほどなと、この時はそれで納得して別の話題に移っていった。
だけど、日本に帰ってから台湾人建築家の女の子にこの話をすると、「砂漠は自然じゃないの? 砂漠にも生き物はいるけれど、それは可哀想じゃないの?」と返されてしまう。僕の浅はかな納得はあっさりと覆される。
そうだ、砂漠だって自然だ。青々と樹や草が茂っているわけではなくても、砂漠には砂漠なりの生態系がある。蛇とかトカゲとか虫とかネズミも住んでいる。
なんてことだ。
それでも、僕達は建築物が欲しい。道路が欲しい。都市が欲しい。
罪深く申し訳ない。
そのまま、もう少し歩くと、キラめく銀色のウネウネした建物が見えてくる。フランク・ゲーリーの「ウォルト・ディズニー・コンサートホール」。さらに磯崎新の「ロサンゼルス現代美術館」。
それにしても、いくらオフィス街の週末だからといっても、これだけの施設があるにしては外に本当に全然人がいない。ゴーストタウンみたいだ。外は暑いから、建物の中に人が留まるのは理解できる。だけど、それにしても人がいない。もしかしたら、人がいないのは、ここには居辛いからではないかと思う。聳える建築は、その外部に人を寄せ付けないところがあった。人が心地よく過ごせるような木陰もないし、飲み物が気楽に買えそうな店もない。「東京砂漠」という言葉が昔流行ったけれど、ここに比べたら東京はオアシスだ。
この頃から、どうしてポートランドがアメリカで持てはやされるのか、段々と分かってきた気がする。滞在したときには、それほど魅力を感じなかったし、鄙びた退屈な街だと思ったけれど、たしかにアメリカの街にしてはあそこは「適度」な感じがあった。
「人がいないなー」と言いながら、僕達はリトル・トーキョーまで戻って、韓国人の経営しているお店でアイスクリームとジュースを買ってビッキーと別れた。駐車場が同じだったので、バイバイは駐車場で言う。
「今日は案内してくれてありがとう」
「こちらこそ、大体いつも誰かが来たら連れて行くコースなの、それじゃまたね」
なるべく日陰に駐めたものの、車の中は太陽ですっかり暑くて、僕達は乗り込んですぐにエアコンを全開にした。
大都市を望むとき、いつも頭に浮かんでしまうのは、この美しい人工的な世界を形成するのにどれだけの生き物が殺されただろうということだった。僕は都市が好きだ。でも、この都市が作られる前、人間が闊歩する以前、この辺りはどんなだったのだろうと思う。コンクリートのボリュームとアスファルトの下には、太陽の光を奪われた大地が眠っている。スニーカーが一歩一歩着地する度に、足の裏から数十センチ下にあるであろう土の窮屈な気配がときおり背骨を登って伝わってくるような気持ちになる。
「さっきの交通局のビルもカッコ良かったし、僕は基本的に大きな建物も好きだけど、でもいつも、この大きなビルを建てるのにどれだけの生き物が殺されたのかと考えてしまって、複雑な気持ちにもなるよ。たとえば、ビルを建てようと思ったところに樹が生えてたら、僕はその樹を切り倒さなくてはならないわけだけど、自分で樹を切らなきゃならないとしたら可哀想でできそうな気がしない」
歩きながらそう言って、僕はビッキーの方をサングラス越しに見た。当たり前だけど、クミコもビッキーもサングラスを掛けている。子供の時は、サングラスなんて格好を付ける為に気取って掛けているのだろうと思っていた。大人になると、子供の時はどうしてサングラスなしで夏の炎天下が平気だったのだろうと思う。
「そういう気持ちはわかるかもしれないわね。でも、ロサンゼルスでは心配無用よ。ここ、もともと砂漠だったんだもん」
ビッキーはしたり顔でそう言った。
「えっ、そうなの?」
「うん、だから日本と違って、そんなに樹のことなんて心配しなくてもビル建てれるの」
そうか、ここがもともと「どの程度の」砂漠だったのかは兎に角、たしかに世界のどこもかしこもが樹で覆われているわけではない。僕の「ビルを建てるなら地面の造成段階でたくさんの樹々を殺すことになる」という考え方は、山に囲まれて育った人間の偏見にすぎない。
なるほどなと、この時はそれで納得して別の話題に移っていった。
だけど、日本に帰ってから台湾人建築家の女の子にこの話をすると、「砂漠は自然じゃないの? 砂漠にも生き物はいるけれど、それは可哀想じゃないの?」と返されてしまう。僕の浅はかな納得はあっさりと覆される。
そうだ、砂漠だって自然だ。青々と樹や草が茂っているわけではなくても、砂漠には砂漠なりの生態系がある。蛇とかトカゲとか虫とかネズミも住んでいる。
なんてことだ。
それでも、僕達は建築物が欲しい。道路が欲しい。都市が欲しい。
罪深く申し訳ない。
そのまま、もう少し歩くと、キラめく銀色のウネウネした建物が見えてくる。フランク・ゲーリーの「ウォルト・ディズニー・コンサートホール」。さらに磯崎新の「ロサンゼルス現代美術館」。
それにしても、いくらオフィス街の週末だからといっても、これだけの施設があるにしては外に本当に全然人がいない。ゴーストタウンみたいだ。外は暑いから、建物の中に人が留まるのは理解できる。だけど、それにしても人がいない。もしかしたら、人がいないのは、ここには居辛いからではないかと思う。聳える建築は、その外部に人を寄せ付けないところがあった。人が心地よく過ごせるような木陰もないし、飲み物が気楽に買えそうな店もない。「東京砂漠」という言葉が昔流行ったけれど、ここに比べたら東京はオアシスだ。
この頃から、どうしてポートランドがアメリカで持てはやされるのか、段々と分かってきた気がする。滞在したときには、それほど魅力を感じなかったし、鄙びた退屈な街だと思ったけれど、たしかにアメリカの街にしてはあそこは「適度」な感じがあった。
「人がいないなー」と言いながら、僕達はリトル・トーキョーまで戻って、韓国人の経営しているお店でアイスクリームとジュースを買ってビッキーと別れた。駐車場が同じだったので、バイバイは駐車場で言う。
「今日は案内してくれてありがとう」
「こちらこそ、大体いつも誰かが来たら連れて行くコースなの、それじゃまたね」
なるべく日陰に駐めたものの、車の中は太陽ですっかり暑くて、僕達は乗り込んですぐにエアコンを全開にした。