鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.冬の取材旅行「東松島~石巻~南三陸町」 その14

2013-02-11 07:16:26 | Weblog
 「上の山公園」から志津川の津波被災跡地を見渡し、何枚かの写真を撮影しました。

 「上の山公園」と記された標示板には、「志津川町指定避難場所」とあり、また「この公園は、地震災害や津波災害時における指定避難場所です」とも記されていました。

 さらに「異常な引き潮 津波の用心」とも記されていました。

 地震発生後の異常な「引き潮」現象が、巨大津波の襲来を知らせるものであることは、過去の度々の体験から十分に知り得ていることであり、したがってその「異常な引き潮」が発生したらすぐに指定避難場所に逃げろ、というのがこの標語の意味です。

 押し寄せた津波が引く時の力というのもものすごく、その威力については私は幕末における下田港を襲った地震による津波被害の記述や、戦後まもなく四国南部を襲った地震(南海大地震)と津波に遭遇する体験を持った森繁久弥さんの本の記述から知ったのですが、押し寄せた津波が戻る時に瓦礫とともに海に流されていった人たちも多かったのではないかと思われました。

 その標示板を右手に見て坂道を下り、車を停めた空き地に戻ったのが14:14でした。

 そこから今下りてきた坂道を振り返ってみると、その坂道の白いガードレールが下3分の1ほどがねじ曲がっていました。

 ということは、そのねじ曲がっている部分のところに津波がぶつかったということであり、ねじ曲がっている上の部分の標高としては6m前後はあるように思われました。

 車に乗って道路をさらに進み、いったん丘陵部の間を通って再び海岸線へと近づいていったところ、その道路をまたぐ形で鉄道のコンクリート製陸橋が横断しているものの、その両端は断裂してしまっているという光景が目に飛び込んできました(14:22)。

 ここにも道路右手にプレハブの仮設コンビニがあったため、その駐車場に車を停め、その陸橋へと近づいてみました。

 陸橋の左下の部分から左側の丘陵に穿たれている鉄道のトンネルへと斜面を上がってみると、赤さびた線路が、本来敷設されていたところよりも内側(海岸の反対側)へとずれ、しかも土砂にやや押し流されて傾き、線路の幅が狭くなった状態でトンネルへと延びていました。

 陸橋が断裂しているために、もちろん線路も切断されています。

 そこからコンクリート製の橋の上を眺めてみると、橋の表面はいくつにも断裂しており、その上に敷設されていたはずの線路はすっかり無くなっています。

 ねじ曲がったり橋から外れてしまったりしたために、じゃまとなってしまった線路は撤去されたものと思われます。

 トンネルの入口には「清水浜」と記されていました。「L=81m」。トンネルの全長が81mということ。

 そのトンネルの向こう出口に、もう一つのトンネルの四角い入口が見えました。

 トンネル内の線路は、出口部分のそれとは違って、曲がってもおらず幅が狭くもなってもおらず通常の状態を保っています。

 そのトンネル出口のところから車を停めた仮設コンビニが見えますが、その周囲はまったくの更地となっており、また海岸部を見渡してみても、付近一帯はまったくの更地になっています。

 更地の向こうに海面があり、海に浮かぶ漁船が一隻見え、小さな島があり、右手に半島が見えました。

 鉄道の陸橋は寸断されています。

 「これでは当分復旧は難しいだろうな」と、先ほど見た「折立」トンネルや陸前戸倉駅付近の状況と重ね合わせて、そう思いました。

 この鉄道はJRの「気仙沼線」ですが、海岸部のあちこちで巨大津波により寸断されてしまっているのです。

 先ほどの志津川では、どこに線路が走っていて、どこに駅があったのかも、あの「上の山公園」の眺望からはわかりませんでした。

 陸橋を潜って車を停めてある仮設コンビニの駐車場に戻る途中、道路の傍らにバス停があり、「清水浜 しずはま」とありました。

 「JR」とあるから、これは鉄道代替バスの停留所であるようです。

 「JR線運賃表」を見ると、「志津川」までは180円、「陸前戸倉」までは200円、「気仙沼」までは650円となっていました。



 続く



○参考文献
・『広重と浮世絵風景画』大久保純一(東京大学出版会)


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