「心の専門家」はいらない (新書y) | |
小沢牧子 | |
洋泉社 |
前回再録して紹介した小沢健二さんの『企業的な社会、セラピー的な社会』を読んだ後に、小沢牧子さんの『こころの専門家はいらない』も読んでいて、その感想文も書いていたと思ったのですが、それはツイッターで紹介しただけだったので、ここにまとめておきたいと思います。
著者、小沢牧子さんはご自身が<心の専門家>というか「心の専門家の専門家」です。臨床心理学を研究しているうちに「どうもこれは嘘っぱちではないか」と気づいて今のようなスタンスに変えられたようです。
カウンセリングとか精神医療とか抗鬱剤とかに対して、実は結構たくさんの人たちが「どうもこれは嘘っぱちではないか」という思いを抱いているのではないでしょうか。でも、そういうことを言うと「あなたは何か自分の心に向き合うのが苦痛であると感じてしまうような心の傷を持っているのではないですか、カウンセリングの回数を増やしましょう」というような、斥力を吸引力に変える巧妙な装置までカウンセリングには組み込まれています。
この装置は、実に強力に構造化されたもので、本文中にもこのような記述があります。
”たとえばクライアントがカウンセラーにこう訊ねたとする「先生はお子さんがいらっしゃるのですか」。その場合様々な返答がありうるだろうが、もっともカウンセリング臭の強い返答は、次のものである。「それが気になりますか?」”
このまま、どうして子供がいるのかどうかということが気になるのか、心にあるその原因を探って行きましょう、という形でカウンセリングは開始可能です。元々の質問は答えられることがありません。はぐらかされています。患者はカウンセラーと「患者:カウンセラー」という関係を結んだ時点で相手のコントロール下に入ります。
いかに柔らかに、友好的に親身に振舞っていてもカウンセラーは立場的に「”正しい”心の専門家」で患者よりも”上”です。患者はカウンセラーに「ああしろこうしろ」とは言われないけれど「自然に」カウンセラーが喜ぶような返答、考え方をするようになっていきます。
このように「自然に」どういう風にするのか相手に喜ばれるのかを汲み取って、それに沿って行動するようになる、という現象は教育現場にも持ち込まれていて、著者はこのように書いています。
”個々人の自己開発を求める生涯学習路線も、意欲関心態度を最重視する学校教育も、「みずから(自由に)決めよ、ただし望まれるように」という新たな管理の流れのなかにある”
小沢さんの、この「自ら自由に決めよ、ただし望まれるように」というフレーズは強烈です。
この作法は、企業にも、例の「社会人」とかいう人達の間にも蔓延しています。
ドラッカーなんかが研究してきたのは「自発的に喜んでやっていると思い込ませたまま相手を支配する方法」というなんとも気味の悪いものですが、嬉々として読む人が続出して、それが会社経営のバイブルになり、社会全体が「操作されていることに気づかないまま操作されている人々の集団」になってしまいました。
ドラッカーの「マネージメント」などを読んでる人はどことなく気味が悪い、と直感的に思ってしまうのは当然のことです。こちらから言わなくても自分の望んでいることを向こうが自然に察して勝手に喜んでやってくれるような方法が知りたいと、その人が思っていることの表明ですから。
そういう本を「あやしい」ではなく、「有名企業の社長も読んでる」由緒正しい本だと思い込んで「俺も人をコントロールしてやろう」と読む人がたくさんいます。それがステップアップの為に勉強熱心で偉いとか言われます。また会社や何かに従って生きている人も「コントロールされている」と思いながらコントロールされ続けるよりも「コントロールされてなんかない、自由だ、これは俺の意志だ」と思いながら生きる方が気が楽なので、一見だれも困っていなくて、「こっそり人をコントロールする本」は、まるで社会の役に立つ本のように思われているのかもしれません。
カウンセリングの持つ問題点は、他にもありますが、「外部の問題」を患者の「内面の問題」に摩り替えるというのが最重要ではないでしょうか。たとえば学校がカウンセラーを雇うのは生徒のためではなく学校の為です。登校拒否の子供がいたとしたら学校に問題があると考えるのは面倒なので「その子の心の問題のせい」にして済ませるわけです。
これは非常に便利な手段です。
ちょうど「会社に行くのが嫌で嫌で仕方ない」人が、その理由は今の仕事に全く興味がないからだと薄々気づいていても、転職するのが面倒なので、「問題は仕事にあるのではなくて私にあるのだ、仕事を好きになる努力をすればいいのだ」と考えるのに似ています。そもそも、このような思考形態はカウンセリングの普及と共に広まったのではないでしょうか。
もう何十年と暴走肥大してきた消費社会は、ありとあらゆるものに値段を付けて貨幣と交換可能にしてきました。カウンセリングはその過程に発生した、武力の代わりに言葉で人々をコントロールする技術の一つかもしれません。遂にそれは人々の日常へ、心の中は入り込むことに成功してしまいました。
”最後の最後まで商品にされていなかった、人間の関係性さえもが消費財にされてしまった”
という著者の言葉に、僕はまったく賛同するものです。
ここからは余談になりますが、
”人を日常的に支えている力は何であろうか。ふだんはあまり自覚していないまでもそれは、自分の身になじんでいるものの人や場所であると、わたしは体験的に考えている”
というセンテンスが本書にはあります。
僕はこれを読んで、著者の夫であり、小沢健二の父である小澤俊夫さんのことを思い出しました。小澤俊夫さんは、グリム童話を専門とするメルヘンの研究者ですが、『小澤俊夫 昔話へのご招待』というラジオ番組をお持ちです(ポッドキャストで聞けます)。
その中でリスナーからの「子供が同じ絵本ばかり何度も何度も読んで新しいのを読まないのだけど、どうしましょう?」という質問がありました。
小澤さんの答えは「それでいい、無理して新しいものを読ませないで下さい」でした。
子供というのは自分の心の安らぎを身近な、自分の慣れたものから覚えます、だからずっと同じぬいぐるみを手放さなかったりします。そういうのは子供の心にとってとても大事なことで、同じ物語を何度も何度も繰り返して読むのは悪いことどころか、むしろ大事なことだ、という返答です。
なんとなく「やっぱりご夫婦だな」と思いました。
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『「心の専門家」はいらない』小沢牧子
目次
序章 臨床心理学をなぜ問うか
1 疑問の始まり
2 カウンセリングへの違和感
第Ⅰ章 現代社会とカウンセリング願望
1 若者世代のカウンセリング観
「心主義」への傾倒
友だちを求め、おそれる
専門家側からの働きかけ
2 あらたな人間管理技法
自由に決めよ、ただし望まれる形で
臆病の蔓延と排除の合理化
自助努力への圧力
3 「心」という市場
アメリカの社会・文化背景
「関係」の商品化
4 カウンセリング依存の帰結
生き方の委託
「子どもの虐待」増加の示すもの
親の適性判定のごとく
「生かされる消費財」への道
第Ⅱ章 「心の専門家」の仕事とその問題群
1 「心の時代」とは何のことか
「モノから心へ」なのか?
「心のビジネス」の始まり
2 「心の専門家」はどのように登場したか
歴史的経緯と学会論議
「心の専門家」という名づけ
3 カウンセリング技法とは何か
問題をずらす技法
「心の変容」のしくみ――言語戦略
4 「治す・治る」を問いなおす
登校拒否の治療とは
差別の問題と「治療」
「狂気を治す」ということの問題
5 「心」についての専門性は成立するか
専門性とは何か
人間管理の技術学
第Ⅲ章 スクールカウンセリングのゆくえ
1 あるカウンセリング場面から
傾聴し、そして?
原因の免罪と現状維持
2 導入の経緯と現状
学校と子どものズレのなかで
導入が見送られた八〇年代の事情
教職員の無力感の増大
「心の専門家」の二重構図
3 大学生のスクールカウンセリング観から
日常的かかわりの意義
問われるおとなのかかわり
4 実践例とその問題
短期療法への傾斜
暗示の即効性とその問題
悩むことからの回避
考えることからの退却
5 学校の未来をどうひらくか
「する」ことから「在る」ことへ向けて
第Ⅳ章 「心のケア」を問う
1 災害と「心の支援」
カウンセラー派遣をめぐって
日本は遅れているのか
2 死の臨床と「心のケア」
生物的生命から人の生活へ
混迷する医療
3 阪神・淡路大震災から学ぶもの
「心」という名のベール
生活への配慮をこそ
4 PTSDと「心のケア」
二次的被害の重大性
当事者の思いと揺れ
「心的外傷」ではなく「できごと」
5 高齢社会と「心のケア」
「介護」は家事のうち
「関係」は制度になじまない
6 犯罪被害者と「心のケア」
心理主義の介入
高じる親の不安
終章 日常の復権に向けて
1 あきらめの広がり
「心」へのサービスの進行
「心のケア」の脱政治作用
2 つながりをめざす
なじむことの力
平準化の関係原理
縁の思想に賭ける
あとがき
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