鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

佐渡市相川「京町通り」 その11

2019-02-20 07:11:40 | Weblog

 「旧相川拘置支所」の隣の空き地に石臼や石製の流し場、石製の容器などが並べられていて、「生活用品としての石細工」と記された案内パネルも掲示されていました。

 それによると 江戸時代初期に播州(兵庫県)から越中(富山県)を経て佐渡へ渡って来た石屋たちが下相川に石切町を開いたとのこと。

 下相川町や中寺町には石切場があり、そことれる安山岩などを利用して石垣や石製の生活用品などが多数作られたことにより、相川町には石細工が多く見られるという。

 現に石細工が並べられているところの背後も石垣であるし、旧鉱山住宅の基礎も石垣。

 「京町通り」は海岸付近から相川金山までゆるやかな坂道になっているから、その両側に並ぶ家々の基礎も石垣が多く、それが段々になっています。

 江戸初期に相川金山が見つかって多くの人々が全国各地から相川に集まってきたため、それまで小さな村であったところがたいへんな人口密集地になっていきました。

 平地が少ない山がちなところに町を作っていったために、山の斜面が切り開かれて段々が造られ、石垣によって土止めがなされ、そこに商家や人家、寺社などが建てられていきました。

 石切町の石屋が町の造成に活躍し、石切場は活況を呈したことでしょう。

 彼ら石屋たちは、町の造成だけでなく多くの石製の生活用品も作り出しました。

 それらのごく一部がここに並べられているのです。

 それらを眺めていると、ちょうど通りかかった近所のおばあちゃんがいて話しかけてきました。

 おばあちゃんの話によると、ここはもと空き地だったところが整備されて、いきなり石製品が置かれることになったのだとのこと。

 また旧鉱山住宅のうち、右側の長屋(「新五郎町住宅4、5号棟」の金属プレートが張ってあったところ)も、もともとはぼろぼろの空き家(長屋)だった建物を市の方できれいに整備したものであったとのこと。

 つまり最近になって佐渡市が、この「京町通り」およびその周辺を整備したものであるようです。

 もともとはこの「京町通り」も現在のように舗装されてはいなかったようです。

 「観光客でここを歩く人はいますか」

 と聞くと「歩く人はいるけれどもそれほど多くはない」とのこと。

 「観光客は観光バスや車で佐渡金山にやって来て、そのまま観光バスや車で帰る人が多い」

 「『ぶらタモリ』でも、タモリさんはこの『京町通り』には来なかったよ」

 「拘置支所の前の階段でタバコをふかしている役人を見たことがある」

 「昔はこの通りはたいそう賑わっていて、あの頃の賑わいを取り戻してほしいぐらいだよ」

 と、いろいろと話をしてくれました。

 病院もかつて相川の病院は総合病院だったが、人口が減ったことによって病院は縮小し、科のない病気を診てもらう場合は佐渡の中央にある病院か、フェリーで海を渡って新潟市の病院へ行かなくてはいけなくなったようで、現にこのおばあちゃんもガンの手術で新潟市の病院に入院していたことがあるという。

 息子たちもここを離れ、現在は一人住まい。

 少子高齢化、若者たちの流出という現象は、ここ相川でも例外ではありません。

 とりわけ戦後に佐渡鉱山の大規模縮小が行われたことにより、また平成元年に佐渡鉱山が休山したことによって、この相川町やそのメインストリートであった「京町通り」の界隈は大きな変化に遭遇することになったことを、このおばあちゃんの話からも実感することができました。

                        続く



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