Sightsong

自縄自縛日記

オーネット・コールマン『Waiting for You』

2013-06-18 22:32:09 | アヴァンギャルド・ジャズ

オーネット・コールマン『Waiting for You』(Cool Jazz、2008年録音)を聴く。

Ornette Coleman (as, tp, vl)
Tony Falanga (b)
Charnett Moffett (el-b) (Disc 1)
Al McDowell (el-b) (Disc 2)
Denardo Coleman (ds)
Joe Lovano (ts) (Disc 1)

1枚目が2008年7月6日、ドイツのジャズ祭「Jazz Baltica」。2枚目が2008年8月31日、「Chicago Jazz Festival」。当然ライヴ録音だが、1枚目の音質がとても良いのに対し、2枚目は客席から録ったようなひどさだ。

いつものメンバー、いつもの曲。「Sleep Talking」も、「Dancing in Your Head」も、「Turnaround」も、「Bach」も。(なお、曲目の記載はかなりいい加減である。)

そしてオーネットも変わらない。というより、変わらなさすぎて、癖だけが残っている。これは実は過激の反転なのでもあって、バド・パウエルも、大城美佐子も、辿り着いた境地は発酵食品であった。

人類の宝に対して、チーズとは、くさやとは、納豆とは失礼な。いやいや、選ばれた者しか発酵できないのである。誰もオーネットにも、バドにも、美佐子先生にもなれないのだ。

先日、飛行機の中で聴いたオーネットは、ソニー・ロリンズ80歳記念のコンサート(2010年)への客演だった。冗談のようなオーネット・フレーズを飽きもせず繰り返していて、「欽ちゃんか!」となかば呆れたのだったが、まあ、そういうことである。

●参照
オーネット・コールマン『White Church』、『Sound Grammar』
シャーリー・クラーク『Ornette: Made in America』 オーネット・コールマンの貴重な映像
オーネット・コールマンの最初期ライヴ
コンラッド・ルークス『チャパクァ』


アルンダティ・ロイ『ゲリラと森を行く』

2013-06-16 22:53:20 | 南アジア

アルンダティ・ロイ『ゲリラと森を行く』(以文社、原著2011年)を読む。

インド東部、とくにオリッサ州チャッティースガル州のあたりでは、毛沢東主義者たちの活動が激しいことが知られている。そのために、わたしも、仕事をひとつ諦めたことがあった。それでも、頭の中には「危険地域」というイメージしかなかった。

<外務省海外安全ホームページ>
「(4)中・東部諸州(マハーラーシュトラ州東部地域、アンドラ・プラデーシュ、オディシャ、チャッティースガル各州の高原奥地、ジャールカンド及びビハール両州の農村地域
 「ナクサライト」と呼ばれる武装集団による治安部隊や公共施設等への襲撃事件が続いており、最近はその活動が顕著で、2010年には2,212件の暴力事件が発生し、1,003名が死亡しました。マハーラーシュトラ州東部地域においては、2012年3月に、治安部隊に対する大規模な襲撃事件等が発生して多数の死傷者が出ました。」
http://www2.anzen.mofa.go.jp/info/pcmap.asp?id=001&infocode=2012T084&filetype=1&fileno=1

なぜ、この地域なのか。それは、大規模なボーキサイトの鉱床が存在するからだ。ボーキサイトは製錬と精錬によってアルミニウムの新地金になる。そこから、自動車やエアコンの部品、建材、もちろん大きなものにも使われる。たとえば東南アジアでは、製造業は、石の塊からではなく、既存のアルミ廃材などを溶解して固めた二次地金を使って製品を生産することが主流であり、ちょっと話が違う。しかし、おおもとの新地金を作る場合には、まず採掘を行い、水を使い、そして精錬のために大量の電気を投入することが必要となる。誰もが地金を欲しがるから、経済的価値を生むのである。

そのために、貧困層の人びとは、暴力的に住む場所を奪われ、人権を与えられなかった。真っ先に、開発に伴う環境負荷の受苦者となった。また、土地の下から得られる利益の配分にもあずかることはなかった。ここでも、住民を騙すような言辞が弄され、それは空約束にすぎなかった。

世界のどこでも、強引な発展段階にみられることだと思う。しかし、著者は話をひとくくりにはしない。森に入り、毛派のゲリラと行動を伴にし、起きていることの実態をとらえようとするのである。

警察は掃討作戦を繰り広げ、その段階で殺人者となり、強姦さえも行う。エラいものはオカネと権力。その体現者がアルミや鉄の巨大企業だという構図だ(これらの企業が掃討作戦の資金源だったという話もある)。わたしも、本書で挙げられている企業のいくつかは訪問したことがある。オリッサ州にもチャッティースガル州にも足を運んだ。もっとも、わたしの目的は環境対策であるから、間接的にも開発に手を染めたわけではない。それでも、ここに書かれている現状を知らなかったのは罪かもしれない。

現在の権力はメディアとセットである。いかに、大メディアが煽るように毛派の凶悪性を報道し、それと呼応して、政治家たちが耳触りの良い経済発展やトリクルダウン的な言説を弄したか。著者が書く毛派の姿は、それとは正反対に近いものだ。そこから、著者は、大きな物語としての経済発展や、オカネと力だけで動く経済社会や、産業転換などは不要とさえ言っているように聞こえるほどの文明論に踏み込んでいく。

言うまでもなく、極端なユートピア論である。しかし、極端なディストピア社会ばかりが視える今、おかしな現実論ではなく、このようなユートピア論に向き合うことは重要極まりない。少なくとも、ここに登場する人びとにとって、暴力に抵抗するためには、他の選択肢を取りえなかったかもしれないのだから。そして、インドでも、日本でも、問題があることにさえ気が付かない構造になっているのであるから。

著者の筆致は、相変わらず、ユーモラスで、かつシニカルだ。

毛派が子どもたちに共産主義理念を教えることに対し、メディアは「若者の思想強制だ」と叫ぶ。著者は言う。「テレビコマーシャルを垂れ流して、物心がつく前の子どもたちを洗脳することが、ある種の思想強制とはみなされないのに」、と。これだって、日本にそのままあてはまる皮肉である。

デリー市内に、ジャンタル・マンタルという昔の天文台跡がある。綺麗に整備された公園であり、わたしが訪れたときには、カップルが静かに過ごしていた。実はここは、デリーで数少ない、抗議運動が許された場だという。(貧困層の多くの人びとが集まると、臭いが強烈になり、きっと『スラムドッグ$ミリオネア』も臭いがないからヒットしたのだろう、などという軽口を叩いているが、それはともかく。)

重要な点は、その場でさえ、次第に制限されるようになってきていること。そして、ガンディーの非暴力主義は、このような多くの視線にさらされているからこそ有効なのであって、可視化されていない森の中では、ゲリラ活動があるべき抵抗の形だとしていること。

それでは沖縄はどうだろう。高江の抵抗は、少なくとも「本土」にあっては、視線すなわちメディアの報道がなされることは、ほとんど皆無であった。もちろん、そこで暴力には暴力で抵抗することはあってはならないことだ。著者も、毛派の攻撃について、「間違って警察以外の人を殺してしまった」というゲリラの発言を、さしたる批判もなく紹介している。「視線が届かない」レベルがまるで違うのかもしれないが、ちょっとこの感覚は麻痺している。

もう一点、あらゆる環境対策を信用しないことも、あまりにも極端だ。日本でも、企業が行う環境対策をすべて欺瞞だと言い放つ人に遭ったことは一度や二度ではないから、その陥穽があることはわからなくもないが。

●参照
アルンダティ・ロイ『帝国を壊すために』
ダニー・ボイル『スラムドッグ$ミリオネア』
中島岳志『インドの時代』


石川文洋講演会「私の見た、沖縄・米軍基地そしてベトナム」

2013-06-16 10:06:03 | 沖縄

「どぅたっち」から引っ越した「東京琉球館」。移転後はじめて足を運び、石川文洋さんの講演会「私の見た、沖縄・米軍基地そしてベトナム」を聴いた。わたしは前日に連絡があってパソコン操作係。

石川さんはベトナム戦争の従軍カメラマンとして有名であり、カンボジア、ラオス、ボスニア、ソマリア、アフガニスタンといった戦場でも取材している。来年(2014年)の8月に、ニコンサロン(新宿、大阪)や沖縄において写真展を予定されているという。これは氏がベトナムに渡ってから50年後ということになる。

石川さんは、ご自身の生い立ちから、現在の沖縄問題までを2時間以上、熱く語った。

○1938年3月、沖縄生まれ。4歳のときに「本土」に渡ったため、記憶は断片のみ。沖縄のことばは聞けるが話せない。
○お父さんの石川文一氏は、小説や映画の脚本を書く作家(>> リンク)。監督を務めた『護佐丸誠忠録』は、戦前の首里城などが記録されておりかなり貴重な映像(NHKに保存されている)。


読んだことがある『琉球の平等所 捕物控』、『怪盗伝 運玉義留と油喰小僧』の他、『琉球の唐手物語』などそそられる作品

○父方の実家は、首里の鳥堀町にあった饅頭屋(「の」饅頭の元祖)。向かい側に泡盛の咲元酒造があり、そこのご主人(故人)からは、自分の幼少時について、「ガッパヤー」(おでこが目立っていた)、「ミンタマー」(目が大きかった)、「ワタブー」(おなかが大きかった)などと言われたものだ。しかし父は饅頭屋を継がず、安里あたりで本屋兼文房具屋を開きながら小説を書いていた。母方の実家は首里の儀保町。
○「本土」では、大阪を経て船橋へ越し、小中学校時代を過ごした。母方の姓(安里)を名乗っていた。学校には、真っ赤で鬼のような顔をした「鬼畜米英」のポスターが貼られていたことを覚えている。また、軍の将校に「お前の故郷は玉砕したぞ」と言われたりもした。
○高校は定時制。昼間は毎日新聞の給仕として働いた。沖縄での米国民政府による土地一括収容、プライス勧告、島ぐるみ闘争に共感し、訴えかけを行ってもいた。
○高校を卒業し、1957年に、15年ぶりに沖縄に帰った。祖父は摩文仁で戦死していた。
那覇軍港は、朝鮮戦争直後でもあり、米軍だらけ、物資だらけ。ラジオから沖縄民謡が聞こえてきて、故郷に帰ったのだとしみじみ思った。り、10日間ほど過ごし、バスで沖縄中を回った。
○1959年に、毎日映画社にカメラマンの助手として入社した。当時は劇映画の前に必ずニュース映画が上映されており、それを製作した。ちょうど入社後に、石川の宮森小学校に米軍機が墜落した(1959年)(>> リンク)。また、60年安保反対運動を撮っているとき、すぐ近くで、樺美智子さんが亡くなった。
○1964年に、27ドルだけを持って香港へ渡った(オランダ船にただで乗せてもらった)。当時、初任給は40ドルほどだった。米国人の会社に入りたいと言ったところ、テストとして、香港でちょうど入院中だったジュディ・ガーランドを撮ってみろと命じられた。既にカメラの扱いはお手のものだったので、結果はばっちり、採用された。
○同じ1964年、トンキン湾事件が勃発(ベトナムを攻撃するための米国の言いがかり)。ベトナムに行くオカネを稼ぐため、NHKの特派員の仕事をした。なんと1000ドルを得た。
○1965年、ベトナムへ。日本テレビのドキュメンタリー『南ベトナム海兵大隊戦記』(>> リンク:永田浩三さんのブログ)の第1部を放送した直後、橋本登美三郎官房長官(当時)からの電話により、第2・3部が放送中止になった。直後に、映画からスチルに転向。

○ベトナムでは、米海兵隊に従軍した。米軍の攻撃は、村を包囲して火の海にし、その後突撃するものだった。勿論、村の中には民間人がたくさんいたが、米軍はそのことをまったく考えなかった。ベトナム戦争における民間人の死者は、第二次世界大戦における日本の民間人の死者をかなり上回っている。
○船橋には空襲がなかったが、東京大空襲で空が真っ赤になっているのを見た。
○ベトナムでも東京でも沖縄でも、犠牲になるのは民間人である。大人の起こす戦争により、子どもが犠牲になり、心の傷を受けて生き続けることになる。戦場では、自分はいつも難民キャンプを撮影するが、そのことがよくわかる。
○ベトナム戦争では、日本は後方で基地を利用させるという点で、参戦と同じだった。
○米兵は1年勤務であり、そのうち、3日間の国内休暇(ベトナム)と1週間の国外休暇が与えられていた。国外としては、日本、タイ、ニュージーランド、ハワイなどが主な行き先だったが、米国「本土」は禁じられていた(里心を懸念したのだろう)。なかでもコザでのオカネの使い方は伝説的な話になっている。
○1969年の正月に帰国しており、沖縄の北部訓練場(ベトナムを想定)を取材した。米軍ヘリの中など特ダネ写真が多く、朝日新聞から引き抜かれ、入社した。
○その1月、突然朝日新聞に請われ、屋良朝苗主席に伴って沖縄に飛んだ。機内でインタビューと撮影をした。
○屋良主席は、「2・4大ゼネスト」を前にして、住民と日本政府との板挟みにあっていた。水爆を積んだB52がグリーンランドやスペインで落ちたばかりであり、当時の沖縄にも核が持ち込まれていた。佐藤首相(当時)からは、ゼネストを決行したら「返還」が遅れてしまうこと、まもなくベトナム戦争が終わりそうだということを理由に、圧力をかけられていたという。
○結局、ゼネストは自主参加という形になった。フェンスの中で、米兵が実弾を詰めて対峙していた。おそらく内部に突入でもしたら、発砲したことだろう。そしてストの頭上をB52が飛び立った。明らかな差別・占領意識だと思った。
○沖縄の施政権返還(1972年)の直前、沖縄の多くの学校で、その是非を巡る討論が行われた。当時、独立論は本当の少数であり、「本土並み」こそが住民の希望だった。
○当時、米兵は住民を殺してもほとんど無罪であった(今に続く不公平な地位協定)。ドルの切り崩しによって(360円から305円になると、1ドルあたり55円も損してしまう)、多くの住民がだまされたとの思いを抱いた。そういった積み重ねが、現在の日本政府への不信感につながっている。オスプレイだけのことではない。
○普天間の海兵隊を大阪に移すなどと口先だけで語っている者がいる。自分は、嫌な部分を「本土」に移したいとは思っていない。行うべきことは「撤去」である。(※この点は、「県外移設論」とあわせて考えるべき >> リンク
フィリピンのクラーク米軍基地、スービック米軍基地は、日本とは異なり、利用に関して米国からオカネを得ていた。それでも10年の使用契約が切れることを機に、もう貸さないことを決定した。クラークは沖縄の基地の2倍、スービックは嘉手納の3倍も大きい基地である。その際には、大規模な米軍基地を置くことは真の独立国家としての行動か、それによりアジアの同胞たちが殺されたのではないか、非核3原則を語る資格はないのではないか、といった議論があった。翻って日本はどうか。
○既に、沖縄の基地経済は5%程度にまで落ちている。返還によって商業地域として、経済を大きく活性化させたおもろまち新都心や北谷町といった事例もある。もはや、沖縄経済を阻害しているのは基地だということができる。
辺野古には2011年12月にフェンスが設置された。銃剣で取られた自分の島であり、非常に抵抗感がある。嘉手納のせいでベトナム人が死ぬのを多く見てきた。日本が許可して、他国の人を殺すわけである。オカネをもらえばそれでいいのか。
○60年安保以降、日本政府は人びとの声を聴かない体質になってしまったのではないか。
○安倍首相が、侵略の定義が定まっていないとの発言をした。しかし、ベトナムでも満州でも、軍事力を背景にした侵略以外の何物でもなかった。なぜ政治家やジャーナリストや教育者がそれをわからないのか。日本が戦争の総括をせずじまいになり、教育もしていないためでもあるだろう。
○ベトナムでは、枯葉剤の被害者がまだ生まれている(第三世代)。第四世代でどこまで減るのか、まだわからない。
○ベトナムには、中国や沖縄と共通する文化が散見される。龍、シーサー、ひんぷん、ハーリー、ゴーヤ、なーべらー、豆腐。

終わった後、石川さんを囲み、短い懇親会。宮森小学校の事故のとき1年生だったという方(その後ブラジルに移住し国籍を取得)がいて、興味深い話を聴くことができた。

●参照
石川文洋『ベトナム 戦争と平和』
石川文洋の徒歩日本縦断記2冊
金城実+鎌田慧+辛淑玉+石川文洋「差別の構造―沖縄という現場」
石川文一の運玉義留(ウンタマギルウ)


鎌田慧『怒りのいまを刻む』

2013-06-15 09:15:57 | 政治

わたしがもっとも敬愛するルポライター・鎌田慧さんは、「東京新聞」にコラムを連載している。切り口や観点はつねに鋭く、決して高みからの視線となることはない。『怒りのいまを刻む』(七つ森書館、2013年)は、2009年からのその連載を集めた本である。

原発と核燃料サイクル。冤罪。死刑。国鉄処分。朝鮮人強制労働。三里塚。高校無償化での朝鮮学校差別。米国追従。辺野古。高江。普天間。ハンセン病。過酷な労働。TPP。水俣。慰安婦。

こうして振り返ってみると、改めて、真っ当な怒りがこみあげてくる。その怒りは、非人道的で強権的な政治を行う為政者や、政府に向けられている。しかし、それと同時に、怒りは、問題や矛盾を視ようとせず、仮に視えても視ないふりをする市民にも向けられている。

勿論、人ごとではない。誰でも、自分に火の粉が降りかからなければ、いつの間にか、騒がず順応していることになる。その意味で、本書により、この数年間で社会に噴出した矛盾を振り返り、再び意識下に置くことは重要なことだ。ましてや、問題を認識せず、想いを馳せてこなかったとすれば、その者の外部との関係性はいびつで独りよがりなものになっている。著者でさえ、ハンセン病に対する自らの「無知と無関心」を反省すると何度も書いているのである。

人間は知と想像力の持ち主であるべきだ。

●参照
鎌田慧『六ヶ所村の記録』
鎌田慧『沖縄 抵抗と希望の島』
鎌田慧『抵抗する自由』
鎌田慧『ルポ 戦後日本 50年の現場』
前田俊彦『ええじゃないかドブロク(鎌田慧『非国民!?』)
6.15沖縄意見広告運動報告集会
『核分裂過程』、六ヶ所村関連の講演(菊川慶子、鎌田慧、鎌仲ひとみ)
金城実+鎌田慧+辛淑玉+石川文洋「差別の構造―沖縄という現場」


スティーヴ・スワロウ『Into the Woodwork』

2013-06-15 01:17:51 | アヴァンギャルド・ジャズ

スティーヴ・スワロウ『Into the Woodwork』(WATT、2011年録音)を聴く。

Chris Cheek (ts)
Steve Cardenas (g)
Carla Bley (org)
Steve Swallow (b)
Jorge Rossy (ds)

作曲はすべてスワロウによる。官能的で、甘酸っぱいような旋律が続く。明らかにスワロウの個性である。

スワロウとカーラ・ブレイによるデュオのライヴ映像を持っているのだが、他人が視てはいけない愛の交歓の私的空間のようだった。ここでもカーラ・ブレイはオルガンで参加。その格好よさとスワロウとの相性のよさといったらない。

ホルヘ・ロッシの才気煥発なドラミングもまた聴きどころ満載。

1時間、憑依されたように堪能し、それを繰り返す。愛あり、哀しみあり、悦びあり。曲も演奏もすべてが本当に素晴らしい。時に内的な盛り上がりを覚え、涙が出そうになる。聴いてよかった。大推薦の1枚。

●参照
カーラ・ブレイ+スティーヴ・スワロウ『DUETS』、渋谷毅オーケストラ


『増補改訂版・現代作家ガイド ポール・オースター』

2013-06-12 23:36:19 | 北米

飯野友幸編著『増補改訂版・現代作家ガイド ポール・オースター』(彩流社、2013年)を読む。

1996年の初版は読んでいたのだが、本書は2001年の増補版以来の増補改訂版。つまり、『幻影の書』(2002年)以降の作品について追記されたことになる。

最近のオースターの作品は、『Travels in the Scriptrium』(2007年)以降(必ずしも順番に読んでいるわけではないが)、極端な性的描写、極端なメタフィクション、極端な野球などのトリビアといったことが鼻について、あまり傑作だとは思えないことが多い。それでも、もうオースターは読まないなどと言いつつも新作を手にとってしまう。偶然や寓意に彩られたオースター世界が、どうしても好きなのだ。

このように、オースターの作品を時系列的に振り替えると、変遷も特徴も見えてくるようで、とても面白い。それぞれに特徴があって、それぞれが登場人物やプロットを通じて奇妙に重なり合っている。それは何も熱心な読者向けの仕掛けというわけではなく、オースター本人の頭の中から創出されたものだからだ、ということが、よくわかる。

オースター作品の最大の特徴は、やはり「偶然」。『ムーン・パレス』(1989年)、『リヴァイアサン』(1992年)、『オラクル・ナイト』(2003年)、またその他のどの作品でも、まともに考えたら「あり得ない」と言ってしまいそうな偶然が事件として起き、それがことごとく登場人物たちの人生を大きく変えることになる。それをおとぎ話として片づけるのは簡単だが、オースターに言わせれば、現実の世界こそが偶然で満ち満ちているのであり、それをリアリズムを欠くと言う者こそリアルが解っていないのだ、ということになる。そうかもしれない。

確かに、本書のインタビューでも、J・M・クッツェーとの書簡集『Here and Now』(2013年)でも、とにかく、自分の身に起きた偶然を、世界の神秘として、あるいは必然として、語り続けている。『偶然の音楽』(1990年)は、不条理に石を運び、壁を積み続けなければならない物語だが、何と、書き終えたその日に、ベルリンの壁が崩壊したのだという。

いくつかの発見と暗い指摘。

●オースターは、ユダヤ系という出自や、とくに「9・11」以降の政治への疑念から、「アメリカ」なる世界に身を置きつつ、同時に距離をとって、「アメリカ」の姿を相対化しようとしている。カベッサ・デ・バカ(>> リンク)への言及もあった。彼もまた「アメリカ」探究者であった。
●『リヴァイアサン』に登場するマリアという女性は、ソフィ・カルをモデルにしているが(>> リンク)、その点に関する言及はない。
●オースターによる映画は、米国ではかなり冷遇されてきたようだ。フィリップ・ハース『ミュージック・オブ・チャンス』(1993年)は、米国でさえ限定的にしか公開されておらず、日本でも未公開(テレビ放送はあった)。本人が監督した『ルル・オン・ザ・ブリッジ』(1998年)は、米国では公開さえされていない。もともとヴィム・ヴェンダースが手掛ける予定であったが、その場合はどうなったのだろう。ウェイン・ワン『スモーク』(1995年)は日本では結構ヒットしたが、米国ではいかに。
●『City of Glass』(1985年)については、旧訳の邦題『シティ・オブ・グラス』のみ紹介され、柴田元幸による新訳の邦題『ガラスの街』についてはまったく隠されている。それどころか、脚注で、あえて訳すなら『鏡の都市』だと書かれる始末。何だか尋常ならぬ思いを感じてしまうのだがどうだろう。
ジェフ・ガードナー『Music of Chance』など、オースターに触発されたジャズ作品への言及がない。オースターと音楽というテーマが含まれていてもよかった。
●フランスでのオースター人気は高い。なぜなら「英語がわかりやすい」からだ、という声もある(これは日本の読者にとってもあてはまる)。わたしは『ティンブクトゥ』(1999年)を発売時にパリの書店で買ったが、その際、メトロのトンネル内に大きなゴヤの犬の絵があらわれ(表紙)、吃驚した記憶がある。

最近では読むたびに不満を口にしている癖に、また読みたくなって、『Winter Journal』(2012年)の電子書籍版を入手してしまった。さていつ読もう。

●ポール・オースターの主要な作品のレビュー
ポール・オースター+J・M・クッツェー『Here and Now: Letters (2008-2011)』(2013年)
『Sunset Park』(2010年)
『Invisible』(2009年)
『Man in the Dark』2008年)
『写字室の旅』(2007年)
『ブルックリン・フォリーズ』(2005年)
『オラクル・ナイト』(2003年)
『幻影の書』(2002年)
『ティンブクトゥ』(1999年)
○『ルル・オン・ザ・ブリッジ』(1998年)
○『スモーク&ブルー・イン・ザ・フェイス』(1995年)
○『ミスター・ヴァーティゴ』(1994年)
○『リヴァイアサン』(1992年)
○『偶然の音楽』(1990年)
○『ムーン・パレス』(1989年)

『最後の物たちの国で』(1987年)
○『鍵のかかった部屋』(1986年)
○『幽霊たち』(1986年)
『ガラスの街』(1985年)
○『孤独の発明』(1982年)


侯孝賢『憂鬱な楽園』

2013-06-09 20:22:02 | 中国・台湾

侯孝賢『憂鬱な楽園』(1996年)を観る。

台湾。チンピラたち。何か大きなことをやりたいという気持がある。上海でレストランを開こうとして失敗。立ち退きの時に豚を買い取ってもらう詐欺を考えるも、分け前がもらえず失敗。暴れて逮捕。

感情を制御できず、焦燥感ばかりが高まり、それでも時間が過ぎていく。誰にでも迫る日常生活という魔を、侯孝賢は、過激な長回しによって描き出している。

世界の敵は世界そのものだ。それを映画として包んだ手法は見事。

●参照 侯孝賢
『風櫃の少年』(1983年)
『冬々の夏休み』(1984年)
『非情城市』(1989年)
『戯夢人生』(1993年)
『ミレニアム・マンボ』(2001年)
『珈琲時光』(2003年)
『レッド・バルーン』(2007年)


スリランカの映像(11) レスター・ジェームス・ピーリス『湖畔の邸宅』

2013-06-09 14:29:20 | 南アジア

スリランカ映画の巨匠、レスター・ジェームス・ピーリスの2002年作品『湖畔の邸宅』(Mansion by the Lake/WEKANDE WALAUWA)を観る。

5年ぶりに、ロンドンからスリランカの邸宅に戻ってきた母子。迎える母の兄と、娘のように育てられた孤児。母の夫が亡くなり、失意のあまりに祖国を離れていたが、その間、銀行からの借入金をまったく返していないことが判ったための帰国だった。返済するオカネはない、しかし、懐かしい大邸宅を手放したくない。

人柄はさておき、特権階級であることが染みついている人たち。昔、この邸宅で育った大学生は、反体制運動の咎で警察に追われながら、幼馴染の娘と恋に落ちる。大学生の理想は、昔、使用人であったオカネモチ(真っ赤なベンツに乗っている)に嘲笑される。そして大学生は警察に射殺され、邸宅はオカネモチに買い取られてしまう。オカネモチのことを、その出自ゆえ下の身分だとみなしている家族は、屈辱にまみれ、邸宅を去っていく。

さしたるドラマチックな演出がなされるわけではない。しかし、身分社会の観念から離れられない哀れな人たちを淡々と描く手腕は、さすがに老大家のものだと思えた。チェーホフの『櫻の園』をもとにしているためか、室内劇的なカメラワークでもある。

主演の女優は、『ジャングルの村』(1980年)(>> リンク)にも出演していたマーリニ・フォンセーカ。20年以上の時間差があるため、調べてみないと気付かない。


杉本良男編『もっと知りたいスリランカ』(弘文堂)より

ところで、スリランカらしさは、独特の音階を持つバイラなどの音楽に起因している点もあるように感じたがどうだろう。

●参照
スリランカの映像(1) スリランカの自爆テロ
スリランカの映像(2) リゾートの島へ
スリランカの映像(3) テレビ番組いくつか
スリランカの映像(4) 木下恵介『スリランカの愛と別れ』
スリランカの映像(5) プラサンナ・ヴィターナゲー『満月の日の死』
スリランカの映像(6) コンラッド・ルークス『チャパクァ』
スリランカの映像(7) 『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』、『シーギリヤのカッサパ』
スリランカの映像(8) レスター・ジェームス・ピーリス『ジャングルの村』
スリランカの映像(9) 『Scenes of Ceylon』 100年前のセイロン
スリランカの映像(10) デイヴィッド・リーン『戦場にかける橋』


堀田善衛『時空の端ッコ』

2013-06-08 09:11:00 | 思想・文学

堀田善衛『時空の端ッコ』(筑摩書房、1992年)を読む。

『ちくま』に連載されていたエッセイを集めた本であり、いくつかは読んだ記憶がある。 

このエッセイが書かれた1989~91年は、昭和が終わり、天安門事件があって、東欧革命があって、それどころかソ連が崩壊するという激変の時期だった。大学生になったばかりのわたしは、何が起きているのかまともに理解できず、視れども視えず、茫然としていた。

当時、堀田善衛はすでにヨーロッパに居を移して長い。しかし、離れた場所から観察するから新鮮なのではない。さらりとして飄々たる名文には、余人からは得難い知性が散りばめられている。過去を語ることはたやすい。現代の現象を論説することも、多くの者にとって、やってやれないことはない。難しいのは、知をもって現代の基盤にアクセスすることである。

当然、確たる結論はない。著者をもってしても、現代へのアクセスは揺れ動く。その揺れ動きを提示することが、知性なのだと思える。そして著者の知性は、抵抗の知性でもあった。

印象的な「出エジプト記」という文章。モーゼは、解放ののち、いかにも厳しい十戒を人びとに示した。視線は現代政治に飛ぶ。「自由と解放というものが、時として狂気のはじまりである」と、著者はいう。自由と解放には毒もまた含まれており、容易に不寛容なナショナリズムに転じ、やがて幻滅の感が訪れてくるのだ、と。

「民主主義は、それ自体に、これが民主主義か? という幻滅の感を、あらかじめビルト・インされたform of governmentなのであった。」

共感しながら、そうであるならば、と思った。いまは、「政権交代」、「民主主義」という夢に幻滅してしまっている時期ではないのか、と。もちろん、夢はいつまでも地平の向こうにある夢であり、追い続けるべきものである。しかし、幻滅が世の中を覆ってしまい、その結果、意にそぐわない為政者であっても、声が大きければ、その玉座をつくってしまう。

思想は本来、敗北者のものである(白川静『孔子伝』)(>> リンク)。脱ナショナリズムも、脱原発も、不健康な幻滅の時代にあって、思想へと化していくものではないか。

いま響く、印象的なことばをもうひとつ。

「われわれの平和憲法もまた、一つのイデオロギーであると言えるであろう。現実の世界に置いてみれば、まさにまだ若々しいものではあるけれども、われわれはこのイデオロギーによって、歴史を創って行こうとしたのではなかったか。このイデオロギーまでを、プロクルステスの寝台に横たえて、為政者が長すぎると見る足を切ったり、短足と見るものを、綱をつけて引っぱったりしてはならないのである。」

●参照
堀田善衛『若き日の詩人たちの肖像』
堀田善衛『インドで考えたこと』


佐々木高明『照葉樹林文化とは何か』

2013-06-07 07:45:00 | 環境・自然

佐々木高明『照葉樹林文化とは何か 東アジアの森が生み出した文明』(中公新書、2007年)を読む。

アッサム~雲南~東南アジア北部あたりを中心とする「照葉樹林帯」。それは単に、分厚くてらてらした葉を持つ木々が支配的だという意味ではなく、共通する食文化や生活文化を持つ地帯だという広い意味である。

たとえばモチ。なぜかモチ食いはこの地帯でのみ伝統的に好まれ、食べられてきた。どうやらコメだけでなく、ほかの穀物にもそれぞれモチとモチでない種があるようで、長い間、モチが選好的に栽培されてきたということだ。実はモチ食いは、サトイモ食いから続くネバネバの伝統だという。

ほかにも、食べ物でいえばナレズシ、納豆、麹酒、茶、コンニャク。生活文化でいえば養蚕、漆、竹、山での歌垣。それぞれ分布が少し異なり、時代もまちまちではあるものの、これらをまとめて「照葉樹林文化」と呼ぶというわけである。とても面白い。

モチを含め、コメの起源については、場所も時代も諸説あって定まっていないようだ。ただ、コメ栽培と照葉樹林文化とは必ずしも重なるものではなく、焼畑や雑穀など半栽培文化を経て、水田でのコメの栽培に至ったという遷移の形が著者の主張である。

それに関し、柳田國男が晩年に『海上の道』で説いたような、日本への南からの稲作の伝播や、日本を単一の稲作文化圏とみなすような考えは、イデオロギーから導き出されたものであり、もはや学術的にも否定されているという。やはり、あれやこれやが並立し、地域的にも時代的にも混淆する世界のほうが、「こうあってほしい」一元的な世界よりも真っ当である。

本書では、コメ文化と照葉樹林文化の重要な担い手として、ミャオ族(モン族)が挙げられている。現在は雲南からベトナム・ラオス北部に居住している少数民族だが、もともと、長江流域で稲作をしていたという。やがて南に移動し、国境をまたがる山の民になったというわけである。

ところで、梅棹忠夫『東南アジア紀行』では、さらに最近の移動について説いている。19世紀、インドシナ半島における山づたいの本格的な移住の原因は、中国南部における反清革命運動たる太平天国の余波が、ミャオ族・モン族を南へ追いやったのだという。そして、1000mの等高線で切って、それ以下の部分を地図で消し去ってしまうと、あとに彼らの国があらわれてくる「空中社会」だとする。とても興味深い存在だ。


モン族のふたり(ベトナム北部、2012年)  Pentax LX、FA77mmF1.8、Fuji Superia 400


宮崎県木城町の照葉樹林(2012年)


大津「でんや」の鮒鮨 (ケータイで撮影、2008年)

●参照
只木良也『新版・森と人間の文化史』
上田信『森と緑の中国史』
そこにいるべき樹木(宮脇昭の著作)
東京の樹木
小田ひで次『ミヨリの森』3部作
荒俣宏・安井仁『木精狩り』
森林=炭素の蓄積、伐採=?
宮崎の照葉樹林
梅棹忠夫『東南アジア紀行』
柳田國男『海南小記』
村井紀『南島イデオロギーの発生』
2012年6月、サパ
2012年6月、ラオカイ
2012年8月、ベトナム・イェンバイ省のとある町


安部公房『(霊媒の話より)題未定』

2013-06-02 23:26:10 | 思想・文学

安部公房『(霊媒の話より)題未定 安部公房初期短編集』(新潮社、2013年)を読む。

本書に収録された作品群は、1948年の文壇デビュー前後に書かれたものだ。どうやら、安部公房本人に発表するつもりがなかったものらしく、中には断片としか言えないような未完成作品もある。

安部公房の初期作品は、『終わりし道の標べに』も、『壁』も、観念や野望ばかりが先走り、読みやすいとはとても言うことができない。奇妙さが目立つ寓意的な作品も多い。

もっとも、この特質は、安部の生涯を通じてそうであったのかもしれない。たとえば、晩年の『カンガルー・ノート』についても、観念的、寓話的だといってもよいだろう。そして、それが安部作品の魅力でもある。

ここで読むことができる作品も、模索のあとを感じることができるものの、既にその特質をあらわにしている。それは、馴れ合い、もたれ合いの前近代的な共同体に対する嫌悪であり、自我の置きどころへの懊悩である。また、やはり、安部公房が「手法の作家」であったという指摘も、まさに最初から当てはまるものだと思える。

●参照
安部公房『方舟さくら丸』再読
安部公房『密会』
安部公房の写真集
安部ヨリミ『スフィンクスは笑う』
友田義行『戦後前衛映画と文学 安部公房×勅使河原宏』
勅使河原宏『おとし穴』(安部公房原作)
勅使河原宏『燃えつきた地図』(安部公房原作)


ウォン・カーウァイ『グランド・マスター』

2013-06-02 22:33:24 | 香港

ウォン・カーウァイ『グランド・マスター』(2013年)を観る。公開早々にいそいそと足を運ぶなんて、久しぶりだ。

カンフーの達人たちが、自分が背負う流派のプライドを持ちつつ、お互いに戦い、時には協力しあう。やがて日中戦争が勃発。武術は大きな武力の前では無力であり、ある者は日本に協力さえもする。彼らは、戦後の香港でまた出会い、おのおの数奇な運命をたどることになる。

もう惜しげもなくワイヤーアクションもスローモーションも使いまくり、目を奪われる。それにしても、カンフーのさまざまな流派が、長江の北と南とで大きくその特性を異にするなんて、はじめて知った。その中には、イスラム教徒により創始された「八極拳」もある(確かに、この使い手は、戦後香港で、「清真」と書かれた食堂で食事をしている)。ついに映画が『北斗の拳』に追いついた、といったところだろうか。カンフーが、こんなに奥深いものだったとは・・・。

アクション慣れしたトニー・レオンやチャン・ツィイーの演技も素晴らしい。

なお、トニー・レオン演じるイップ・マンの弟子として、少年時代のブルース・リーが登場する。

●参照
ウォン・カーウァイ『楽園の疵 終極版』(トニー・レオン出演)
張芸謀『LOVERS』(チャン・ツィイー出演)
張芸謀『HERO』(トニー・レオン、チャン・ツィイー出演)
陳凱歌『PROMISE/無極』
ロバート・クローズ『燃えよドラゴン』
シャンカール『Endhiran / The Robot』(武術指導が同じユエン・ウーピン)


エドワード・ヤン『クー嶺街少年殺人事件』

2013-06-02 10:49:50 | 中国・台湾

エドワード・ヤン『クー嶺街少年殺人事件』(1991年)を観る。

現在入手も観賞も困難な映画だが、4枚組のVCDを売る香港のセラーを発見した。公開後流通した188分版ではなく、235分の完全版である。

1950年代末から1960年代の台湾。国民党の独裁時代であり、社会も不穏な空気に包まれていた。上海から移住してきた一家の息子・スーは、受験に失敗して夜間中学に入る。スーの前にあらわれた女の子・ミンとの恋愛、それをきっかけに取り込まれていく不良グループ、荒れるスー。スーの希望はミンだけ。しかし、それは過剰な想いだった。

スーの父は頑固なインテリであり、スーが事件を起こすと、外省人として疑われ、社会から疎外され、果てには精神のバランスを崩してしまう。

そして鬱屈し、噴出し、その軌道を自ら修正できない少年少女たちの姿が痛い。台湾の夜と恨と情とが、こちらの脳と心のなかに残響を生じさせる。傑作。

●参照
エドワード・ヤン『恋愛時代』(1994年)


佐野眞一『僕の島は戦場だった 封印された沖縄戦の記憶』

2013-06-01 20:06:31 | 沖縄

佐野眞一『僕の島は戦場だった 封印された沖縄戦の記憶』(集英社、2013年)を読む。

太平洋戦争末期、沖縄は日本の「本土」を防衛するための「捨て石」とされた。20万人以上が亡くなり、その過半数は沖縄出身者で占められた。民間人の犠牲者は10万人前後にのぼり、4人に1人、あるいはそれ以上の人びとが亡くなったとされる。

そこでは、日本軍が住民を護るどころか処刑さえも行った。そして、米軍上陸に際して、米軍に捕えられてはならないという徹底的な軍国教育・皇民化教育に起因する「集団自決」が多発した。奇跡的に生き残った人びとにも、地獄が待っていた。

本書では、沖縄戦とその後に、実際に何が起きたのかを検証していく。

沖縄において、「援護法」のもと、遺族に給与金が支給される際、適用者は「戦闘参加者」と位置づけられた。そのため、たとえば、日本軍に壕を追い出されたとしても「壕の提供」という形となり、幼児でさえ「戦闘参加者」として靖国に祀られる事態となった。もちろん、多くの人びとはひとえに戦争の犠牲者なのであり、戦闘に参加などしていないし、ましてや積極的な協力などするわけがない。戦争美化の、あるいは死者冒涜の、歪んだ形である。

戦争は多くの孤児たちや、心に傷を抱えて生きざるを得ない人びとを生んだ。著者は、その実像に接し、沖縄戦がいまだ終わっていないことや、「本土」の想像力のなさを訴えている。実際に、エピソードのひとつひとつは読んでいて辛い。

現在まで続く米兵による性暴力も、沖縄戦が終わっていないことを如実に示すものかもしれない。本書によると、戦後、地元の女性たちを暴行する米兵に頭を悩ませた各地域で、被害を軽減させるため「慰安所」が設置された。たとえば、今帰仁では、料亭において、地域の有力者たちが米軍と調整し、身売りされた女性を米兵相手の「慰安婦」にさせる事例があった。ある女性は、1日20-30人を割り当てられ、つらいと泣いていたという。この悲惨さは、戦時中と異ならない。橋下・大阪市長は、このようなことに想像力を何ら働かせる意思も知識もなく、いまでもこの「機能」が必要だと発言したわけである。

翁長・那覇市長をとりあげた「那覇市長の怒り」という章がある。自民党でありながら、「オール沖縄」を唱え、オスプレイ配備にも正面から反対している。氏の反骨ぶりと人柄とが想像できる文章である。来年の知事選には、翁長市長、高良倉吉氏らの出馬が噂されているようだが、さて、どうなることだろう。

ところで、本書には、『ウルトラマン』の生みの親のひとり、金城哲夫についても少し言及されている。彼は円谷プロを退社して沖縄に戻り、やがて酒に溺れ、階段を転落して37歳の若さで亡くなる。確かに、著者が指摘するように、金城哲夫が生きていたなら、いまも大きな存在であったかもしれない。


金城哲夫の生家・松風苑(2009年) Leica M4、Biogon 35mmF2、Rollei Retro400、イルフォードMG IV RC、2号

●参照
歴史の裁きはつねに欠席裁判である
沖縄「集団自決」問題


副島輝人『世界フリージャズ記』

2013-06-01 08:59:46 | アヴァンギャルド・ジャズ

副島輝人『世界フリージャズ記』(青土社、2013年)を読む。

何しろ、名著『現代ジャズの潮流』『日本フリージャズ史』を書いた副島氏の新たな本とあって、すぐに入手して、じっくりと読み続け、名古屋行きの新幹線の中で読み終えた。いや面白い。

この面白さは、二次情報を「ジャズとはかくあるべきもの」という大前提のもとで取りまとめたような評論などとはまったく異なり、著者みずからが、絶えず変貌していくジャズのエッジの部分に身を置き、観察、評論だけでなく、歴史をつくりあげていく過程そのものであったことによるものだろう。

著者は、フリージャズの実験場たるメールス・ジャズ祭にも、1977年以降、毎年足を運んでいたという。何かが創出されていく現場において、有象無象の人間活動を前にして、それをジャズという目でとらえなおしていくことは、おそらく、知的渇望と、言語化のためのたいへんなエネルギーとを必要とする。その結果としての「副島節」というわけである。

それにしても、こんな文章を書く人はなかなかいない。読みながら嬉しくなってしまう。

スティーヴ・レイシーについて、「河のように、自由な曲線がどこまでも延びていく。あるいは、宇宙を流れる河なのかも知れないが、その宇宙とは意識の内側に在るミクロコスモスでもあるのだろう。

ポール・ブレイについて、「自分の内面を凝視することは、鮮烈な創造行為である。私たち自身そのことを彼のピアノ演奏によって知らされているではないか。そして、彼の内面の翳りを見ている、聴いているのだ。

●参照
横井一江『アヴァンギャルド・ジャズ ヨーロッパ・フリーの軌跡』