鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

定信と文晁、そして「真景図」について   その2

2014-01-28 05:36:27 | Weblog

 定信はどうして文晁を「お抱え絵師」として召し抱えたのか。

 このことについて詳しいのは『江戸絵画と文学』今橋理子(東京大学出版会)です。

 まず今橋さんは、次のように記しています。

 「もともと漢詩人であった父・谷麓谷(ろっこく)が田安家家臣であったことから、幼少の折から定信と文晁は親しい関係にあったと見られている。」

 文晁は、天明8年(1788年)に奥詰見習い五人扶持として出仕したのを皮切りに、寛政4年(1792年)には、知行高百俵で定信付となっています(文晁30歳、定信34歳)。

 つまり、4歳違い(定信が4歳年長)ではあったが、幼少の頃よりよく見知っていた間柄ではないか、ということ。

 次に今橋さんが指摘するのは、次のことです。

 「文晁の絵画観形成の背景に、松平定信との関係を考察し、影響の深さを論じることはもはや定説化している。」

 文晁の絵画観の形成に、定信が深く影響している、といった考えはもはや定説であるというのです。

 ここで今橋さんは、定信の『退閑雑記』の文章を2ヶ所、紹介しています。

 「今の世のけしきゑがき…浮世絵のいやしき流のゑがくところにして、かけものなんどにもたゞ大体をのみ画くなり。…山水とてもすでに真の事にはあらず、浪に兎をゑがき、牡丹に獅子を画くなど、たとひ筆力不凡、彩色目をおどろかすとも、一時の玩弄にして、画の画たる本意はうすかりけり」

 「蛮画などは写真鏡にうつしてそのまゝを画けばこそ、横文字しらざるものも、その画によりてその製度をも察すべけれ」

 『退閑雑記』は、幕府老中辞任(寛政5年)後の寛政9年(1793年)に書かれたものだから、この定信の絵画観は、当初から定信にあったものではなくて、徐々に形成されてまとまっていったものと考えられます。

 というのも、若き日の定信は狩野派について絵画を学び始め、その後沈南蘋(しんなんぴん)の濃彩な花鳥画の画法を学んでいるからです。

 それが、どうして「絵画における〈写実〉や〈記録性〉、また〈実利性〉の追求」という絵画観へと変化したのか。

 その理由の一つは『退閑雑記』の一節にあるように、「蛮画」との出会いにあったようです。

 「蛮画」は、「写真鏡」に写してそのままを描いているから、「横文字」を知らないものであっても、その絵をみて西洋の制度や文物などを知ることができるというのです。

 定信が「紅毛の書」に目を通すようになったのは、『宇下人言』(うげのひとこと)によれば「寛政四五年のころ」からでした。

 「寛政四」年と(1792年)と言えば、その年の9月、ロシア使節アダム・ラクスマンが伊勢白子(しろこ)の船頭(漂流民)大黒屋光太夫をともなって、エカテリーナ号で蝦夷地根室に来航し、幕府に対し通商要求をした、その年。

 定信は筆頭老中として、ロシア問題、海防問題に深刻な危機意識を持つことになりました。

 その定信は、自らも海外の情報を手に入れるために「紅毛の書」を収集するようになったのでしょう。

 しかし自らは「横文字」を知らない。

 定信は、寛政4年(1792年)に、元長崎通詞(つうじ)の石井庄助や『紅毛雑話』の著者である森島中良を家臣に迎えています。

 おそらく元長崎通詞の石井庄助や森島中良を通して、「蛮書」(西洋書)の収集に努めるとともに、海外への情報を集め、そして西洋理解を深めていったのでしょう。

 その際、「横文字」を知らない定信にとって、西洋の制度文物を知る上で大変役に立ったのが、その「蛮書」に掲載されている挿絵(「蛮画」)であったものと思われる。

 「蛮画」の写実性・実利性・記録性に括目した定信は、西洋画法を学んだ日本人の画家や銅版画家にも着目する。

 それが誰であったかと言えば、一人は「秋田蘭画」の小田野直武(1749~1780)であり、一人は司馬江漢(1747または1748~1818)であったものと思われる。

 司馬江漢は、天明3年(1793年)に、すでに日本で初めてのエッチング(腐蝕銅版画)の作品である「三囲景」(みめぐりのけい)を完成させています。

 司馬江漢は平賀源内と付き合って西洋の学芸に関心を持つようになり、蘭書の科学的な挿画、それも銅版挿画の迫真性に親しむようになりました。

 江漢は、蘭学を学ぶために『解体新書』の翻訳者の一人である前野良沢に入門。

 同門の大槻玄沢に蘭書を訳読してもらって、腐蝕銅版画の技法を研究し、腐蝕銅版画を製作できるようになりました。

 定信は、寛政6年(1794年)に白河藩領須賀川の地で、紺屋(染色業)を営む傍ら絵に巧みな永田善吉(1748~1822)というものを見出し、まもなく召し抱え、文晁の弟子としています。

 これが亜欧堂田善ですが、その田善は定信の命令で司馬江漢に銅版画を習いに行ったが、性格的に銅版画を習うのに適しておらず破門されてしまったという。

 その前後か、田善は定信のもとにいた蘭学者たち、森島中良や石井庄助らの助力を得て銅版画技法を研究し、製作を始めていったらしい。

 須賀川で見出した永田善吉(亜欧堂田善)に、司馬江漢のもとに行かせ銅版画を学ばせようとしたことが、定信の「蛮画」の「記録性」や「実利性」に対する高い評価をうかがわせるものです。

 「お抱え絵師」である文晁は、どうであったか。

 すでに触れたように、文晁はすでに天明7年(1787年)の時点で、「松島真景図巻」という木版刷りによる図巻を完成させていました。

 この時、文晁は25歳。田安家に出仕する前の年になる。

 文晁は、天明5年(1785年)頃、西遊しており、また天明6年(1786年)頃には東北に遊び、そして天明8年(1788年)には長崎に旅しています。

 若い日に全国を旅しており、行っていない国は日本全国のうち4、5ヶ国に過ぎなかったという。

 定信の『退閑雑記』には次のような記述がある。

 「田邸の文晁…山水をこのむ。年おさなき頃より諸国を遊歴して、我国において行みざる国は四五ヶ国に過ず。名士みなかれが交るところとす。わづか三そぢ余りなり」

 文晁は、旅で赴いた各地の風景、とくに山水を数多くスケッチしていたものと思われます。

 天明7年に描かれた「松島真景図巻」を見ると、すでに西洋画的遠近法が習得されており、鳥瞰的視点からの伸びやかな風景の広がりが丹念に描かれているのがわかります。

 定信が文晁に着目したのは、このような「真景図」を描くことのできる画力であり、そしてまた全国各地を旅して得た豊富な情報と人的ネットワークではなかったか。

 寛政5年(1793年)、定信が江戸湾岸巡視を決行した際、文晁を随行させて各地の風景を描かせたのは、海防問題(江戸湾防備)に直面した定信が、絵画(風景画)の〈記録性〉や〈実利性〉を何よりも重視し、それを実際に発揮できる画力を持った優れた絵師として、文晁が身近にいたからに他ならない。

 その定信の期待に、文晁は『公余探勝図巻』を完成させることによって、見事に応えたのです。

 

 続く(次回が最終回)

 

〇参考文献

・『江戸絵画と文学』今橋理子(東京大学出版会)

・『江戸後期の新たな試み-洋風画家谷文晁・渡辺崋山が描く風景表現』(田原市博物館)

・『生誕250周年 谷文晁』(サントリー美術館)

・『江戸の銅版画』菅野陽(新潮選書/新潮社)

・『定信と文晁-松平定信と周辺の画人たち-』(福島県立博物館)



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2 コメント

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Unknown (シンボリ)
2014-01-28 21:12:00
お久しぶりです(^3^)/ バラエティー番組なんですが、今度福井の南越前町で収録された、「ナインティナインのモテナイ」TBS2/4火曜日、19:00から。こんな宣伝してすいません。南条や今庄、河野の青年の婚活番組です。失礼しました(^^;
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シンボリさんへ (鮎川俊介)
2014-01-31 05:16:29
お久しぶりです。
脇本の方、この冬の雪はどうですか。
私の住んでいるところでは、この冬は雪が多く降るかも知れないと予想されながら、積雪(といっても北陸の積雪からくらべれは話になりませんが)はまだありません。
「ナインティナイン」の婚活番組があるとのこと。ぜひ観てみたいと思います。
「婚活」という言葉は、むかしは聞いたことがありませんが、今は都市でも地方でも、いろいろな「婚活」が工夫されているようですネ。
それなりの安定した収入があり、子育ての時間が確保されるようなしっかりした雇用なり仕事がないと、なかなか結婚へと踏み切れないのかも知れません。
「若年女性の貧困」とか「シングルマザー」の情報番組などを観るとみ、若い人たちを取り巻く現在の環境は、なかなか厳しいものだと感じます。
地方では、都市部とはまた異なる「婚活」問題があると思いますが、南条・今庄・河野の青年たちの間では、どういう「婚活」が展開されているのか、興味津々です。
まだまだ寒さはきびしいですが、お体にお気を付け下さい。
                         鮎川俊介
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