書評:『弱いロボット』岡田美智男

2013-02-22 20:17:12 | 書評
弱いロボット (シリーズ ケアをひらく)
岡田美智男
医学書院

 『弱いロボット』というタイトルを店頭で見て、最初に僕が連想したのは、現行ロボットの未熟さというようなものでした。
 産業用ロボットのように、何かに特化したロボットの中には凄まじい高性能を持つものがありますが、僕達の日常生活に入ってきたロボットと言えば、せいぜい「ルンバ」程度です。あんなものが21世紀のお掃除ロボだなんて、1970年に大阪万博で輝かしい未来を想像していた人達からすれば驚きでしかないと思います。(あと「アイボ」というのもありましたね。もう絶滅したようですけれど。)

 万博ついでに書いてしまうと、僕は2005年の愛知万博で「リニモ」に乗った時、そこはかとなく脱力感に襲われました。それは「リニモ」が、ただのモノレール並の遅さだったから、という理由からだけではなく、そこへ到達するまでのリニアモーターカーの歴史を鑑みてのことです。
 リニアモーターカー開発の歴史は100年くらいあると思います。今は磁気浮上式について話をしていますが、科学の世紀と言われた21世紀をまるまる費やしても「リニモ」程度のものが万博で鳴り物入りで紹介されていて、世界的に見ても、ほとんどリニアモーターカーは普及していません。
 さらに、日本のリニア計画は2027年に東京ー名古屋間、2045年に東京ー大阪間開通ということですが、2045年になっても僕達は「祝リニアモーターカー開通!」とか、なんとなく昭和な響きのする言葉を万歳するのでしょうか。

 と、まるで悪口のようなことを書きましたが、別にこれは悪口ではなくて、科学技術の発展は難しいということの再認識と、元科学少年としての軽い失望を表明したまでです。
 この「昭和的科学少年の21世紀初頭に対する失望」というのは、ラーメンズが『アトム』というコントで上手に表現しています。
(一番下に動画を引いておきました)

 閑話休題。
 とはいっても、実は愛知万博の話はこの本の内容に関連があります。
 岡田さんは愛知万博に「自分ではゴミを拾えないけれど拾ってほしそうにして周りの人にゴミを拾って貰うロボット」を次世代ロボットとして提案したが相手にされなかった、という経験をお持ちです。
 この「自分ではゴミを拾えないけれど拾ってほしそうにして周りの人にゴミを拾って貰うロボット」は「弱いロボット」の一つです。
 そうです「弱いロボット」というのが何を表しているのか、どういうロボットのことを言っているのかというと、それは「何もできないロボット」だったのです。
 著者の表現を本分から引用すると、

『「あ、そうか。手足もなく、目の前のモノが取れないのなら、誰かに取ってもらえばいいのか」
 あらためて考えてみると、こんな捨て鉢ともいえる発想で作られたロボットは世の中にまだないのではないか。ポイントとなるのは「一人では動こうにも動けない」という、自分の身体に備わる「不完全さ」を悟りつつ他者に委ねる姿勢を持てるかどうかである。つまり、他者へのまなざしを持てるかどうかということだろう。』

 というように、自力では何もできないので周りの人に助けて貰うロボットです。
 僕は最初に「ロボットの未熟さ」というものを連想していましたが、その「未熟さ」というのは「なんでもできるロボット」に対しての未熟という意味でした。僕の視点の先には「なんでもできる」というものが置かれていたということです。蓋を開けてみれば、岡田さんの研究は完全に反対方向を、「なにもできない」という方向を向いたものでした。

「え?そんなのロボットなの?」
 という反応は、妥当なもので、僕もやっぱりそう思ってしまいます。
 実際、ロボット展示会に「弱いロボット」を出品しても、「何の役に立つの???」と完全に浮いた存在になってしまうということです。

 「弱いロボット」は、ロボット単体では役に立ちません。
 ただ、このロボットは人とのインタラクションの中で、コミュニケーションの本質を浮かび上がらせたり、人々のコミュニケーション触媒になったりという機能を発揮します。
 岡田さんの研究目的も、単純なロボット開発ではなく「コミュニケーション」に重点を置いたものです。それはこの本がブルーバックス等のサイエンス本としてではなく、「ケアをひらく」という介護を扱ったシリーズの一冊として出版されたことからも伺えます。

 自分ではゴミを拾えないゴミ箱ロボットと子供たち
 (1分20秒くらいからです)↓



 「何もできないロボット」を「幼児」のアナロジーとして「人々に何かさせる」ということ。
 (例:かわいらしいゴミ箱ロボットを作って、人々にゴミを拾わせる)

 もしくは、

 「極度に対話能力の低いロボット」を使って、人々に「人形遊び」的な「一人会話」を引き起こること。
 (例:ムームーなどと意味のないことしか言えないロボットの発話から「タコ焼きね」などと人が勝手な解釈を見出す)

 これらが不気味なことであることに、岡田さんは自覚的で、これらの研究は端的にまだ途上です。これからエンジニアリングの枠を大きく超えて、ますます面白くなるのではないでしょうか。
 僕はこれまでロボットを「性能、機能」だけで見てきた節があり、本書によって大きく目が開かれました。

 また、本書を貫いているある重要な姿勢があって、それを紹介しないわけにはいきません。
 その姿勢は、「歩くというのは、どうなっちゃうか分からないけれど、とりあえず一歩踏み出してみて、つまり地面に向かって倒れこんでみて、それで始まるんだ」ということです。
 それこそが「生きている感じ」で、だから僕達は「静歩行型ロボット」を見ても生きている感じを受けなくて、「動歩行型ロボット」からは生きている感じを受け取る。
 倒れこんだ先に地面らしきものがあることを信じて前に倒れること、そこから物事は始まり、また一歩進んだ先には別の視界が開ける。
 コミュニケーションも同じことで、取り敢えず発してみた一言を「相手」という地面が受け止めてくれて、そして会話が始まる。とりあえず投げてみる一言は「文法的に意味のある」センテンスでなくていい。英語が話せないという思い込みの一部は「意味のあるセンテンス」を組み立ててから投げなくてはならないという強迫観念に由来している。日本語で話す時だって人は「意味のあるセンテンス」ばかり発してはいない。雑談を分析してみれば意味のない言葉だらけだ。もしも「意味」というものが希求されるのであれば、それは個々がその一回の発話で達成するものではなく、会話に参加している全員のコミュニケーション全体で達成されるものなのだ。
 何か一つの行為に、その一歩に、確実な意味なんかなくていい。その投げ出された行為は誰かに受け止められ、インタラクションの中で意味は形成されていく。僕達がすることは、社会という地面を信じて一歩前に身を投げ出すことだけだ。
_________________
『弱いロボット』岡田美智男

 目次

 はじめに

第1章 言葉のもつリアリティを求めて
 1 そのしゃべりで暮らしていけるの!?
 2 雑談の雰囲気をコンピュータで作り出せないか

第2章 アナログへの回帰、身体への回帰
 1 嵐の前の静けさ
 2 とりあえず作ってみる
 3 もっとソーシャルに!

第3章 賭けと受け
 1 「静歩行」から「動歩行」へ
 2 言い直し、言い淀みはなぜ生じるのか
 3 行為者の内なる視点から
 4 おしゃべりの「謎」に挑む
 5 「地面」と「他者」はどこが違うのか

interview 「とりあえずの一歩」を踏み出すために

第4章 関係へのまなざし
 1 一人ではなにもできないロボット
 2 サイモンの蟻
 3 ロボットのデザインに対する二つのアプローチ

第5章 弱さをちからに
 1 乳幼児の不思議なちから
 2 ロボットの世話を焼く子どもたち
 3 おばあちゃんとの積み木遊び
 4 「対峙する関係」から「並ぶ関係」へ

第6章 なんだコイツは?
 1 どこかにゴミはないかなぁ
 2 「ゴミ箱ロボット」の誕生
 3 ロボットとの社会的な距離
 4 学びにおける双対な関係
 5 ロボット-「コト」を生み出すデバイスとして

 参考文献
 あとがき はじめに

第1章 言葉のもつリアリティを求めて
 1 そのしゃべりで暮らしていけるの!?
 2 雑談の雰囲気をコンピュータで作り出せないか

第2章 アナログへの回帰、身体への回帰
 1 嵐の前の静けさ
 2 とりあえず作ってみる
 3 もっとソーシャルに!

第3章 賭けと受け
 1 「静歩行」から「動歩行」へ
 2 言い直し、言い淀みはなぜ生じるのか
 3 行為者の内なる視点から
 4 おしゃべりの「謎」に挑む
 5 「地面」と「他者」はどこが違うのか

interview 「とりあえずの一歩」を踏み出すために

第4章 関係へのまなざし
 1 一人ではなにもできないロボット
 2 サイモンの蟻
 3 ロボットのデザインに対する二つのアプローチ

第5章 弱さをちからに
 1 乳幼児の不思議なちから
 2 ロボットの世話を焼く子どもたち
 3 おばあちゃんとの積み木遊び
 4 「対峙する関係」から「並ぶ関係」へ

第6章 なんだコイツは?
 1 どこかにゴミはないかなぁ
 2 「ゴミ箱ロボット」の誕生
 3 ロボットとの社会的な距離
 4 学びにおける双対な関係
 5 ロボット-「コト」を生み出すデバイスとして

 参考文献
 あとがき
________________


弱いロボット (シリーズ ケアをひらく)
岡田美智男
医学書院




書評:『私の個人主義』夏目漱石

2013-02-20 21:30:32 | 書評
 「どんな犠牲を払っても、ああここだという掘当てるところまで行ったらよろしかろうと思うのです」

 夏目漱石がこんなダイレクトな物言いをしているのを、僕はこれまで知りませんでした。
 『私の個人主義』というのは、漱石の講演を書き起こしたもので、冒頭部分は講演をすることになるまでの長い経緯だとか挨拶が書かれていて、昔読んでみた時、僕はそこで退屈してやめていました。今日は最後まで読んでみたのですが、すっかり心打たれる講演です。

 以前、高橋源一郎さんが「漱石だけは明治文学の域を超えている。彼だけは他の明治の作家とは違う」というようなことを言っていらっしゃいました。僕にはそれがどうしてなのかずっと分かりませんでした。加えて、僕はある程度本を読むのが好きな方の人間ですが、漱石はいくつか読んでみてそんなにも面白いとは思わなかったので、取り立ててそれ以上知ろうともしませんでした。
 今日、『私の個人主義』を読んでみて、どこが「明治文学を超えている」のか分かった気がします。明治文学はロシア文学の輸入に終始している感が、あるいは西洋かぶれ、国家主義に終始している感がありますが、漱石はそれを乗り越えて「個人主義」「自己本位」の文学を組み立てました。

 漱石が、「西洋盲従」「他人本位」から「文学は自分で作るしかない」という「自己本位」に到達したのはイギリス留学中のことです。
 1900年(明治33年)、当時33歳の夏目漱石はイギリスに留学して、「漱石発狂」とも噂されるまでに酷い神経衰弱に陥りました。しかし、その間に漱石は決定的な何かを掴んだわけです。1年少しで帰国し、教師の仕事を転々としたあと、神経衰弱の治療も兼ねて『我輩は猫である』を執筆。1905年「ホトトギス」への掲載となりました。ここから次々と日本文学史に残る作品を発表していきます。僕は先程も書いたように、漱石の作品をそんなには好きでなくて、でもそれは読んだ時まだ自分が若かったせいなのかもしれないなとも思っていますし、同時に、漱石が目指していたことがいくらか達成された後の時代を生きているからかなとも思っています。どちらにしても、この先人の言葉に、「負け惜しみの強い」「こじつけ」という意味の偏屈なペンネームで作品を書き続けた偉大な先人の言葉に、僕は強く背中押されます。

 『 以上はただ私の経験だけをざっとお話ししたのでありますけれども、そのお話しを致した意味は全くあなたがたのご参考になりはしまいかという老婆心からなのであります。あなたがたはこれからみんな学校を去って、世の中へお出かけになる。それにはまだ大分時間のかかる方もございましょうし、またはおっつけ実社界に活動なさる方もあるでしょうが、いずれも私の一度経過した煩悶(たとい種類は違っても)を繰返しがちなものじゃなかろうかと推察されるのです。私のようにどこか突き抜けたくっても突き抜ける訳にも行かず、何か掴みたくっても薬缶頭を掴むようにつるつるして焦燥れったくなったりする人が多分あるだろうと思うのです。もしあなたがたのうちですでに自力で切り開いた道を持っている方は例外であり、また他の後に従って、それで満足して、在来の古い道を進んで行く人も悪いとはけっして申しませんが、(自己に安心と自信がしっかり附随しているならば、)しかしもしそうでないとしたならば、どうしても、一つ自分の鶴嘴で掘り当てるところまで進んで行かなくってはいけないでしょう。いけないというのは、もし掘りあてる事ができなかったなら、その人は生涯不愉快で、始終中腰になって世の中にまごまごしていなければならないからです。私のこの点を力説するのは全くそのためで、何も私を模範になさいという意味ではけっしてないのです。私のようなつまらないものでも、自分で自分が道をつけつつ進み得たという自覚があれば、あなた方から見てその道がいかに下らないにせよ、それはあなたがたの批評と観察で、私には寸毫の損害がないのです。私自身はそれで満足するつもりであります。しかし私自身がそれがため、自信と安心をもっているからといって、同じ径路があなたがたの模範になるとはけっして思ってはいないのですから、誤解してはいけません。
 それはとにかく、私の経験したような煩悶があなたがたの場合にもしばしば起るに違いないと私は鑑定しているのですが、どうでしょうか。もしそうだとすると、何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。容易に打ち壊されない自信が、その叫び声とともにむくむく首を擡げて来るのではありませんか。すでにその域に達している方も多数のうちにはあるかも知れませんが、もし途中で霧か靄
のために懊悩していられる方があるならば、どんな犠牲を払っても、ああここだという掘当てるところまで行ったらよろしかろうと思うのです。必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方のご家族のために申し上げる次第でもありません。あなたがた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申上げるのです。もし私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もしどこかにこだわりがあるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ。――もっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かにぶつかる所まで行くよりほかに仕方がないのです。私は忠告がましい事をあなたがたに強いる気はまるでありませんが、それが将来あなたがたの幸福の一つになるかも知れないと思うと黙っていられなくなるのです。腹の中の煮え切らない、徹底しない、ああでもありこうでもあるというような海鼠のような精神を抱いてぼんやりしていては、自分が不愉快ではないか知らんと思うからいうのです。不愉快でないとおっしゃればそれまでです、またそんな不愉快は通り越ているとおっしゃれば、それも結構であります。願くは通り越してありたいと私は祈るのであります。しかしこの私は学校を出て三十以上まで通り越せなかったのです。その苦痛は無論鈍痛ではありましたが、年々歳々感ずる痛みには相違なかったのであります。だからもし私のような病気に罹った人が、もしこの中にあるならば、どうぞ勇猛にお進みにならん事を希望してやまないのです。もしそこまで行ければ、ここにおれの尻を落ちつける場所があったのだという事実をご発見になって、生涯の安心と自信を握る事ができるようになると思うから申し上げるのです。』

kindleでタダで読めます↓
kindleは端末を持っていなくてもiPhoneアプリもアンドロイドアプリもありますし、PC用のソフトもあります。もちろん全部無料です。
私の個人主義
夏目漱石
メーカー情報なし


もちろん岩波も↓
漱石文明論集 (岩波文庫)
夏目漱石
岩波書店


青空文庫も↓
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/772_33100.html

書評:『犬はどこから…そしてここへ』畑正憲

2013-02-20 16:53:10 | 書評
犬はどこから…そしてここへ
畑正憲
学習研究社

 僕の大好きなムツゴロウさんの一番新しい本です。
 「ムツゴロウさんの本」というとキョトンとする人が結構いるけれど、ムツゴロウさんは作家で、たぶんこれまでに100冊程度は本が出ているのではないかと思います。
 僕が子供の頃は「ムツゴロウと愉快な仲間たち」というテレビ番組がゴールデンで流れていて、「子猫物語」とか「REX」といったムツゴロウさんの映画も夏休みにやっていて、学校で使うノートも表紙が動物の「ムツゴロウ学習ノート」で、クラスに1人は「将来ムツゴロウさんの動物王国で働きたい」というような人がいました。

 それでも、というか、それ故にか、ムツゴロウさんを「ただの変な動物おじさん」だと思っている人がとても多いのですが、ムツゴロウさんは作家で、あの「ヨーシヨシヨシ」と動物をかわいがる姿からは想像しにくい激しい生き方をされています。
(参考:Wikipedia「畑正憲」

 麻雀も強くてプロ麻雀連盟の相談役です。強いだけではなく、お正月には三日三晩トイレ以外不眠不休で打ち続けると何かに書いてありました。Wikipediaには10日間打ち続けたこともあると書いてあります。

 僕が小学生の頃は結構誰も彼もがムツゴロウさんを好きだったように思いますが、中学生の頃になると「実は悪い人で裏で動物を虐待している」という噂が優勢になっていたような気もします。
 僕は高校から大学学部時代に掛けて、かなり沢山ムツゴロウさんの本を読んだのですが、ムツゴロウさんは「ただ動物を可愛がる」というよりも、人と動物が一緒に何かをすることに興味を持たれている印象を受けました。走り過ぎて馬が死んでしまうような競馬にも意気揚々と参加されていたと思いますし、スリランカで象使いに弟子入りしたときもでっかいバールみたいなやつでしっかりとゾウを叩いておられました。娘を動物好きに育てたら、魚を殺して食べることも拒否するようになりそれに衝撃を受けて、もっと深いことを教えようと思ったというエピソードが無人島へ移り住む前後の本に書かれていて、これはムツゴロウさんのスタンスを象徴的に示していると思います。

 さて、Wikipediaには、東大の修士にいたとき、

「研究の途上で文学の世界で生きるか、研究者の世界で生きるか悩み、自殺寸前まで精神的に追い詰められ、突如研究室から姿を消した」

 と書かれています。

 そして、この『犬はどこから…そしてここへ』の冒頭にはこうあります。

「私は、教えることと、学問を自分の正面に出すことを、非常に嫌っていました。自分は文学を書くんだという気取りがずっととれなかったんです」

 ええ、この本は今までのムツゴロウさんの本とは少しだけ毛色が違います。

 「今回は、思い切って犬についての話をさせていただきたいと思います」
 「私の新説を聞いていただくのは、今日が初めてです」
 「犬は、私にとって特別な生き物でありました」

 こんな前口上で始まります。
 講演の録音が元になっているので、話があちこちに飛んで少しわかりにくいのですいが、新説というのは副題にもある「犬は狼の子孫ではない」というものです。
 今から14万年前、僕達の祖先ホモ・サピエンスが誕生しました。ミトコンドリアDNAの分析によればイエイヌが誕生したのも同じく14万年前です。ホモ・サピエンスはその頃から体が大きくなりますが、それは肉食によるもので、たぶん犬と一緒に肉を食べていたのではないかというのがムツゴロウさんの推測です。
 犬には他の動物には見られない、特殊な性質が、それも人と共に社会を形成する性質があります。狼や狐はどんなに子供の頃に慣れても、大きくなるとムツゴロウさんが「第二次社会適応期」と呼ぶものがやってきて原野に帰って行ってしまいます。でも犬は離しておいても人間の近くにずっといる。一緒に狩りをしても、犬は獲物を食べない。人間が獲物の肉を与えてはじめて食べる。きっと、14万年前に犬と人は契約を交わし、仲良くなり、そして共に長い年月を生き延びてきたのだ。

 あとがきに、まだ科学的に証明されたことでもないし、もっと調べたいこともあるから本当はまだ発表したくなかった、と書かれているように、これが本当に正しいのかどうかは分かりません。でも、一般的に信じられている「狼が人に慣れて犬になった」という意見には「ムカつく」とムツゴロウさんは書いています。学術的な文献を読むだけでなく、世界中で犬に体当たりしてきたムツゴロウさんの意見に僕は耳を傾けたい。
 それに、もしもムツゴロウさんの説が正しくて、人類が人類だけでではなく、本当に犬と共に14万年も生きてきたのだとしたら、こんなに素敵な歴史観は他にちょっとないと思うのです。

犬はどこから…そしてここへ
畑正憲
学習研究社

書評:『あなたを天才にするスマートノート』岡田斗司夫

2013-02-19 14:33:06 | 書評
あなたを天才にするスマートノート
岡田斗司夫
文藝春秋

 前回、岡田斗司夫さんの『評価経済社会』という本を紹介しました。とても見通し良くすっきりと書かれた本だったので、頭の中がまとまった賢い人なのだろうな、という印象を受け、三部作として紹介されていた残りの2冊も読んでみることにしました。
 ただ、残る2冊はタイトルが結構厳しくて、『あなたを天才にするスマートノート』と『人生の法則 「欲求の4タイプ」で分かるあなたと他人』というものです。かなり胡散臭いですね。ビジネス本とスピリチュアル本みたいですね。

 通常であればタイトルを見ただけで手を出すことはなさそうな本ですが、著者が岡田さんなので読んでみました。
 岡田斗司夫という名前を僕がはじめて見たのは十数年前、高校生の頃です。当時『トンデモ本の世界』という「と学会」が出した本が売れていて、岡田さんはその「と学会」の会員でした。『トンデモ本の世界』という本は、世に出回っている”トンデモ本”をウォッチして楽しむというスタイルの意地悪な本です。たとえばUFOについて真剣に書かれた本を取り上げて「ここにこう書いてあるけれど、全然辻褄合ってないですね。著者の人どういうつもりなんでしょうね、バカですね、プッw」というような。
 この本は意地悪だけどとても面白くて、僕は色々な影響を受けました。僕の物事を批判的に見てしまう性向の一部はこの本に起因していると思います。

 少し話はずれますが、数年前、僕は町山智浩さんという映画評論家の存在を知って、彼の評論を好むようになりました。不幸なことに、僕は「映画が大好きだ!」という程には映画が好きではないので、あまり映画を見ないのですが、町山さんの映画評論は評論だけで既に映画よりも面白いです。「この人は本当に映画が好きなのだ」ということがヒシヒシと伝わってきます。悪口ばっかり言ってらっしゃいますけれどw。(参考:町山智浩の映画塾
 しばらくして、町山智浩さんが『トンデモ本の世界』の仕掛け人だったということを知り、また昔読んでいた別冊宝島のいくつかも町山さんの手によるものだったということを知りました。加えて町山さんはもともと、みうらじゅんさんの担当者で、みうらさんからは「バカの町山」と呼ばれています。というか「町山智浩」と書いて「バカ」と読むことになっているそうです。僕は知らぬ間に長期に渡って町山智浩という人の影響を受けて来たことになります。

 閑話休題。
 岡田さんは、ガイナックスを作った人で、オタキングで、最近ではレコーディングダイエットの人で、そういうこともなんとなく知っていました。『評価経済社会』がはじめて読んだ岡田さんの著作だったので、詳しいことは何も知らないですが、その漠然としたイメージからも、『評価経済社会』の内容からしても、『あなたを天才にするスマートノート』と『人生の法則 「欲求の4タイプ」で分かるあなたと他人』の2冊が、よもや単なるビジネス本やスピリチュアル本ではないだろうという予想はできます。

 結果的に『人生の法則』の方はパラパラと見るだけで”読む”には至りませんでした。僕には興味の持てそうにない内容でした。

 『スマートノート』の方は、なんだかんだ言って所謂「ノート術」の本だったのですが、技術的なことは置いておいて面白かったです。
 ノート術の本を読んで、ノート術とは関係のない何が面白かったのかというと、著者のスタンスです。

 岡田さんは子供の頃頭が良くて、だから悠々と遊んでいました。当然ノートを取るとかメモを取るみたいな泥臭いことはしなかった。ところが大人になるに従って、自分の到底敵わない人達と出会うようになり、彼らに太刀打ちする「メモを取る」ようなります。するとメモには強烈な力があることが分かり、やがてそれはノート術へと発展します。この本は20年間に渡る岡田さんのノート試行錯誤結果ということです。
 岡田さんは1958年生まれで、今54才。僕は1979年生まれで、今34才です。岡田さんは僕のちょうど20年先輩に当たります。賢い人だなと思え、面白いと思う本を書かれた20才の先輩が、ちょうど20年分の思考錯誤の結果を公表しているのなら、僕はそこから学ぶことがたくさんあるはずです。こんなラッキーなことはあまりないと思います。
 そこには「うまくできているウェブサイトはノートに丸ごと写してみる」というような本当に泥臭いことが書かれています。つまり、そういうことだということです。「賢く見られたい」という見栄でスマートさを求めるのではなく、「本当に賢くなる」為に泥臭いことを厭わないという姿勢がバサッと公開されています。

 岡田さんは自分が賢いということをIQテストで認識したと書かれています。実は僕も似たような背景を持っていて、子供の時に受けたIQテストが良かった為、本当に恥ずかしい話ですが自分のことを天才だと思っていました。だから成績がパッとしなくなってくると「最近ロックを聞くようになったからだろうか、ロックは脳に良くないのかな、クラシックにした方がいいのかな」とか本気で考えていました。もちろん成績が落ちるのは自分の努力不足のせいですが、そうではなくて頭脳のコンディションが乱れているのだと考えていたわけです。
 この時に、僕は自分のことを真摯に見つめて、「メモを取る」に相当する努力をはじめるべきだったのです。そういうことに気づかないのは天才でもなんでもなくて、むしろバカだったわけです。
 そういう反省がずっとずっとあって、だからこの泥臭い本を読んでとても心打たれました。僕自身はもともと常にノートを携帯していて、特にノートの使い方の何かを特に変更したわけではありません。ただ、ノートに見出す意味と、それに向かうスタンスが少しだけ変化しました。

あなたを天才にするスマートノート
岡田斗司夫
文藝春秋


kindle版もあります↓
あなたを天才にするスマートノート
岡田斗司夫
ロケット


あと、僕はもう何年もこのノートを使っています(クロッキー帳ですけれど)↓
マルマン クロッキーブック S・M・Lシリーズ 小 55枚 クリームコットン紙(中性紙) 60G/平方メートル SS2
クリエーター情報なし
マルマン(maruman)


トンデモ本の世界―MONDO TONDEMO
と学会
洋泉社

書評:『評価経済社会』岡田斗司夫

2013-02-19 02:37:31 | 書評
評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている
岡田斗司夫
ダイヤモンド社

 「評価経済社会」というタイトルが目に入った時、だいたいの中身は予想できるような気がした。インターネットの普及と発展に伴い社会は「貨幣」を中心としたものから「評価」を中心としたものへと移行しつつある、というようなことが書かれているのだろうと。

 日常的にネットを使っていれば、誰にでもそういうことは感じ取れる。たとえばアメリカのKickstarterや日本のCAMPFIREみたいなクラウドファンディングを利用すれば、「評価」さえ高ければ「貨幣」は以前よりもずっと簡単に集めることができるようになっているし、「評価」さえ一定以上あればTwitterを使って無銭旅行をすることもCouchSurfingを利用してよその国のよその家に泊めてもらうこともできる。

 かつて地域社会が強度に存在していた頃、人々は地域の中で交換したり贈与したり、持ちつ持たれつの生活をしていました。物やサービスの移動は必ずしも「貨幣」を媒介していなかった。お裾分けにリンゴを貰ったからお返しにサラダ油を持って行こうというような場合にはお金は登場してきません。もちろん、人々が全くお金を使わないで生きていたわけではないけれど「貨幣」を媒介しないルートもたくさん存在していた。

 その後、消費社会の発展に伴って、より多くの事が「貨幣」を媒介とするようになります。隣の家から醤油を借りてくる代わりにコンビニで醤油を買ってきて、悩み事の相談はカウンセラーにお金を払ってしてもらうことになった。同じ町内に冷蔵庫を余らせている人と買おうとしている人がいても、お互いに存在を知らないので、余らせている人は業者に頼んで捨ててもらい、買おうとしていた人は電気屋で買って来る、というあまりスマートでない状況が発生していました。

 孤立した消費者達による社会は、ネットの発展と共にいくらか孤立を弱め、僕達は金銭を媒介しないルートを取り戻しつつあります。それも以前よりずっと広い範囲でのやり取りを可能とするルートをです。

 そういうことが書かれているのだろうし、別に読むこともないか、と思っていたけれど、読み始めると面白くてそのまま読み終えてしまいました。

 この本によれば、僕達は今「農耕革命、産業革命に次ぐ大変革としてのIT革命」を生きているということです。実にエキサイティングな。
 こういう風にまとめてしまうと、これも今更本に書くようなことかという話だけど、パラダイムシフトのことを中心にざっと歴史の流れを説明する様は面白く読めます。

 パラダイムというのは、ある時代特有の考え方の枠組みのようなもののことですが、パラダイムが異なる時代のことは(お互いに)バカにしかみえない、ということが本書には強めに書かれています。

 狩猟採取時代の人々から見れば、農耕革命以後の中世人達は「土地と社会制度に縛られたかわいそうな人達」で、産業革命以後の近代人達は「自分で食料も捕れない情けない未熟者」です。

 中世人達から見れば、「狩猟時代人は野蛮で不安定でかわいそう」、「近代人達は私腹を肥やすために堕落してる」です。

 近代人達から見れば、「狩猟時代人は野蛮で無知無明でかわいそう」、「中世人は怠け者の上、宗教に洗脳されててかわいそう」です。

 お互いに全く理解し合えません。
 さらに、僕達現代人は「社会は時代と共に進化して良くなる」と信じきっていますが、それすら現代人の持つ独自のパラダイムでしかないようです。たとえば昔の中国では「古代が最も偉大な時代、その後はどんどん堕落してバカになって来てるだけ」という考え方が常識でした。

 中世人が近代人を「堕落している」と思い、近代人が中世人を「怠け者」と思うことについて補足しておくと、中世では勤勉は悪で、近代では善だということです。勤勉というのは「より沢山の何かを手に入れるために、より沢山働く」ということですが、それは欲望の表出でカトリック的に堕落です。

 近代以降「勤勉が尊い」ものになったのには理由があります。
 最近はベーシックインカムなどの議論も活発化していますが、基本的に近代以降の思想は「働かざるもの食うべからず」です。優秀な勝者がたくさん得て、負けた人達は貧しい生活を余儀なくされる。それが「正しい」という時代です。

 貧乏人なのはその人自身の所為で、努力不足、能力不足の所為で、自己責任だから仕方ない、という時代。昔はそんなことはなくて全部「神様の所為」でした。あの人が貧乏なのは神様の所為でかわいそうで、だから施してあげるのが「正しい」ことでした。

 「優秀な人が、努力した人がいっぱい取るのが正しい」という時代になった理由は、1つには、進化論や何かで自然界が「弱肉強食」であるという科学的な常識ができたからです。それは別に自然界のことであって、本来人間の生き方や倫理とは関係のない話なのですが、そうは言っても社会というものは段々と科学の影響を受けます。面白いことに「人間の社会も弱肉強食だね、ふーん」というだけにとどまらず「人間社会も弱肉強食が正しい」という信仰にまで思想が昇華しています。

 また別の理由は、近代以降の社会が大量の労働力を欲したからです。

「成長期を過ぎると優秀な工場労働者に育てるのは難しくなる。だから公教育が産業社会に不可欠だ」

 ということをアンドリュー・ウールという19世紀の社会学者が既に言っています。

 未来学者アルビン・トフラーは「公教育には表のプログラムと裏のプログラムがあって、表はリテラシーや計算なんかを教えることだけど、裏は”時間を守る””命令に従う””反復作業を嫌がらない”を叩きこむことだ」と指摘しています。

 酷い言い方をすると、工場の一部として大量の労働者が必要だったので、子供の時から「一生懸命に作業することが善だ」つまり「勤勉は尊い」と学校を使って叩き込んだわけですね。

 僕は個人的には小中高と受けてきた教育に強い反感というか、ほとんど恨みに近い感情を持っています。あんなものにホイホイ従っていた自分が恥ずかしいし、どうして誰も「学校なんてどうでもいいものだ」と教えてくれなかったのかとも思います。
 学校というところは随分とおかしな所で、この先、今の形態がそう長く続くとは思えません。新しいパラダイムを生きる人に「えっ、あの義務教育っての受けてたんですか!?」と言われる時代もそう遠くないと思います。

 「評価経済」という、この本の主題からは外れてしまいましたが、評価経済というものに関する本文での記述は、僕が最初に予想したものにそれほど遠くはなかったと思います。ただ、僕が思っていたよりもずっとダイナミックな変化であるという認識を得ました。

 追記;
 この「評価経済社会」を読んだ時に思い出した本があります。ホリエモンの「新・資本論 僕はお金の正体がわかった」という本です。副題に、僕はお金の正体がわかった、と書いてありますけれど、このお金の正体は「信用」とか「信頼」だと彼は結論付けています。たとえば病気になったときに入院や手術にお金が掛かるので、それが怖くて人々は保険に入ります。それはお金を使って不安を1つ取り除くという行為ですが、そんなことをしなくても病気になったときに助けてくれる友達や知り合いがたくさん入れば、入院するときにお金を貸してくれるくらいに親しい人達が周りにいればそれで大丈夫じゃないか、という話です。お金がなくて家賃が払えないなら、大きな家に住んでいる人に頼んで一室ただで貸してもらえばいい。そんなことおいそれと頼めるものでないと人は言うかもしれないけれど、そういうこともできない程度の人間関係しかない人生はそもそも無味乾燥ではないか、ということが書かれた本でした。堀江さんの「信用」と岡田さんの「評価」はとても似ていますね。

評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている
岡田斗司夫
ダイヤモンド社


kindle版もあるようです↓
評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている
岡田斗司夫
ロケット


新・資本論 僕はお金の正体がわかった (宝島社新書)
堀江貴文
宝島社

書評:『非道に生きる』園子温

2013-01-30 08:45:52 | 書評
非道に生きる (ideaink 〈アイデアインク〉)
園子温
朝日出版社

 園子温監督の著書「非道に生きる」を読みました。
 金子光晴の「おっとせい」を冒頭に掲げて、この本は始まります。

『だんだら縞のながい陰を曳き、みわたすかぎり頭をそろへて、拝礼してゐる奴らの群衆のなかで
 侮蔑しきったそぶりで、
 ただひとり、 反対をむいてすましてるやつ。
 おいら。
 おっとせいのきらひなおっとせい。
 だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで
 ただ
 「むかうむきになってる
 おっとせい。」  』

 金子光晴の名が出てくると、僕は必ず彼の「さくら」という詩を思い出します。

『さくらよ。
 だまされるな。
 あすのたくはへなしといふ
 さくらよ。
 世の俗説にのせられて
 烈女節婦となるなかれ。

 ちり際よしとおだてられて、
 女のほこり、女のよろこびを、
 かなぐりすてることなかれ、
 バケツやはしごをもつなかれ。
 きたないもんぺをはくなかれ。 』

 引用した部分は詩の終わりの部分ですが、この詩が発表されたのは1944年の5月で、同年3月には戦時下体制の為、宝塚歌劇団が休演、松竹少女歌劇団が解散して松竹芸能本部女子挺身隊が結成されています。金子光晴はざっくりと反逆の詩人と呼ばれていて、その反逆性のようなものがこの詩にも色濃く表れている。

 さて、本書では前半に園子温の生い立ちが綴られています。
 小学生のときにどうして裸で学校へ行ってはいけないのだと思い、本当に裸で学校へ行ったという記述があります。それが駄目だと言われると今度は性器だけを露出させたりしていたようです。
 起立、礼、着席にも一度も従ったことがなくて、学校では毎日教師に殴られていて地獄だったとも書かれています。僕は自分が小学生のときに素直に起立、礼、着席をして、それどころか前に倣えも、小さく前に倣えも、全部教師に従ってやってしまっていたことに物凄い後悔と恥ずかしさを覚えていて、それをとても重たく抱えて生きているので、この辺りは端的に嫉妬せざるを得ない。
 学校へ裸で行くという行動は一見するとエキセントリックですが、実は園は家を出る時から裸だったわけではなく、家を出てから服を脱いでいます。親の前ではできなかった。「やっぱりおっとせいはおっとせい」なのです。でも「むかうむきになっているおっとせい」なのです。

 小学校のあと、中学、高校、大学、20代と、時間軸を追って半生が語られます。小学校のエピソードから想像されるように、実にダイナミックな半生です。結果的に彼は映画監督として「成功」するわけですが、本の後半にこのようなことが書かれていました。

『作家が自分の価値観を守り抜くために必要なのは、冗談に聞こえるかもしれませんが、貧乏に負けないことです。自分の身の周りを思い起こしてみても、僕の好きな作家の幾人かは貧乏に耐えきれず、ある種のステータスを求めてどんどん他の業界へ去って行きました。
 かつて40代で四畳半の部屋に住んでいた僕は、「こんなところに住んでいて恥ずかしくないの?」とよく言われていました。でもヘンリー・ミラーやアルチュール・ランボーといった放浪作家に愛着を持っていた僕には、羞恥心がまったくなかった。むしろ「いい歳こいて貧乏」はかっこいいと思っていたくらいです。』

 ぐっと来ました。
 僕はどちらかというとこういうタイプの人間でしたが、ここのところどうしてよいのか良く分からなくなってきていたのです。貧乏に負けそうな気分をしばしば味わっているということもあります。園子温がこういう風に書いているから、やっぱりそれでいいんだと単純に思ったわけではありません。特に311以降激しい無力感に苛まれて、金、権力、武力と言った分かりやすい力が、社会のある部分と戦うときに必要なのかもしれないと思うようにもなりました。

「四畳半を出よ」と昔書いたこともあります( http://blog.goo.ne.jp/sombrero-records/e/29ed049773e2daf3ee6bf1b11e4fc0d5 )。
 これは森見登美彦の「四畳半神話大系」というタイトルに激しいいやったらしさを感じたことと、村上隆の「芸術=貧乏」という図式が日本にインストールされているという意見から、「良い青春=貧乏」という図式の中で自分たちは生きてきてしまったのではないかという反省を導出したものです。
 だから、僕は貧乏に対する憧れのようなものも、別にもう持っているわけではなくて、ただ”あちら側”の差し出してくる「どうどう、これ買ったら幸福な気分になれますよ」「こういうことするのが幸福ということですよ」「こういうことしない人はかわいそうな人ですよ」という、つまりコマーシャルと定式化された風潮作りに対する苛立ちを持っていて、そういうものには従いたくないと心がけているだけのことです。
 そうは言っても、「作家が自分の価値観を守り抜くために必要なのは、冗談に聞こえるかもしれませんが、貧乏に負けないことです。」という一文から強い力をもらったことには違いありません。

 本文の最後はこのように締めくくられています。

『これまでずっと同じ気持ちで映画を作ってこれたのは、極端に言えば「何を見ても面白く無いぞ」という精神があってのことだと思います。人はそれを「反逆」というかもしれません。気にかける必要はない。それは別に、反逆でも反抗でもない。自然なんです。ただ好きなよう自分が面白いと思ったことを追求すればいい。いつの間にか他人はそれを「非道」と決めつけるでしょうが、そんなときも自分が自分の良き理解者であり、パートナーであればいい。自分を見捨ててはいけません。非道であれーそのために、若い世代は自分の敵を見つけてほしい。そうした人たちの相手であれば、僕自身が敵になってもかまいません。』

 僕はなんとなく岡本太郎「今日の芸術」を読んだときの気分に近いものを感じました。
 とても力のある本だと思います。


非道に生きる (ideaink 〈アイデアインク〉)
園子温
朝日出版社

今日の芸術―時代を創造するものは誰か (光文社知恵の森文庫)
岡本太郎
光文社


金子光晴詩集 (岩波文庫)
金子光晴
岩波書店


芸術闘争論
村上隆
幻冬舎

出征した犬達

2012-10-29 15:40:13 | 書評
「殺してやろうと思って」と、温厚そうな青年が淡々と言うので、テーブルは一瞬間の静寂に包まれた。彼が殺そうと思ったのは野良猫だ。ある席でのことで、彼とはほとんど全員が初対面だった。「いやね、猫が来てね、庭に、ウンチするんですよ、それが臭くてね」、だから殺して当然でしょ普通にという含みで、毒を撒いてやったと、カジュアルに彼は言った。僕達が「ええー!?」と思っていることには気づいていない様子で、僕達が猫を殺すのは可哀想じゃないか、ということを言っても全く取り合ってくれなかった。それ以上言うと彼に「あなたは気が狂っています」という宣言をすることになるので、初対面の大人として話は逸らされ、何事もなかったかのように処理された。
 結構衝撃的だった春の話です。

 先日、飯田基晴監督の著書「犬と猫と人間と」を読みました。
 前回の記事で、同じタイトルの映画を紹介しましたが、それはまだ見ていなくて、先に本が手に入ったので読みました。
 良い本でした。
 読み触り、と言ったら変だけど、手触りの良いように丁寧に、しかしシリアスに書かれた本でした。犬や猫の殺処分について、あるいは人と動物が共に暮らすことについて、それが本の主題でもあるし、色々な考えを持ちました。

 ここでは、話の重要さとは少し別のベクトルで、全く知らなかったことで、とても驚いたことを書きます。
 それは、戦争中に人だけではなく犬も「出征」したということです。



 なんだこれは?
 というのが、最初に写真を見た時の感想です。悪い冗談かと思いました。

 下に写真を載せた回覧板にはこうあります、
  
『 私達は勝つために犬の特別攻撃隊を作って
  敵に体当たりさせて立派な忠犬にしてやりませう
  決戦下犬は重要な軍需品として立派な御役に立ちます
  また狂犬病の予病の一助としても
  何が何でも皆さんの犬をお国へ献納して下さい 』



 また1944年11月11日の朝日新聞には、

『 狂犬の汚名を受けるよりは死をもってお国の急に殉じようと、ワン公が揃って晴れのお召に応じた。立川署管轄内昭和町の全畜犬がお世話になった飼主の手を離れ、近く某航空研究所の大切な資材として、赤襷姿も凛々しく応召する。
  「飼犬も食べるものがないので最近では次第に気が荒み、中には狂犬になるのも多いのです。この際小さな愛情を棄て、進んでお国に捧げようじゃありませんか、犬死にといいますが犬の皮は飛行服に、その肉は食肉にもふりむけられるのです」との矢根署長の話が実を結んだもの 』

 とあるようです。
 なんとも嫌な記事です。
 犬が実際にどう使われたのかはともかく、1944年12月には軍需省化学局長・厚生省衛生局長が犬の献納を徹底するようにと通知を出し、運動は強制力を強めた。犬を差し出さなければ非国民というわけです。神奈川県だけで1944年の7,8月の二ヶ月で約1万7000頭が差し出されて薬殺処分した記録があると書かれていました。
 なんだこれは本当に。

 

 

犬と猫と人間と
飯田基晴
太郎次郎社エディタス

書評『「ゲーテの警告 日本を滅ぼす「B層」の正体」』適菜収:その時代は既に来た

2012-09-15 01:17:27 | 書評
 先日、ある女の子に「あそこのチョコレート屋が最近雑誌に良く出てて行列もできているから私も食べてみたい!!!」と言われて、「それはB層グルメですね」と返答したあと、B層という言葉の定義を教えてあげて雰囲気を悪くしてしまいました。

 B層というのは、ウィキペディアから概要を引っ張ってくると、

『 2005年、小泉内閣の進める郵政民営化政策に関する宣伝企画の立案を内閣府から受注した広告会社「スリード」が、小泉政権の主な支持基盤として想定した概念である。
スリード社の企画書では国民を「構造改革に肯定的か否か」を横軸、「IQ軸(EQ、ITQを含む独自の概念とされる)」を縦軸として分類し、「IQ」が比較的低くかつ構造改革に中立ないし肯定的な層を「B層」とした。B層には、「主婦と子供を中心した層、シルバー層」を含み、「具体的なことはわからないが、小泉総理のキャラクターを支持する層、内閣閣僚を支持する層」を指すとされる』

 同様にウィキペディアには、

『適菜収によれば、「今日ではより普遍的な概念として、人権や平等などの近代的価値を盲信する層のことも指す」のだという。』

 と書かれていますが、その適菜収さんが言い出したのが「B層グルメ」です。
 適菜さんの書かれた文章を引用すると、

 『 こうした状況の中、隆盛を極めているのが《B層グルメ》である。《B層》とは、平成17年の郵政選挙の際、内閣府から依頼された広告会社が作った概念で「マスメディアに踊らされやすい知的弱者」を指す。彼らがこよなく愛し、行列をつくる店が《B層グルメ》だ。

 いわゆる《B級グルメ》が「安くて旨(うま)いもの」であるのに対し、《B層グルメ》は必ずしも安いわけでも旨いわけでもない。しかし、《B層》は誘蛾灯(ゆうがとう)のように引き寄せられていく。なぜなら《B層グルメ》は、行動心理学から動物学まで最新の知見を駆使し、《B層》の趣味嗜好(しこう)・行動パターンを分析した上でつくられているからだ。店の立地、席の配置、照明の角度がマーケティングにより決定され、さらに「産地直送」「期間限定」「有機栽培」「長期熟成」「秘伝」「匠の技」といった《B層》の琴線に触れるキーワードが組み合わされていく。こうして、日本全国、駅前からデパートのグルメアーケードまで、同じようなチェーン店が立ち並ぶようになってしまった。「豚骨と鶏ガラ、魚介、30種類の野菜を3日間煮込んでスープをつくりました」みたいな闇鍋系ラーメン屋もこれにあたる。鍋に水と材料を入れただけなのに、「これが私の作品です」と一端(いっぱし)の料理人のような顔をしている素人が増えている。』
 (引用終わり、引用元:産経ニュース2012.4.6 http://sankei.jp.msn.com/life/news/120406/trd12040603050002-n2.htm )

 僕はいくつか前のブログ記事にこういう愚痴をこぼしています。

『 人の行いの、何もかもが丸っきり下らないように、ここしばらく感じていた。誰かが一生懸命に工夫したデザートだとか、絵画だとか、個展だとか、とにかく人が作った何かとか、あれが面白いとか、これがしたいとか、あの店がいいとか。もうほんとにどうでもいいじゃんそんなのアホらしい、と思っていた。本当はみんなそんなの全部アホみたいだと分かっているのに、でもそれらをアホみたいだと認めてしまったらもっとシリアスな何かと向き合う必要があって、それは非常に面倒なことだから、だからアホみたいだと思わないことにして、アホみたいだなんて全然思ってない振りして、アホみたいだという人をあの人変わってるからと嘲笑でなんとかやり過ごして、こんなに楽しいこと沢山あって良い人に囲まれた私は本当に素敵な人生を生きているのだと信じるように努めて、明日の下らない会社への出勤とその憂鬱を実際には大して気にしていないコーヒーの淹れ方にこだわる振りで誤魔化して、抑圧された日常の景色が詰まらないのは自分の見方が詰まらないからだ、そうだカメラを買って違う視点で街を見なおしてみよう、そうすればこの町も素敵に見えるはず、車で通り過ぎていたあの道路を歩いてみよう、そうすれば今まで見えなかった素敵が見つかるはず、とカメラを抱えて徒歩でウロウロして野良猫の写真を撮ったり、ほんとにみんなそんなことしたいのかよって思っていた。』

 「人の行いの、何もかもが」というのはちょっと言い過ぎで、それは強意の為の技巧でしかないのだけど、大概のものに対してはこういう気持ちでした。
 そして、これを投稿した翌日の夜、これも「911」という記事の冒頭に「昨日の夜、大宮通を自転車で走っていると、タコ焼き屋の店頭でタコ焼きを買っている友人にばったり会った。」と書いた友人が適菜収のことを教えてくれました。
 僕はまだ適菜収の著作をきちんと読んではいないのですが、彼の書いたものはいくらかネット上で読めるので断片的には読みました。適菜さんは大学時代にニーチェの研究をしていて、発言の根幹にはニーチェがあります。ニーチェは「現代人はサル以下の馬鹿で何言っても聞かないし、もう知らない」ということを言いながら発狂して死んでいった天才で、所謂「大衆」のことを「畜群」と呼んでいました。適菜さんは「B層」に「畜群」を見ています。
 見ているというか、以下のように「B層」=「畜群」と書かれていますね。

『 畜群はまさに《B層》である。真っ当な価値判断ができない人々だ。彼ら《B層》は、圧倒的な自信の下、自分たちの浅薄な価値観を社会に押し付けようとする。そして、無知であることに恥じらいをもたず、素人であることに誇りをもつ。ありとあらゆるプロの領域、職人の領域が侵食され、しまいには素人が社会を導こうと決心する。これこそがニーチェが警鐘を鳴らした近代大衆社会の最終的な姿だ。』
 (MSN産経ニュース2012.5.4 http://sankei.jp.msn.com/life/news/120504/art12050403110001-n3.htm より)

 そして、この引用中の「近代大衆社会の最終的な姿」というのが、適菜さんの著作の中ではこう書かれています。

『 なんだか世の中がデタラメになってしまったと感じます。
 三流のものがもてはやされ、おかしな考え方が幅を利かせています。
 本当に価値があるものは、ないがしろにされ、軽く見られ、「つまらないもの」「古くさいもの」「過去のもの」として扱われている。
 かつてドイツの古代史家バルトホルト・ゲオルク・ニーブール(一七七六~一八三一年)は、「野蛮な時代が来る」と警告を発しました。
 その言葉に巨匠ゲーテは呼応します。
「その時代はすでに来た。私たちは野蛮な時代に暮らしている。野蛮であるということは、すぐれたものを認めないということだ」
 そしてなおも今は、野蛮な時代です。
 嘘に嘘を塗り重ねて、八方ふさがりになっている。
 どこかで道を間違えて、行き先もわからず右往左往している。
 希望が持てない。
 街を歩けば居酒屋チェーンやファストフードばかり。
 テレビをつけても面白くない。
 書店に行けば、くだらない本が山積み。
 聴くに堪えないJポップ。
 大手商社がつくった表面上シックだけど安っぽいグルメアーケード。』
 (引用終わり 「ゲーテの警告 日本を滅ぼす「B層」の正体」立ち読み電子図書館 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/17799 より)

 僕は、自分には「本物の審美眼」があって畜群ではない、ということを主張したいわけではありません。単に、みんな本当はどう思っているのだろう、というのが分からなくて、どれくらいの人が「本当はこんなの嫌だけどしょうがない」と思っているのか、どれくらいの人が「こういうの素敵!」と思っているのか、そういうのが全然わからなくて、どうしてこの人達はこんなに詰まらない話をこんなに楽しそうにしているのだろうとか、本当は詰まらないけれど気を使って楽しそうに笑っているだけなのか、本当にこんな話が面白いのか、掛けるのが醤油かソースかどっちなのかというのを本気でそんなに熱弁しているのかとか、新発売のお菓子を一つ分けてもらってオーバーなリアクションをとらないと「冷めてるね」と言われるけれどそんな下らないことで人の熱い冷めてるを判断するのはどうしてかとか、だって僕は全然人生に対して冷めてなんかいないしオーバーなリアクションはとらなくてもキチンと感想は言うのに、どうしてキチンとした感想を語ることが「冷めて」いて、一言「なにこれー!超まっずーい、最悪」とか大袈裟なしかめっ面で言うのがOKなのか。どうしてちょっと自分の考えを話すと「いつもそんなこと考えてるの、頭いいんだねw頭悪いから全然わかんない、勉強きらいだしww」であっさり片付けるのか。
 そういうのが全然わからなくて、ときどき酷い孤独感に苛まれます。
 本当にみんなこういうのはどうでも良くて、ああいうのが好きなんだろうか。
 下らないものを下らないと言わないで、「楽しまなきゃ損」とか言って無理矢理テンション上げて遊ぶのが好きなんだろうか。そして、「考え方一つで嫌いな仕事を”好き”に変える方法」みたいな本を読んで、嫌いと思うのは損だからと嫌いを好きになったつもりで生きていくのだろうか。朝から深夜まで働いて休みもロクに取れない人が「忙しいから」と口にするのは時間管理のできない人間の証拠で言い訳でカッコ悪いとかみんな本当に思っているのだろうか。それは言い訳ではなくて事実なんじゃないだろうか。それでも「隙間時間を効率的に活用して趣味をこなす」人がカッコイイのだろうか。何かが嫌なのは「自分の考え方が間違っているから」で、忙しいのは「自分の時間活用法が間違っている」からなのでしょうか。
 ちょっと話がそれて来ましたが、僕には色々なことが良く分からなくて、街を歩くと全てが嘘に思えて何がなんだかまったく不思議に見えます。まるで、誰も行きたいと思っていないのに、行きたくないと誰一人言い出せず行く事になった、誰も楽しくはなく、楽しい振りだけがやりとりされる2次会のように。


ゲーテの警告 日本を滅ぼす「B層」の正体 (講談社プラスアルファ新書)
クリエーター情報なし
講談社


ニーチェの警鐘 日本を蝕む「B層」の害毒 (講談社プラスアルファ新書)
クリエーター情報なし
講談社

書評『希望難民ご一行様』古市憲寿:の大澤真幸レビューのレビュー

2012-06-11 13:42:19 | 書評
 しばらく前、大澤真幸による『希望難民ご一行様-ピースボートと「承認の共同体」幻想』([著]古市憲寿、本田由紀)のレビュー(http://book.asahi.com/ebook/master/2012030600001.html
)を読んだ。

 その後、僕はレビュー後半に書かれていた「目的性と共同性」について思う所を書き始めて、途中で有耶無耶になり放ったままにしていた。ここで目的性というのは「個人の夢や目標」、共同性というのは「みんなと仲良くしたい」のことを表していて、古市氏が「目的性と共同性を独立」と見なすのに対して、大沢氏は「人が欲するのは最終的に共同性だが、強い共同性に至るには目的性という手段が必要であり、2つは独立ではない」という反論をしている。
 これに関しては僕も大沢氏の意見に賛成だ。それは彼の挙げている例を読めばすんなりと来る。

(以下、上記サイトより引用)
たとえば、サッカーコミック『キャプテン翼』の翼と若林くんが、「ワールドカップ優勝」という目的なしでも深い友情を築けたかを考えてみればよい。2人がときどき会っておしゃべりしたり、お茶を飲んだりしても仲良しになったかもしれないが、その関係は一定以上には深まるまい。彼らが親友になるためには、「ワールドカップ優勝」というPが不可欠だ。
(引用終わり)

 似たようなことを最近良く考えていたので、これをもっと掘り下げて行こうとしていたのだけれど、その途中で放り出してしまった。さっき、改めて続きを書こうとして大澤氏のレビューを読み返したところ、前回はなんとも思わずに読み飛ばしたレビュー前半に今度は強い違和感を覚えた。なので、また目的性と共同性のことは先に送って、その前半について書きたいと思う。

 レビュー前半部でひっかかったというのは、「あきらめる」ということについてだ。前半とは言っても、大澤氏自身このレビュー全体の最後に

『「あきらめた方がよい」と言われても、いったい「何を」あきらめればよいのか。不幸の原因は、この点にある。』

 という一文を置いているように、これは前半部だけの問題ではない。むしろ主題はこの「何をあきらめるのか」ということにある(タイトルですからね)。

 では、この「あきらめる」の取り扱いを見てみたいと思う。
 僕はレビュー対象の本を読んでいないし、古市氏についてもほとんど知らないので、あくまでレビューからなんとなく読み取れることだけになるけれど。

 まず、古市氏が本の中で「あきらめて、仲間とそこそこ楽しい暮らしをする」ということを肯定的に書いている。
 それに対して本の共著者であり古市氏の指導者であった本田由紀氏が「それは社会のフリーライダーになるということで、みんながそんなことをしたら社会の持続性が失われる」という批判をしている。
 大澤氏は「あきらめろというのは個人的には良いアドバイスになることもあるが社会学者が言うのはどうか。たとえば差別があったときに、それをなくすのが大変だからといって、あきらめてそこそこの暮らしをするのが本当に良いのか」という批判を加えている。

 レビューをさらっと読んだだけの僕がいうのもなんだけど、この3者で「あきらめる対象」というのは果たして共有されているのでしょうか。この先は「読まずに書くな」と批判されることになると思うのだけど、批判を受けてはまた読んで書くということで、今は自分の想像を書きたい。

 僕は古市氏の言っている「あきらめろ」は、「疑え」に書き換えが可能なのではないかと思っている。
 「大きな夢や素敵なビジョンを掲げて、それに向かって努力して生きて行きましょう!これぞ人生!」というフレームワークについての話だ。これが一般的な話になり得るのかどうか僕は十分には知らないので、僕達というよりも僕という一人称で語るべきだろうか。僕はこのフレームに結構どっぷりと浸かって子供時代を過ごした。幸福とはその延長上に存在するものだと思っていたし、夢が小さい人というのはつまらない不幸な人なんじゃないかと思っていた。かなり長い間そう思っていた。トレンディドラマの最終回みたいに、恋人からも家族からも友達からも離れて、自分の夢を叶えるためにニューヨークやパリ行きの飛行機に泣きながら飛び乗るのが人生だと思っていた。

 もう随分昔のことになるけれど、中学生の時ある友人の下した結論に僕はショックを受けた。彼は、随分と高い偏差値があったにも関わらず、彼女と同じところに行きたいからというの理由で別の高校を受験した。当時の僕は今から思えばそのバカさ具合を嘲り笑う他ないくらいに偏差値の信者だった。高校というのは偏差値と大学進学実績で選ぶものだと思っていた。もう本当に可能であればタイムマシンに乗ってぶん殴りに行きたいくらいの間抜けな子供で、実際に高校の選択は今までの人生でもっとも後悔していることの一つです。
 当然のように僕は彼の選択を「もったいない」と思った。でも同時に心のどこかで「かっこいい」と思って悔しい気持ちもした。彼は自分の近くにある実感を大切にし、僕は得体の知れない偏差値というゴミに飲み込まれていた。完全に僕の負けだった。

 彼がその後どのような生活を送ったのか、あるいは送っているのか、僕は全く知らない。でも、やっぱきっとクールに生き続けているのだろう。そして、あきらめるという言葉を使うのであれば、彼はあの時「偏差値」をあきらめたのだ。蓋を開けてみれば、高校なんてどこに行っても同じことで、したければ勉強なんて自分でいくらでもできる。別に行かなくても大学に行きたいなら大検という手もある。偏差値なんて、つまるところ全くなんでもないものだったのだ。

 古市氏が「あきらめろ」と言っているのは、なんでもかんでもではなくて、さっきの偏差値に相当するような、トレンディドラマの最終回で旅立つニューヨークのような、そういう「実はなんでもないんだけど、夢に向かって!という教育をどっぷり受けてきたせいですこぶる重要に見えてしまう事象」に関してだけなんじゃないだろうか。
 だから、大澤氏が例に挙げている「男女差別をなくすことをあきらめる」とか、そういうのとはかなり違う感じがする。違うというか、むしろ逆の話で、古市氏の主張を「誰かの作った既成価値観から得る満足と幸福感をあきらめろ」と読み替えて良いのであれば、男女差別撤廃をあきらめるのではなく、"男女差別そのものを"あきらめるが正しい例になるのではないだろうか。
 そして、これは大澤氏の最後の一文「何をあきらめればいいのか」に答えたことにもなっていると思う。

 次に本田氏の「フリーライダー」だけど、ちょっと聞くだけならこの意見に賛同しそうになる。
 確かにそうなのだ。たとえば日本の全ての若者が「大文字の夢はあきらめた、今日からはみんなで自給自足で暮らす!」と言い出したら、誰がインフラを担うのだろうか、誰がハイレベルな製品を作って経済を回すのだろうか? 太陽光発電で自給自足って誰が太陽電池開発するの? ネットで繋がってるって、誰がネット整備してPC作るの? 自転車はエコな乗り物っていうけれど、あんな精密な金属加工、誰がするの? そもそも自衛隊はどうするんだ? 武器はどうする? 医療は? 誰が国を守る?

 が、しかし、ここに挙げたことは全部、現代社会を保持するという前提の元にある話なのです。
 僕はハイテクが好きだし、テクノロジーを放棄したいとは全く思わない。だけど、方法としては現代社会を放棄してしまって暮らすというのもないわけではないし、そうしたい人だっている。現代社会を前提として、それが維持できなくなるからダメだ、という論の運び方には素直に与することができない。それは折角作ったんだからこの社会を捨てるなんてけしからんという束縛だ。人間が動物としての身体機能を使いこなし、より自然と密に生きていく社会を、僕達はなにもあきらめなくたっていいのだけど、実質的にあきらめていて、そしてどうしてかそれは「あきらめる」にカウントされていないようだ。この世界を捨ててあの世界へ行くつもりか、という問いの影には、あの世界を捨ててこの世界にいるのだという忘れられた事実が存在している。


希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)
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光文社



不可能性の時代 (岩波新書)
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岩波書店




書評『風邪の効用』野口晴哉:野口晴哉という巨人

2012-05-14 15:14:43 | 書評
 夏、が呼ぶのかもしれない。
 彼はまあ、控え目に言っても随分と怪しい男だ。

 彼というのは野口晴哉のことで、この一風変わった人のことは、昔本を読んだきり、去年の夏まで完全に忘れていた。去年の夏、友人の個展で受付をしていると、足を痛めた様子の年配の方がいらして「野口先生がいたらなあ」というような話をされていたので、僕は思わず「野口先生って、野口晴哉のことですか?」と会話に割って入った。
 野口先生は、まさに野口晴哉のことだった。
 彼は1976年に死んでいて、僕にとっては本を2冊読んだだけの遠く遠く、そしてやや怪しい存在でしかなかった。でも、目の前に現れたその男の人は、かつて実際に野口晴哉の治療や指導を受けた人だった。

「なに、野口先生のこと知ってるの、君! へー、そうか、この子、野口先生知ってるってさ!」

「いえ、知ってるって言っても本読んだだけですよ」

 そうして、僕は野口晴哉という人が実際にどのような人だったのか、貴重な話を聞くことができた。それはもうすごかったらしい。なんだか良く分からないのだけどすごかったらしい。関西人らしく、主に擬音語を使って、パッとなんやしゃはったらギャイっと、という感じで受けた説明には、良く分からないけれど説得力があった。死後30年以上が経過して、医学も発達したはずなのに、それでもまだ彼に診てもらいたいと思うのだから、きっと本当に良かったのだろう。

 野口晴哉という人の存在を知ったのは、文庫化されていた彼の『整体入門』を読んでのことだ。僕は父の影響で子供の頃からかなり怪しい東洋医学っぽい本を読んでいたのだけど、野口整体はその中でも異質だった。当然だけど、一冊の本を読んだくらいでは何も分からなくて、これも文庫で出ていた『風邪の効用』を次いで買った。この本によれば、僕達が風邪をひくのは体のメンテナンスの為であるから風邪を敵視して無理矢理治すな、適切な経過を通じて風邪を体験すれば、体はひく前より良くなる、ということだった。
 僕は基本的にこういう大風呂敷の広げ方が大好きで、そして、この考え方は出鱈目だったとしても、できれば是非採用したいスキッとした嬉しいものの見方だった。

 先日、ツイッターで僕のタイムラインに、野口晴哉ボットのツイートが流れてきた。そこでまた、野口晴哉の言葉をいくつか読んだのだけど、それはやっぱり凄まじいようなものだった。

「晴れあり、曇りあり。 病気になろうとなるまいと、人間は本来健康である。 健康をいつまでも、病気と対立させておく必要はない。 私は健康も疫病も、生命現象の一つとして悠々眺めて行きたいと思う。」

 この言葉を、病で愛する人を失いつつある人の前で言えるかというと、それは難しい。でも、この次元を一つ繰り上げた視点のとり方はきっと人を溌剌とさせるのではないかと思う。




風邪の効用 (ちくま文庫)
野口晴哉
筑摩書房


整体入門 (ちくま文庫)
野口晴哉
筑摩書房