Sightsong

自縄自縛日記

佐野眞一『僕の島は戦場だった 封印された沖縄戦の記憶』

2013-06-01 20:06:31 | 沖縄

佐野眞一『僕の島は戦場だった 封印された沖縄戦の記憶』(集英社、2013年)を読む。

太平洋戦争末期、沖縄は日本の「本土」を防衛するための「捨て石」とされた。20万人以上が亡くなり、その過半数は沖縄出身者で占められた。民間人の犠牲者は10万人前後にのぼり、4人に1人、あるいはそれ以上の人びとが亡くなったとされる。

そこでは、日本軍が住民を護るどころか処刑さえも行った。そして、米軍上陸に際して、米軍に捕えられてはならないという徹底的な軍国教育・皇民化教育に起因する「集団自決」が多発した。奇跡的に生き残った人びとにも、地獄が待っていた。

本書では、沖縄戦とその後に、実際に何が起きたのかを検証していく。

沖縄において、「援護法」のもと、遺族に給与金が支給される際、適用者は「戦闘参加者」と位置づけられた。そのため、たとえば、日本軍に壕を追い出されたとしても「壕の提供」という形となり、幼児でさえ「戦闘参加者」として靖国に祀られる事態となった。もちろん、多くの人びとはひとえに戦争の犠牲者なのであり、戦闘に参加などしていないし、ましてや積極的な協力などするわけがない。戦争美化の、あるいは死者冒涜の、歪んだ形である。

戦争は多くの孤児たちや、心に傷を抱えて生きざるを得ない人びとを生んだ。著者は、その実像に接し、沖縄戦がいまだ終わっていないことや、「本土」の想像力のなさを訴えている。実際に、エピソードのひとつひとつは読んでいて辛い。

現在まで続く米兵による性暴力も、沖縄戦が終わっていないことを如実に示すものかもしれない。本書によると、戦後、地元の女性たちを暴行する米兵に頭を悩ませた各地域で、被害を軽減させるため「慰安所」が設置された。たとえば、今帰仁では、料亭において、地域の有力者たちが米軍と調整し、身売りされた女性を米兵相手の「慰安婦」にさせる事例があった。ある女性は、1日20-30人を割り当てられ、つらいと泣いていたという。この悲惨さは、戦時中と異ならない。橋下・大阪市長は、このようなことに想像力を何ら働かせる意思も知識もなく、いまでもこの「機能」が必要だと発言したわけである。

翁長・那覇市長をとりあげた「那覇市長の怒り」という章がある。自民党でありながら、「オール沖縄」を唱え、オスプレイ配備にも正面から反対している。氏の反骨ぶりと人柄とが想像できる文章である。来年の知事選には、翁長市長、高良倉吉氏らの出馬が噂されているようだが、さて、どうなることだろう。

ところで、本書には、『ウルトラマン』の生みの親のひとり、金城哲夫についても少し言及されている。彼は円谷プロを退社して沖縄に戻り、やがて酒に溺れ、階段を転落して37歳の若さで亡くなる。確かに、著者が指摘するように、金城哲夫が生きていたなら、いまも大きな存在であったかもしれない。


金城哲夫の生家・松風苑(2009年) Leica M4、Biogon 35mmF2、Rollei Retro400、イルフォードMG IV RC、2号

●参照
歴史の裁きはつねに欠席裁判である
沖縄「集団自決」問題


副島輝人『世界フリージャズ記』

2013-06-01 08:59:46 | アヴァンギャルド・ジャズ

副島輝人『世界フリージャズ記』(青土社、2013年)を読む。

何しろ、名著『現代ジャズの潮流』『日本フリージャズ史』を書いた副島氏の新たな本とあって、すぐに入手して、じっくりと読み続け、名古屋行きの新幹線の中で読み終えた。いや面白い。

この面白さは、二次情報を「ジャズとはかくあるべきもの」という大前提のもとで取りまとめたような評論などとはまったく異なり、著者みずからが、絶えず変貌していくジャズのエッジの部分に身を置き、観察、評論だけでなく、歴史をつくりあげていく過程そのものであったことによるものだろう。

著者は、フリージャズの実験場たるメールス・ジャズ祭にも、1977年以降、毎年足を運んでいたという。何かが創出されていく現場において、有象無象の人間活動を前にして、それをジャズという目でとらえなおしていくことは、おそらく、知的渇望と、言語化のためのたいへんなエネルギーとを必要とする。その結果としての「副島節」というわけである。

それにしても、こんな文章を書く人はなかなかいない。読みながら嬉しくなってしまう。

スティーヴ・レイシーについて、「河のように、自由な曲線がどこまでも延びていく。あるいは、宇宙を流れる河なのかも知れないが、その宇宙とは意識の内側に在るミクロコスモスでもあるのだろう。

ポール・ブレイについて、「自分の内面を凝視することは、鮮烈な創造行為である。私たち自身そのことを彼のピアノ演奏によって知らされているではないか。そして、彼の内面の翳りを見ている、聴いているのだ。

●参照
横井一江『アヴァンギャルド・ジャズ ヨーロッパ・フリーの軌跡』