Sightsong

自縄自縛日記

堀田善衛『時空の端ッコ』

2013-06-08 09:11:00 | 思想・文学

堀田善衛『時空の端ッコ』(筑摩書房、1992年)を読む。

『ちくま』に連載されていたエッセイを集めた本であり、いくつかは読んだ記憶がある。 

このエッセイが書かれた1989~91年は、昭和が終わり、天安門事件があって、東欧革命があって、それどころかソ連が崩壊するという激変の時期だった。大学生になったばかりのわたしは、何が起きているのかまともに理解できず、視れども視えず、茫然としていた。

当時、堀田善衛はすでにヨーロッパに居を移して長い。しかし、離れた場所から観察するから新鮮なのではない。さらりとして飄々たる名文には、余人からは得難い知性が散りばめられている。過去を語ることはたやすい。現代の現象を論説することも、多くの者にとって、やってやれないことはない。難しいのは、知をもって現代の基盤にアクセスすることである。

当然、確たる結論はない。著者をもってしても、現代へのアクセスは揺れ動く。その揺れ動きを提示することが、知性なのだと思える。そして著者の知性は、抵抗の知性でもあった。

印象的な「出エジプト記」という文章。モーゼは、解放ののち、いかにも厳しい十戒を人びとに示した。視線は現代政治に飛ぶ。「自由と解放というものが、時として狂気のはじまりである」と、著者はいう。自由と解放には毒もまた含まれており、容易に不寛容なナショナリズムに転じ、やがて幻滅の感が訪れてくるのだ、と。

「民主主義は、それ自体に、これが民主主義か? という幻滅の感を、あらかじめビルト・インされたform of governmentなのであった。」

共感しながら、そうであるならば、と思った。いまは、「政権交代」、「民主主義」という夢に幻滅してしまっている時期ではないのか、と。もちろん、夢はいつまでも地平の向こうにある夢であり、追い続けるべきものである。しかし、幻滅が世の中を覆ってしまい、その結果、意にそぐわない為政者であっても、声が大きければ、その玉座をつくってしまう。

思想は本来、敗北者のものである(白川静『孔子伝』)(>> リンク)。脱ナショナリズムも、脱原発も、不健康な幻滅の時代にあって、思想へと化していくものではないか。

いま響く、印象的なことばをもうひとつ。

「われわれの平和憲法もまた、一つのイデオロギーであると言えるであろう。現実の世界に置いてみれば、まさにまだ若々しいものではあるけれども、われわれはこのイデオロギーによって、歴史を創って行こうとしたのではなかったか。このイデオロギーまでを、プロクルステスの寝台に横たえて、為政者が長すぎると見る足を切ったり、短足と見るものを、綱をつけて引っぱったりしてはならないのである。」

●参照
堀田善衛『若き日の詩人たちの肖像』
堀田善衛『インドで考えたこと』