思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

魂に触れる教育

2014年08月20日 | 宗教

 長崎県佐世保市で起きた高校一年生の生徒が同級生を殺害した事件を受けて、8月7日付読売新聞は、11面で「なぜ人を殺してはいけないのか~佐世保事件を受けて」と題して元法務教官魚住絹代さん、元高校教師水谷修さん、そして私の好きな宗教学者の山折哲雄先生のそれぞれのコメントが掲載された特集が組まれていました。

 そして、昨日19日付11面の「論点」では道徳教育論がご専門の武蔵野大学教授貝塚茂樹先生の「宗教取り入れ 命の教育」という記事が掲載されていました。

 山折先生は「死を教える教育 弱い」と題しての内容で、貝塚先生は、道徳の教育化の流れの中で「宗教の取り入れ/いのちの教育」を取り入れるべきだ、という内容です。

 日本人はどうしても国家宗教というトラウマが歴反省の中で醸成され、宗教に対するアレルギーが強いし、憲法では宗教の自由が保障され、信じることも信じないことも強制されないという視点から、宗教色の強いものは公的な行事も含め排除することが”正義 ”ということになっています。

 しかし公人が最低玉串奉奠(たまぐしほうてん)は許されるようですので、日本人はまぁ何とも不思議な宗教感覚をもつに至っています。

 西田幾多郎先生は、その前期の著『善の研究』の中で、

「・・・我々は自己の安心の為に宗教を求めるのではない、安心は宗教より来る結果にすぎない。宗教的欲求は我々の已(や)まんと欲して已む能わざる大いなる生命の要求である、厳粛なる意志の要求である。宗教は人間の目的其者(そのもの)であって、決して他の手段とすべき者ではないのである。」(『善の研究』ワイド版岩波文庫P210)

と書いています。

 このような流れの中で思うのは、それぞれの存在の魂に触れることの大切さが必要だと感じます。「魂」と書くと超常的な幽霊や霊能の世界を創造して、実体的な個的な存在にあるものとしての「魂」を内に描きますが、私の思うところはそのような世界の話ではありません。

 山折先生他の先生方の「魂」に触れ、西田先生の「魂」に触れその言葉の先を読み摂ろうとする「魂」をもとうということです。

 したがってその魂は生死に関係がない「もの」です。

 記事内容を受けて、そのような意味に解して、読売の今回の記事には耳を傾けたいと思ったわけです。


「いま」は常に過去

2014年08月19日 | 思考探究

「いま」は常に過去

 大脳生理学から見ると常に「いま」は過去である、ということが書かれていました。目から入った情報は、視覚野で解析されます。脳は形を解析したり、色を分析したり、さらに動きも解析します。

 この解析は独立して解析されてはいますが同時には行なわれていないのだそうです。どういうことかというと、形、色、動き、この三つはその解析にそれぞれ時間差があるということです。

 真っ赤なリンゴがテーブルの上にあるとします。

一番最初に気づくのは「色」

その次がリンゴであるということが解る「形」

そして最後に解るのが「置かれている」という「動き」

静止していれば動きもないだろうと思いますが「転がっている」か否かを考えれば働きの意味が解るかと思います。

従って「転がっている」ているということが解るまでには70ミリ秒かかるそうですから、眼の前に見る現象というのは時間的にいつも過去ということになるというのです。

 一口に「赤いリンゴが転がっている」と言いますが、そう言うとウソなのだそうです。なぜなら、それは決して同時の現象ではありえない。

 <ころがっている>瞬間の少し直前の<リンゴ>と、そのまた少し直前の<赤色>が、今の意識の中で一まとまりにされて「赤いリンゴが転がっている」ように錯覚しているだけ。人間は同時にはすべてを把握することはできないということです。

 そしてこうも書いてあります。

目の前の事態(コト)を把握するには、どうしても時間差がある。だから<転がっている赤いリンゴ>を正確に描写するには、

 いま目の前に転がっている物体があるがそれはちょっと前にはリンゴであって、その直前には赤い色をしていました。でもいまはどうだかわかりません。

というしかない。文章にすればこうなるのだそうです。

 さらにこうも書いてあります。

 文字を読んだり、人の話した言葉を理解したり、というより高度な機能が関わってくると、さらに処理時間が掛かる。文字や言葉が目に入ってきてから、情報処理をするまでには少なくとも0.1秒、通常0.5秒程度は掛かる。

ということです。

以上の話は、中高生向きに書いたという池谷裕二著『進化しすぎた脳』(講談社Blue Backs)に書かれてあるのですが、今まさにこの話を書いているのですが、このような話を以前ブログに書いたことに気がつきました。

 還暦を過ぎ、ついにボケはじめたかといえばそうなのでしょうが、

「今、いのちがあなたを生きている」

という言葉が浮かびました。

外を見ると遠く美ヶ原から陽が昇りはじめオレンジ色に染まってきました。

「いのち」の自明性

あまりにも当たり前すぎて気づきにくい話で、朝から静かな時を過ごし、何だかんだと打っていると、突然そんな言葉が出てきます。

まさに恩寵です。

善きにつけ、悪しきにせよ何ごとかが起こり、気づくかされます。

今今と、今という間に今はなく、今という間に、今は過ぎ行く。


恩寵が観えるとき・虚無から空への転換

2014年08月18日 | 哲学

「恩寵」という言葉の意味を一般的な国語辞典で調べると、

めぐみ。いつくしみ。
キリスト教で、人類に対する神のめぐみ。

という意味で、grace という英語の訳語と解説されています。

個人的にこの言葉を思い出す場面があります。もう2年前になるのですが平成26年4月22日のEテレ「こころの時代」の「生きる意味を求めて~ヴィクトール・フランクルと共に~」で哲学者の山田邦男先生が聞き手の山田誠浩アナの、「他者からの呼びかけに、他者の為に生きるというところには何か自己犠牲的な生きるということにちかいようなきがしますが」旨の質問に、次のように答えたときです。

※ヴィクトール・フランクルはヴィクトール・エミール・フランクルですが、以下フランクルとします。

【山田邦男】 実際にその人々の心の中で起こった出来事を見てみますと、単に自分を犠牲にして、そうしなくちゃ、ということよりも、もっと根本的に心の奥底から自分が揺り動かされて、そして結果的にはそのことによって、自分がこれから生きていく勇気、生きている歓びというふうなものが湧いてくると。

 それはおそらく自然に湧いてくるものであって、他人から道徳的に、いわば説教されたという感じで受け止めると、私は本当の人間の深い心の働きというものをきちんと見ていない。もっと人間の自然な人情、心の働きというのは深いものであると。

 つまりまさに無意識というレベルで起こるような深いことで、そういうことをフランクルは、「精神的無意識」というふうに呼んだんだと思いますね。自分の力で、ということでなくて、私はやはりそこは恵み、恩寵・・・神の恩寵というかどうか、別にしまして、なにか自分を超えたものからの催しと申しますか、仏教では廻向(えこう)というようなことを申しますけど、何かやはりそういう自分を超えた何か大きなものが、自分の心の深いところで働いてくれている。

【山田アナ】それが自分の歓びになっている、ということでしょうか。

【山田邦男】 そういうことだと思うんですけどね。フランクルの言葉で、もうちょっと申しますと、「意味への意志」という。「意味への意志」というのは、自分の人生を生き甲斐のある人生にしたいという願いなんですけど、そういう願いが人間の一番根本的な無意識だと、フランクルは考えていますね。

 その「意味への意志」という無意識が呼び覚まされたと言いますか、例えば先ほどの例で申しますと、愛する子どもが外国で自分の帰りを待っていると、そのことを思うと、自分はどうしても頑張らなくちゃいけないと。これは要は親心ですよね。自然に湧いてくるものであって、人間にはそういうものがあるのだ、という。それがフランクルの一番の療法としては基本的なもので、そういう「精神的無意識」という言い方で、そういう無意識が人間の一番根本のところにある。

 「無意識」という場合、精神医学とか深層心理学のフロイト(オーストリアの精神分析学者、精神科医:1856-1939)が最初ですけれども、無意識を発見した、と言われているわけです。我々は平素意識していないけれども、意識の底に意識されざる意識のようなものが隠れていて、これが時々悪戯をして人間に神経症を起こさせるんだと。そういう無意識もあるけれども、フランクルの考えでは、そういう無意識だけではなくて、精神的な無意識もあるのだと。フランクルの場合には、「愛」とか、「良心」とか、それから「インスピレーション~芸術的な直感」主にその三つを挙げているんですけど、その辺は実はもうちょっと複雑なんですけどね。例えば良心という・・・良い心という良心ですね、これは精神的無意識の一つです。  

<以上>

 長めの文立てで紹介しましたが、キリスト教でいう恩寵、仏教で言うところの廻向で、回光(えこう)という漢字を使う場合もありますが山田先生が精神的無意識という働きを説明されるなかで「恩寵」という言葉を使用されていました。

 私的にここで言及するならば、フランクル先生はユダヤ教徒でキリストの信仰する神はユダヤ教徒の神と同一ですから人格神的イメージにありますが、仏教ではダルマ(仏法)ということになります。従って教示に主体的イメージを持たせることはできません、そこで変化(へんげ)の仏がとって代られることになります。

 フランクルの思想の中には神という言葉が出てきますが、自己の信仰については述べることはありません。神信仰のうちにある者、無き者全てをその語りの相手とします。

 「神の恩寵」

ということに視点を置きます。

「何かやはりそういう自分を超えた何か大きなものが、自分の心の深いところで働いてくれている。」

 ここで言われていることは「もと」からの働きであり、それは何ものか、というもとへの探求がそこにあります。

 フランクルの思想は、その著『それでも人生にイエスと言う』(春秋社)の中で「ニヒリズムを通り抜け、今こそ新しい人間性に到達しなければならない」と語るようにニヒリズムの克服を前面に出す思想です。

 『人間とは何か』(春秋社)の中で、

 私は神経学者として、コンピューターが、われわれの言う中枢神経システムに対応するモデルであるとみなすことはまったく正当であると認めるものである。誤りは、人間とは一つのコンピューターに過ぎない、と主張されるときにはじめて生じるのである。人間には確かに一つのコンピューターである。しかし、同時に人間は無限にコンピューター以上である。ニヒリズムは、無について語ることによって仮面を脱ぐのではなく、「にすぎない」という語り口によって仮面をかぶるのである。」

と述べています。ここでいう「無」とは、実存的虚無感からの吐露です。絶対無や無我の境地などという場合の「無」ではなく「にすぎない」という働きない存在とでもいったところです。「あるがままに」というフレーズに何の意味も見いだせない存在とでもいったところでしょうか。

 「存在」というものに「にすぎない」と応えるか、「存在」に「恩寵」を観るかで克服の働きを見えてくるように思います。

「虚無から空への転換」

「神の恩寵」において、

 狂乱の人は「神の死」を叫びます。「彼は明るい午前にカンテラを灯し…神はどこかへ行ってしまったのか。・・・・我々が神を殺したのだ。・・・」(ニーチェ『悦ばしき知識)』と、神の恩寵は消え去えさり信仰無き苦悩する者は、実存的虚無感に襲われる。

 神無き後も恩寵を捉えることができるものは幸いである。

「虚無から空への転換」

とはこういう流れの中にあります。

恩寵を働きのうちに観ることができるか。

 絶対信の宗教的信仰があるならばこのように言及するまでもありませんが、世の中が進むと、どうしても次元の異なる声を聴かないと生けない幻想家・夢想家が増えてきます。

 現実思考(今に足がついている思考)ができない人と言えるかもしれません。

・麻の煙に酔いしれ、見えないものが見えてしまう。

・恩寵も見えないものですが観えてしまう。

この違いが解れば、自分は善しとしましょう。


時間は恩寵である。

2014年08月16日 | 哲学

 今から4年ほど前に「TIME・タイム」という映画がありました。裕福層余命100年、貧困層23時間だったような気がします。余命の時間を労働の対価として受けることもできれば、売買もできるそんな内容で、個人的にその映画の言わんとするところがよく理解できませんでした。生死という狭間に時間を設けその長短はあくまでも小刻みに進む数値でした。

 人は「時間」という「もの」に大いなる関心をもつ時があります。過去・現在・未来を生きるものとして「ある」をその存在理由におくと、どうしても「時間の矢」を想定せざるを得ません。

 飛翔の矢は、正に翔の最中にあり、飛ぶ鳥の飛行のように、自由に歩くその動きのように、物価が徐々に上がるように、まさにその動きの中にあります。

 しかしその飛翔の矢も、ある時点を捉えれば形而上学的に静止の矢を見ます。

 見るといっても思いの想(描きで)あって、物理学的に静止ていておかれる矢ように、位置エネルギーはゼロでその場から落ちることがなければ、慣性のエネルギーはもゼロです。ところが飛翔中の矢は、その一点で捉えて静止画で見ても目には見えない内に秘めた飛翔のエネルギーを持っています。

 そこには、次元の異なる飛翔の矢があるわけで静止の矢でも相容れない同じであって同じでない世界があります。そんなわけのわからない話は後にして、飛翔の矢に、時間の矢・生命の矢を重ねます。

 時間の矢は、また生命の矢であり、生命であるからこそ、人間は過去・現在・未来に生きる動物であると思うことができます。

 ピーター・コヴニー、ロジャー・ハンフィールド著『時間の矢、生命の矢』(野本陽代訳・草思社1995)は、

1 時間のイメージ
2 ニュートン力学の台頭~時間がその方向を失う
3 相対性理論~時間はいかにしてアンシュタインを負かしたか
4 時間と量子跳躍
5 時間の矢~熱力学
6 創造的進化
7 時間の矢、生命の矢
8 統一された時間観
9 終わりのない探求

で、その時間の神秘性を語っています。

「時間は人間にとって最大の謎の一つである。いつの時代にも人間は、大きな意味をもつにもかかわらず不可解な時間の本質について頭を悩ませてきた。時代を超えて、時間は詩人、作家、哲学者の心をとらえて離さないテーマであった。しかし、近代の科学者にとってそうではないらしい。現代の科学、とくに物理学は、物体の秩序に時間が果たす役割を、排除しないまでもないがしろにしてきた。時間は忘れた次元だったのである。
 誰もが時間は一方向にしか流れないことに気づいている。過去は固定され、未来は開いており、私たちの存在はその流れに支配されているように見える。私たちは時計を逆回しにして、まちがいを取り消したり、素晴らしい瞬間を取り戻したりできれたらいいのにと思っている。しかし残念ながら、常識が私たちの前に立ちはだかっている。歳月は人を待たず。時間は逆戻りしない。・・・」

は上記「時間のイメージ」の文頭の言葉、時間を考える人は、その世界を描き納得を求め語ります。

 「時間の矢」と言うとゼノンのパラドックスの話によく使われます。このように哲学における時間を語ろうとする人は、ギリシャの哲人たち(アルキメデス、アリストテレス等)の語りの中からその初源を語りだそうとします。定番と言ってもよいかも知れません。

 素人ですので多くを語る能力はありませんが、ゼノンは時間を無限に分ける、従って微分のその一点(静止)に、運動というものは存在しないという論法を見つけ出します。しかし、最初の方に書いたように次元が異なる話しで言及するまでもありません。

 人は大いに時間を哲学するものなのです。

 私は東洋人ですから6・7万年前にアフリカの大地を出発し、2万年ほど前にこの日本列島の原風景にたどり着いたホモ・サピエンスです。北方系(北回り)、南方系(南回り)の縄文人か、その後の弥生人で朝鮮半島などから渡ってきたかもしれませんがとにかくアジア大陸を東へと向かってきたわけです。

 アジア大地での経験が日本人の血の中に何かを刻み付けて行きます。最終的に火山列島、地震列島の島に至り、自然の恩寵が日本人を作ってきたようです。恩寵と書くと善的な明るい御加護を想起しますが、災害もその恩寵として人を捉えます。

 神の恩寵には、実りの歓喜ばかりではなく、苦悩する人間の叫びも含まれることになります。なぜこの世には善と悪があるのか、

「神の内なる自然」

 現象というものを哲学的に語るときに、この「恩寵」というものを論外に置き去りにすると、まさに裸の実存が現れ虚無感に包まれます。「時間」を語ることは「恩寵」を語ることでもあります。

 神なき時代に生きる人間にとって「時間」は同刻まれて行くのか、時々の大切さ、その一瞬の響きの中に「恩寵」を感じるしかない。人間の自由は「恩寵」なくして語れず、従って時間なくして語れない。シェリングの『人間的自由の本質』はそのことを語っているのかもしれません。

 まぁとにかく人は時間を語るわけです。

 『ウパニシャッドの思想』(中村元選集・春秋社)にこんな時間の語りを見ます。

「じつに時間には二つのかたちがある。時間と非時間とである。すなわち、太陽よりも以前から存在したものが非時間である。それは部分をもっていない。しかし太陽とともにはじまるものは時間である。それは部分をもっている(=分割され得る)ものである。」<上記書p287>

「聖仙のある人々は「自然の本性」を〔原理として〕語り、また他のある人々は、時間を〔原理として〕語る。かれらは混迷せる者どもである。これはじつに世界における神の偉大性である。それによってこの<ブラフマンの輪>は回転されているのである。」<上記書p584>

などの時間の記述を見ます。ここまで来ると原始仏教の世界を語らなければならなくなります。あくまでも上記のように文献を頼るしかありませんが、ここでまた中村元先生の教えの中に学びます。

 『原始仏教の思想Ⅰ』(中村元選集・春秋社)からの引用です。

<仏を見る>というのは、仏の肉体を見ることではなくて、ものごとの理法を見ることにほかならない。そうして無常説を述べていう。

『ヴァッカリよ、おまえはどう考えるか。・・・物質的かたちは常住(永遠不変)であるか。あるいはむじょうであるか。』
『尊師よ。無常です。』
『感受作用・表象作用・識別作用は常住であるか。あるいは無常であるか。』
『尊い方よ。それはみな常住です。』
『こういうわけだから、このように〔すべてのものは無常であると〕観じたならば、もはやこの世に生を受けることはない、と知るのである。』
この対話から見ると、無常なるものを通路として、永遠なるものに迫って行ったのであるということが解る。・・・・・さて時間い関する反省もここに道は開かれるのである。時間はそれぞれの各個人の生存に即して存在しているものであり、各人の生活を離れて時間は存在しない、ある天女が修行者を誘惑していった。
『修行者よ、あなたは享楽もなさらないで托鉢しておられます。あなたは享楽に身をまかせたあとで托鉢なさるのではないのですから。しかし、修行者よ、まず享楽してから托鉢なさいませ。あなたにとって時間が空しく過ぎることがありませんように。』

これを仏教成立以前の場面にかこつけての物語であるから、バラモン教一般の通念にしたがって、若いときには人生を享楽して、老年になってから出家して遍歴行者となることを天女は勧めているのである。ところが修行者は断った。

『あなたの<時間>をわたしは知っていません。時間は隠されて現れてきません。それゆえに享楽に耽らないで、わたしは托鉢するのです。わたしにとって時間が空しく過ぎ去ることがありませんように。』

このことばを聞いて、天女はその場を消え失せた、という。

ここでは時間が人によって別ものであると考えられている。<あなたの時間>はわたしには見えないし、<わたしに時間>はあなたには見えないという構造をもっている。そして時間は<生>と同一視されるとともに、またインドの古典語における用例が示すようにまた<死>を本質としている。インドの古典において「時間をつくる」といえば「死ぬ」ということである。時間と死のことである。・・・・・『時は過ぎ去り、昼夜は移り行く。青春の美しさは、しだいに〔われらを〕捨てて行く。・・・<以上上記書p433-p437から>

長い中村先生の語りです。これらの話から原始仏教の時間がどのよう語られ、<私>に語り聞かせているかがわかります。時間という恩寵は、

 一刹那の大切さ。今現在の大切さ。一期一会の出会いの大切さ。そして無常観にも現れます。

 さてさて他人の教えそのままに我は何を看取すべきか。

 加藤周一さんは『日本文化における時間と空間』(岩波書店・2007年)を書かれています。

「今=ここ」に生きる日本

 その本質について語っています。「はじめ」が文頭でその言わんとしているところが見えてくるのではないでしょうか。

 日本の諺言に「過去は水に流す」という過ぎ去った争いは早く忘れ、過ちはいつまでも追及しない。その方が個人の、また集団の、今日の活動に有利である。という意味である。しかしその事の他面は、個人も集団も過去の行為の責任を取る必要がない、ということを意味する。もちろんそれは程度の問題であり、どういう文化のなかでも過去に遡っての責任追及には限度がある。たとえば刑法に時効があるのは、日本の場合にかぎらない。しかし日本社会においては殊に、現在の生活を円滑にするために、過去に拘らぬことを理想とする傾向が著しい、といえるだろう。争いの決着を法廷でつけるよりも、過去を水に流して和解する方が、争いの性質によっては、便利で、実際的である。しかしたとえばだ第二次世界大戦後、しばしば指摘されてきたように、ドイツ社会は「アウシュビィッツ」を水に流そうとしなかったが、日本社会は・・・・以下略。

なぜ以下略にしたかというと、つまらんコメントが来ないことと、今回は政治問題ではなく「時間」を主眼にしているからです。

「過去は水に流す」

ここで語られる過去は、過ぎ去った時間のなかにあるその時の事です。

 過去を語ること、未来を語ること、そして今現在を語ることに「時間」があるのは確かです。

 戦争という言葉は、名詞であり、殺人から破壊・・・等の総称です。従って戦争という事はない、とも言え、だからと言って戦争というものはないとは言えません。

 時間という名詞も然り、時間という事はないが、時間というものはある。

 「もの」は「こと」に先立つか。

 物事の後先話ですが・・・・。

 時間は形成の論理にも密接にかかわる話です。

 時間は物事に現れるわけです。

 そして時間は恩寵なのだと思います。

 「過去は水に流す」

には、しかしどんな善悪の恩寵があるのか?

「物事は時間に現れ、時間は恩寵である」ということで止めておきます。


どうして自然はここまで無関心なのか?

2014年08月16日 | 思考探究

 ニュースなどを見ていると、日ごろから実存的人間は問われる存在であるなどというわりには、逆にこんな問いを発している時があります。

「どうして自然はここまで無関心なのか?」

 この字面(じづら)で「自然」という漢字をどう読むだろうか。

 ここに字面などという言葉を使いましたが、「語句や文章が表面的に示す意味」で、単純極まりない、見てのとおりの文章においてという意味で使いました。

 当然に「しぜん」と読むでしょう。「自然法爾(じぜんほうに)」を感得している人ならば「ほうに」などと読まず「無関心」などという言葉を付けることはないと断言できると思います。

 過去ブログにも書いたことですが、明治維新後の西洋輸入の言葉の世界に「ネイチャー(Nture)」を重ねるのが普通です。動物の世界から自然環境までをネイチャー・ワールドとして人は思います。

 しかし私などは、どういうわけか我が身の前に現れる、我が身に関わる物事も全てがこの二文字の中に取り込まれ、別の言い方をするとその意味範疇にあります、と表現できるように思います。

 ニュースを見ていると、自然災害や戦争やアフリカで発生している伝染病の脅威・・・限りなき悪の現象に、人間がそのような状態に置かれていることに、ある種の人間的な「無関心」を感じるわけです。

「どうして自然はここまで無関心なのか?」

と。

そして、「人間も自然の一部」というのが自然保護団体をはじめ「今に生きる」という境地を得た者も「自然=人間」を否定しないであろうと思いますから、上記の字面は、

「どうして人間はここまで無関心なのか?」

とも書けるのではないかと思います。

すると「人を殺すことも」「哀しみを背負う人々がいるということ」にも人間は無関心という事です。

「人はなぜ人を殺してはならないの?」

という言葉(この場合には字面としません)が、少し前まで話題になっていました。

 表現とは違いの表明でもあると思います。ある事態と異なる場合。

 その物はその物であって他の物とはことなる。人に名前があるように、花に名前があるようにより違いを特定するために言葉を使います。

 現象も然り、身に起こる「痛い」も「痛くない」があるからこそ「痛い」がわかる。

 雨が降るのも、晴れるのも、戦争があるのも人が殺されるのも、常にその真逆があるからです。

 「あるがままに~」

というフレーズが世間に響いています。誰もが大好きな歌声に耳を傾けます。

「私はあるがままの姿で行きたい」

「人はあるがままの姿で行きたい」

「自然はあるがままの姿で行きたい」

こんなことを考えていると、そもそもの問いの発想が真逆ではないか、常日ごろ文頭に書いたように、V・E・フランクルが語ったように「人間は問われる存在」であって「問う存在ではない」ということに気がつくわけです。

「あるがまま」

過去ブログでこの「儘(まま)」思考題材にしたことがありますが、今は別視点から思索。

 自分本位ではなく自己本位

そんな違いもフト浮かぶ。

「どうして自然はここまで無関心なのか?」

から始まる深淵なる根源からの疑問では無く、問いなのである。我と汝の汝からの問いなのである。

「自然は限りなく、あるがままなのである。」

「神の内なる自然」

この言葉がシェリング著『人間的自由の本質』(西谷啓治訳・岩波文庫)

に出てきます。あのニヒリズムの研究者で「宗教とは何か」の京都学派の西谷啓治先生の訳です。

 結論的な話ではなく、「自然は限りなく、あるがままなのである。」と考えてはいけない、ということで止めます。

 前段と後段では矛盾している、という指摘があるかまそれませんが、その処に私があるのです。


共感に非自己が見えてくる時

2014年08月15日 | 思考探究

 還暦を過ぎての24時間の仕事は疲れる。40分ほどかけ帰宅するのですが、長野県松本市、安曇野市は観光地、夏休み、お盆の休みもあるのでしょうか、普段より多府県ナンバーの車が多めのような気がします。山麓の信州ソバ屋さんの駐車場は満車状態です。

 地元のソバ屋さんはほとんど回ってみましたが、店側の個性、食べる側の好き嫌い、そば粉や汁、それぞれの組み合わせが店の選択の決め手になりますが、数多く通わないと好みの店は見つかりません。

 とりあえず、評判を頼りにすれば、いきなりの失敗はないように思います。

 当該ブログは、個人的に今何を考えているのか、その時点の綴りです。オープンではありますが、哲学でも宗教学でも諸々の学に関係した思考する過程、結果を掲出している素人のブログです。意見を戦わそうなどということは全く考えておらず、コメントの開示も催促される次元にありませんし、決定権はこちら側にあります。

 文書作成能力は推敲等をしないこともありその能力を書いていますが、読み解く能力はあると思います。コメントをされるのも結構なのですが、その意図することがまったくわからないコメントが、私のブログには多い状態にあります。

 私の文章が明白な主張を語るものでないこともあるので、類は友を呼ぶ的になるのか、せっかくのコメントですが開示しない場合があります。他人に何かを語るときには、明白な意図するところを語ってもらいたいものです。

 最近のブログに、

 ハンナ・アーレントは、自分よりもより自分に近い。

などという意味理解に疲れるようなことを書いています。このように表現したのは、前回のM・エックハルトの言葉、

「神は実に私自身よりももっと私に近い」

という宗教的思想の表現を借用し主語を置き替えただけです。

従って、

 「ハンナ・アーレントは、実に自分よりももっと自分い近い」

とすればよいのですが、崇高な神と同じように信仰の対象になるようなそのような存在にハンナ・アーレントを置いているのではなく、違和感なく理解でき共感できる思想の持主と言ったところの表現です。

 自分に近い他人、自分に重なる部分が多くもっている他人、ハンナ・アーレントは、歯車理論に語られる歯車にならないためには、「他者に対する影響や、他者に対する配慮」という他者への関心、他者を理解しようという生き方が、さておき機能することが重要であるとしています。

 私も過去ブログに書いたことがありますが、

 「動物に共感する能力があるか?」

という共感能力の(自分の欲望を)さておき機能するか、その能力があるのか否か、「なぜ共感能力が必要か」は別にして、その能力が、さておき機能するがとても重要に思えるという事です。

動物行動学者フランス・ド・ヴァール著の『共感の時代へ』(紀伊国屋書店)や最近ではNHK地球ドラマチック「動物は何を考えているのか」などという番組からどうも「動物には共感能力があるらしい」、人間以外にもあるらしい、それは人間も含めた原初的な本能として生るのではないか、ということを最近強く感じています。

 話し合う機会。

という他者との会話は、日常的にあります。しかし、ブログで描くような話ができる相手は100人に1人いればよい方で、そうはいません。

 屈託なく対話ができる、気を許した会話ができる、緊張感を持つことがない話しの場を共有できるなどと表現できる互いの関係性の中にあればとても気が楽です。

 それはどういうことなのか。

 人間関係をあらわした言葉で「水と油の関係にある」という隠喩を使い表現があります。水と水ならば交わることができますが、水と油では撹拌して直ぐに分離してしまいます。

 水はもっとも水に近い。

 油はもっとも油に近い。

近い以前に同義語を用いているのですから、つまらん話なのですが、そのように表現すると非常に理解しやすいと思います。

 人間関係もこのように、肉体的に分離していても、精神性に似たところがあればという話に重なりまする。

 それは<わたし>というものがあるとすれば、この<わたし>に重なる部分があるという事になると思います。<他者>がより<わたし>に近い関係。だからといって、

<他者>=<わたし>

まではいきません。肉体は別であり、人格なども個性なども全く異なります。存在として別なのですから当然の帰結です。

 「100人に1人いればよい方」というのは、哲学的な話ができる人はそうはいないという話です。

<わたし>はどこまで<他者>になれるか。

「他者に対する影響や、他者に対する配慮」

を、(自分を置いて=非自分)さておき考えることができるか、ということです。

「自分のことは後回し」

極端な自己抑制を言うのではありませんが、「共感」には非自分、非自己、非我・・・という世界が現れてきます。


神は実に私自身よりももっと私に近い

2014年08月14日 | 宗教

 今朝はキリスト教聖書のイエスの言葉から始めたいと思います。ルカ伝21章に近々エルサレムが軍隊に囲まれる。ユダヤの民は山に逃げ、街に居る人々は外に出て、その地以外に居るものはエルサレムに入るなという話が出ています。

 聖書物語の映画だと霧のような毒ガスとともにエルサレムの人々は悉く人の刃によって倒れ、捕虜にとなってあらゆる国に連れ行かれる、ノアの箱舟にも似たエルサレムに残りし民への鉄槌です。

 その後イエスキリストの来臨となり、御国は近いという話になっていきます。

 「神の国の近きを知れ」

 「人間は苦悩する存在である」とV・E・フランクルは語りますが、この世の災厄、苦悩の極地ほど「神の国は近い」と語られます。

 「苦労は買ってまでしなさい。」と経験者は未経験の若者に語って聞かせますが、そのような事態になった時こそ人間は試され、人は人になって行く、人間が人間になって行くという二度生まれの啓示にのようです。

 キリスト信仰はイエスの誕生に神を見ることになります。イエスの第一生まれです。W.ジェイムズの「第一生まれ」の人々は御国に生きる人々のようでしたが、生まれながら神ながらの道にある人と呼ばれるものでした。私はこのように要約してしまいますが、実際は翻訳本ですが次のように書かれています。

<『宗教的経験の諸相(上)』桝田啓三郎訳・岩波新書から>

 「彼らは、神を、厳格な審判者とは見ない、崇高な主権者とは見ない。むしろ、美しい調和ある世界に生命を与える霊、慈悲ぶかく親切な、清純であるとともに恵みぶかいお方として見るのである。こういう性格の者は、一般に形而上学的傾向をもたない。つまり、彼らは自己自身を省みることがない。それだから、彼らは彼ら自身の不完全さに思い悩むことがない。けれども、彼らを独善的と呼ぶのは、不条理であろう。というのは、彼らは自分自身のことなど少しも考えないのだからである。彼らの天性にある、こういう子供っぽい性質のために、宗教に入ることは、彼らにとってたいへん幸福なことになる。なぜなら、皇帝の前に出ると、親は慄(ふる)えるけれども、子供はひるまないが、そういう子供以上に、彼らは神を恐れてたじろぐことがないからである。事実、彼らは、神の厳しい専厳を成しているようないかなる性質についても、いきいきとした観念をもってはいない。
 彼らにとっては、神は慈愛と美との権化である。彼らは混沌たる人間界ではなく、ロマンティックで調和のある自然界のうちに、神の性格を読むのである。おそらく彼らは彼ら自身の心のなかに人間の罪があるなどとはほとんど知らないし、また、世界に人間の罪があることについても大して知っていない。人間の苦難もただ彼らの心に感動を呼び起すすだけのことである。かくて、彼らが神に近づく時にも、内心の動揺は起こらない。そして、まだ霊的な存在となっているわけではないから、彼らは、彼らの単純な崇拝のうちに、ある安らかな満足感と、おそらくはロマンティックな興奮を感じるのである。」

<上記書p124-p125から>

御国と言うと彼岸(ひがん)に見ますが、第一生まれは上記の如くに此岸(しがん)の話しです。W・ジェイムズは、フランシス・W・ニューマンの言葉を引用して語っているのですが、じつにわかりやすいはなしです。

 此岸とは以前にブログに書いたことですが、足下でもあります。今は、大地に立つ人間存在そのものの内を示していると私は解釈しています。

 13世紀の神秘主義のキリスト教者と呼ばれる、マイスター・エックハルト(以下M・エックハルトと記載)は西田哲学の中では多く語られる聖者ですが、大いなる迫害を教会側から受けた方です。

 『神の慰めの書』(相原信作訳・講談社学術文庫)の訳者序には次のように相原先生は書いています。

<『神の慰めの書』「訳者序」から>

 恩師西田幾多郎先生の「エックハルトやペーメのごとき深き思想家は、近代の哲学者のなかに見出し得ないところがある」という言葉は耳底にあってさらなかったが、カントに始まりフィヒテ、ヘーゲルを経、マルクスやニイチェのごときアンチ・クリストの洗礼に思想的彷徨の不安を深くした私は、長くこれらの真実の古典に近づくことをしなかった。科学と宗教、国家や社会と神、クリスト対アンチ・クリストなど現代共通の困難な問題は私をも、精神の分裂に追い込み、惨めな狂おしい状態に陥らしめた。元来のイデアリストであり、カント哲学によって哲学の基礎をきずかれた私には、所詮マルクスやニイチェは理解できなかったのかもしれない。・・・中略・・・「我が苦悩こそ神なれ、神こそ我が苦悩なれ」と好んで語るこの思想家は、その異常な勤勉さ、その非常な努力にもかかわらず、ややもすれば政治に拙に、現実世界における角逐に敗れて塗炭の苦しみに陥るドイツ国民の不可思議な性格を表現するもっともドイツ的な魂なのではないか・・・中略・・・この不完全なる訳業が、エックハルトの片鱗を日本の読者に伝え、近代精神の濾過を経たキリスト教の真理がいかなるものであるかを彷彿するよすがともなり、にほんの精神的目覚めに少しでも寄与することができるならば幸いである。

<上記書pp3-p9>。

 この相原先生の序は、1948年9月10日に書かれたものです。戦後のドイツ、戦後の日本がそこにあります。

 「現実世界における角逐に敗れて塗炭の苦しみに陥るドイツ国民の不可思議な性格を表現するもっともドイツ的な魂なのではないか」という言葉に、ユダヤ人ではあるがハンナ(ドイツ生まれ)・アーレント、V・E・フランクル(ウィーン生まれ)に同じ魂を見るような気がします。こう書くと反論を受けそうですが、何処か日本人にも似たところがあります。

 ルカ伝の話からM・エックハルトを語りかけているのですが、西田哲学でもよく使われるM・エックハルトの言葉ですが、『神の慰めの書』の第二部説教「六マタイ伝第21章第32節についての説教」の中の次の言葉があります。には確かに神信仰の根底が語られていることに感動しました。

<『神の慰めの書』から>

 ・・・神は実に私自身よりももっと私に近いというべきである。私自身の存在ということも、神が私に近く現存し給うことそのことにかかっている。私自身のみならず、一個の石、ひと切れの木片にとっても神は近く在し給う。ただこれらのものはそれを知らないだけである。・・・

<上記書p294から>

 西田哲学の西谷啓治先生の宗教哲学に語られるところですが、何せ素人の私、哲学者の森哲郎先生の講義の中でこの話を聴き、「神は実に私自身よりももっと私に近い」という言葉に感動し、それがM・エックハルトのことばであることに驚きました。

 ブログでもこれまでM・エックハルトの言葉をその著(訳本)の中から引用し「何事か」を語ってきましたが、軽薄そのものでその言葉に気づきませんでした。

 森哲郎先生は講義「西谷啓治の世界~意識を越えて~」の中で次のように語っていました。

<『信濃教育』第1526(平成26年1月号)から>

 ・・・これは前期の「絶対無」の三つの特徴(超越性・無我性・自由性)にも対応するが、前期・中期に一貫する興味深い視座は、この「神の根底(即自己の根柢)」が「自己の内に於て自己自身よりも一層自己に近い」という根本直観である。これこそが、まさに若き西谷啓治の「自己への勇気」(己事究明)を促した洞察として、「根源への要求」、自己の《もと》への究明であり、自己の対象化し得ないことの不思議な脱自的な絶対性であり、「絶対の此岸」としての「空」の立場を示唆することになる。・・・・

<上記書p102>

 森先生の講義は非常に難解で理解に苦しむところがほとんどですが、上記の「自己の内に於て自己自身よりも一層自己に近い」という言葉は、は先ほどのM・エックハルトの「神は実に私自身よりももっと私に近い」から由来するのですが、実に目がさめる思いがします。

 森先生の講義CDにして何十回聴きたのですが、時々の感動の中にこの言葉には、大いなる問いかけを受けています。

 M・エックハルトの上記の言葉の中の「一個の石、ひと切れの木片にとっても神は近く在し給う。」には道元さんの正法眼蔵の言葉を想起する人もおられると思いますが、個人的には、国史学者の西田直二郎(1886年12月23日 - 1964年12月26日)先生が『日本文化史序説』(昭和7年2月)の第四講「古代文化の概観其の一 神人融合 四八」に次のように書かれている部分が重なります。

<西田直二郎著『日本文化史序説』から>

 「草木咸能言語」。また「天地割判(わかる)の代、草木言語(ものかたり)せし時」ありとしたのは、古代の日本人が、わが住む世界について考えたこころである。われらの祖先は、その四周の山川草木のことごとくから、よく生ける声を聞いたのである。このこころのうちには自然の事象と人間の生命との区分が、なおあきらかについていない。而してこれはまた神と人との境が、いまだ大きく分けられていない状態であった。
 ここで示されている、「草木咸能言語(くさきことごとくよくものいう)」は、日本書紀巻二神代下、「天地割判(わかる)の代、草木言語(ものかたり)せし時」は、同じく日本書紀巻十九欽明天皇十八年に書かれている。

<上記書p207>以上>

 M・エックハルトの『神の慰めの書』の言葉、

 神は実に私自身よりももっと私に近いというべきである。

という言葉、現代においては悉く神無き時代における裸の実存です。西谷啓治先生の哲学からは、この「神」に「何ものを置くか」を学びます。


楽になれない自分を見る

2014年08月12日 | 思考探究

 一輪の花に、「他者に対する影響」や「他者に対する配慮」する善人的な思いを見てとれるような人間いなれたらと思うのですが、そもそも善人的行為は「このような行い」と言明しているようなものですから、どう見ても囚われの世界に遊んでいるだけです。

 愚直なる行いが、人の道ならばいいわけであって、一輪の花に悟りの境地を語ったところで既に「離れている」で、「不立文字」とはよく言ったものです。

 言葉を羅列して何を示そうとしているのか。

 これは私への問いでもある。

 私にとっては、ハンナ・アーレントの思想はある種の思考の転回です。サンデル教授の公共哲学における対話の中にみる、問われている事態を理解し、いかに公共性における”正義 ”を求めようする姿がそこにあります。

 ハンナ・アーレントは、自分よりもより自分に近い。

 前半の自分よりも、さらなる審級の自分にある。

 前半の自分は全否定されるわけではなく、単純に視点が転回されるだけです。前回は『責任と判断』における訳者である中山元先生の「訳者あとがき」の第一講の解説を掲出しました。今回はその続きで「第二講」をここに掲出します。

 カントの中村元訳『純粋理性批判』のわかりやすさを語るブログがありましたが、確かに中村先生の著書はわかり易い。私の本の読み方は「はじめに」と「おわりに」あるいは「あとがき」から読むようにしています。

 素人ですから理解力に乏しいわけで、この方法が理解のための視点の置き所はっきりするからです。

 とにかく講釈は置いておきます。

「第二講では、この道徳と自己の関係の特異な性格を考察しながら、第三帝国においてナチスの命令に逆らって、道徳的な無垢を維持することができた人々が採用したのは、「わたしにはどのような理由があろうとも、そんなことはできない」というものだったことに注目する。そのようなこういをしたら、わたしは自己との間で仲違いをしてしまい、もはや自分を愛することも、自己とともに心穏やかに暮らすこともできなくなるというのが、、こうした人々が悪をなすことを避けた根本的な理由だったのである。
 これは明らかに否定的な根拠である。善を為すことを選ぶのではなく、悪を為さないことだけが選べるのであり、そのためには死をもいとわないという明確な姿勢に貫かれていたのだった。アレントはこの根拠を哲学的に解明することで、それはソクラテスの示した命題だったことをつきとめる。プラトンの『ゴルギアス』では、ソクラテスがどうして不正を為すよりも、不正を為されるほうがましであるかを説明しながら、それは自己と、すなわちわたしという一人のうちにいるもう一人の人物と仲違いをするくらいなら、世界の全体と対立するほうがましだと宣言したのだった。この道徳律は、自己を根拠とするものであり、他者に配慮したものではないという意味で、西洋における道徳と自己との特殊な関係を象徴的に示すものであった。」

<以上『責任と判断』(みすず書房)訳者あとがきから>

 以前昭和期にソクラテスというよりもプラトンの著作を読んで死を選ぶ人間が増えたということを書きましたが、その時は単純ないつもの引用でしたが、この短い文章だけでストンと落ちました。

 文字に書かれるとこうなのか。

 死に逝く人の心境はわかりませんが、貫かれた考え方も人にはできることがわかります。

「わたしにはどのような理由があろうとも、そんなことはできない」

そう言えたらどんなに楽か。

本当は、楽にはなれないんですけど。

いつのまにか「悪の凡庸さ」に陥っているのかもしれない。


他者に対する影響や、他者に対する配慮

2014年08月11日 | 哲学

 2008年の映画に『愛を読むひと』(The Reader)というアメリカ・ドイツ合作映画がある。1995年 に出版された法律家で作家のベルンハルト・シュリンクの小説『朗読者』を、スティーブン・ダルドリー監督が映画化したものです。第81回アカデミー賞では作品賞を含む5部門にノミネートされ、ケイト・ウィンスレットが主演女優賞を受賞している。

 この映画に描かれている裁判では、アウシュビッツ強制収容所に勤務していた女性看守人がユダヤ人殺害に関与した罪で裁かれる。第二次世界大戦後の戦争責任を追及する裁判には、ニュルンベルク裁判や極東国際軍事裁判、フランクフルト・アウシュビッツ裁判などがありますが、映画での裁判はニュルンベルク裁判後20年経ち発覚した事件に対するものである。

 ユダヤ人によってイスラエルで行われたアイヒマン裁判とは異なり、ドイツ国内でドイツ人を裁く裁判所である。『朗読者』という小説を映画化したものであるが、この本はドイツでは教科書にも取り上げられるほどメジャーな小説で、ナチスに迎合した国民一人一人とその後の世代に問う作品となっているようだ。

 この裁判をゼミで取り上げ傍聴する学生に、教授は、ゼミ生に対して次のように語る。

 人は、「社会を動かすのは道徳だ。」と言うが、それは違う。社会を動かしているのは「法」だ。看守は仕事として行ったと言うが、その行なった行為から「何が悪いかをどう判断する?」

と学生に問いかける。その問いは読者や観客へ投げかけられている問いでもある。

 「アウシュビッツで働いたという事だけでは罪にならない。8000人があそこで働いていていたが、有罪判決を受けたのは19人で、その内殺人罪は6人。殺人罪は意図を立証せねばならない、それが法だ。」

 問題は「悪いことか?」ではなく「合法だったか?」ということだ。それも現行の法ではなくその時代の法が基準となる。
「人をどう裁く?」
「彼女は仕事をしただけでは?」

 ナチ党の下で戦争下にあったドイツの国民それぞれに投げかけられているといであり、戦後の人々にも同じように問われている。そのような風潮が色濃く残っているのがドイツなのである。

 これまで自明の道徳律が急変し、学校の教師やドイツ人の子供たちは、仲間のユダヤ人の子供たちの迫害者に変わる。社会全体がユダヤ人の迫害する側に転ずる。

 一人一人が歯車だったのか。前代未聞の道徳破壊がそこにあったが、誰もそれに気を回さない。気が付いてはいたが歯車理論で悪はより小さな悪に転じて行った。

 日本人然りなどと言うつもりはない。

 広島、長崎への原爆投下は誰が決断しそれに迎合し、それが正義と叫んだか。

 終戦記念日のたびに色々な問いが投げかけられるが、歯車理論は今も健在のような気がする。

「第一講ではカントの定言命法を例にとりながら、近代道徳哲学では、人間に理性があること、実践理性が人間の行動を律し、善悪の判断がかのうであることを素朴に想定していたことを指摘する。そして古代のアリストテレスやトマス・アクィナスの哲学を考察しながら、道徳というものがふつうにかんがえられるように、他者との関係であるよりも、自己との関係であることに注目する。カントの定言命法は、主観的な原則としてみずからにてらして吟味する性格のものであり、他者に対する影響や、他者に対する配慮などが入る余地がないのである。」

この文章は、ハンナ・アーレント遺稿集ジェロ-ム・コーン編『責任と判断』(みすず書房)の訳者中山元先生のあとがき書かれている。

 カントの定言命法の欠点をよく目にするが、起源がハンナ・アーレントにあることをはじめて知った。

「他者に対する影響や、他者に対する配慮」

まずこの欠落が叫ばれなければならないわけである。・・・・今に生きる思想だ。


人は何を語ろうとしているのか・表現

2014年08月10日 | 哲学

 人は何を語ろうとしているのか。その矛先が私に向けられた時に話の意図するところを考える。既知の者であるならばその意図は容易に察することができ、気持ち的に負担がないが、互いの関係性を見出せない一方的な侵入者であると、逆にこちら側が一方的に負担を背負うことになる。

 言葉や文章による伝達はやはり気遣いが大切である。

 さて昨年1月にEテレで放送された「日本人は何を考えてきたのかシーリーズ」の昭和編第3回第三回「近代を超えて~西田幾多郎と京都学派~」が土曜日深夜に再放送されました。

 番組の最後に、生命科学者の福岡伸一先生がその立場から次のように話していました。


(Eテレ「日本人は何を考えてきたのか」から)

【福岡伸一】 生命科学を研究するものとしてこの旅をしてよかったと思う。西田のビジョンからいうとある種の関係性の中に生命を捉えなければいけないと書いてあるわけです。これは非常に古くて新しい生命観で、生命というものはその部品一つ一つが実は絶え間のない合成と分解の最中にあるあって、ドンドンドンドン壊されてドンドンドンドン作られているわけです。これは合成と分解という一見矛盾していることが同時に起きているわけです。つまり「矛盾的自己同一」ということがそこで起きているわけです。絶え間なく壊しているから作れる。絶え間なく壊すことによって空白がボイドができるわけです。ここで新しいものが補完するように作られる、そのくり返しとして生命体があるということを私は『動的平衡』と呼んでいるのですが、生命の在り方として、そういった関係性、同時性全体とそれを構成する要素との間の不断の連続性によって生命が成り立っている、ということが(西田哲学の中に)描かれている。これは非常に、これから生命というものをどのように捉えていかなければいけないのかということを明確に明示しているいると感じました。

<以上>の内容ですが、話の中に「合成」「分解」という言葉が使われています。

 西田哲学の「矛盾的自己同一」という有名な言葉を重ねているのですが、この「合成」「分解」という言葉に、哲学を西田幾多郎に学んだ文芸評論家の唐木順三先生の作品の中に類似する表現があり、同じ事柄を起源とする人の理解と表現には部門を越えて共時的なところがあるものだと思った。

 同じ評論家の小林秀雄先生には『無常という事』という作品があり、唐木順三先生には『無常』という作品があることを最近のブログに書きました。

 部門を超えた似た表現は、唐木順三ライブラリーⅢ『中世の文学 無常』(中公選書)に書かれている「無常の形而上学~道元~」の中の次の文章です。

<唐木順三ライブラリーⅢ『中世の文学 無常』から>

 「いわゆる海印三昧の時節は、すなわち但以衆法の時節なり、但以衆法の道得なり。このときを合成此身といふ。衆法を合成せる一合相、すなわち此身なり。此身を一合相とせるにあらず、衆法合成なり、合成此身を此身と道得せるなり。」

 ここでくりかえしいわれているのは、此身という実体があるのではないということである。衆法即ち四大五蘊(地水火風の四大、色受想行識の五蘊)がたまたま合成されたところが「此身」というものだというのである。在るのは四大五蘊ばかりで、此身があるのではない。また「我」というものがあって、それが「起こる」のではない。我滅ということもない。衆法が合成し、また解体するばかりである。

 然しなぜ合成また解体という作用が「起」るのか。いついかなる原因理由で起きるのかこの問いもまた起なるが故に、起を客観的に理由づけることはできない。無限に起を問うても、問うことが即ち起なのだから、起は最後まで残る。「起也るべし」というほかはない。ただ「時節到来」して起り、「時節到来」して滅する。・・・

<以上『中世の文学 無常』(中公選書p504から)

 唐木先生の文章はお分かりのとおり仏教的な視点からの話しですし、福岡先生の場合は生命科学からの表現という事になります。

 合成と分解(解体)、そして「起きる」「起」

という言葉を重ねることができます。

 形成の働きのうちにある存在として我が身が生(あ)り、時節到来し滅する。

 全体的な生死の間のものから、転じて微分的な今現在の純粋経験のただ中の連続性にある生けるものとし人間存在、それが表現されています。

 「表現」

 今回のブログのテーマはこの「表現}です。最近我がブログにコメントを寄せてくれる方が何人かおられます。コメントするという事も個々の自己表現であり、コメントしたいという判断をして書き込まれます。

 表現には、語る者、聞く者(ほとんど一方的な場合もありますが)間の伝達手段として音声や文字を使った文章、物語などがあります。

 時枝文法のあの時枝誠記(ときえだもとき)先生は、以前ブログのも書きましたが『国語問題と国語研究』(中教出版)で次のように語っています。

 「私の考えている言語過程説の理論に従えば、まづ言語は、人間の表現行為、あるいは理解行為であるとする。そして、この表現行為は、理解行為は、それぞれに独立した別個の行為として成立するのではなく、表現行為は理解行為を予定し、理解行為は表現行為を前提として成立する。(上記書P92)

西田哲学は、純粋経験、自覚、場所・・。

 番組「近代を超えて~西田幾多郎と京都学派~」では純粋経験、自覚(「直観」と「反省」とが連続して起こる意思の在り方)が易しく解説されていました。

 ここで学びたいのは西田哲学における表現行為の哲学です。

 平成24年7月『西田哲学会年報』の講義録に京都産業大学教授の哲学者森哲郎先生の、

『善の研究』における「表現」思想

この講義は別機会で聴講したことがあるのですが、西田先生の晩年は「場所」の哲学で終わります。

 番組の後半の『世界新秩序の原理』ですが、これはある意味、西田哲学の表現だと考えます。それは絶対無から映し出されるものという意味です。