坑道内には、あちこちに当時の坑内の様子が再現されていました。
その一つが、「水上輪」を操作する樋引(といびき)人足の働いている現場。
直径40cmほどの木製の大筒が2本あって、そこで樋引人足が大筒の内部を回転させています。
解説によると、この大筒は「水上輪(すいしょうりん)」という坑内排水(揚水)ポンプ。
このポンプの祖形は紀元1世紀のアルキメデスが考案したアルキメデスポンプとされるといい、それを京都(大坂とも)にいた水学宗甫(すいがくそうほ)という者が佐渡に伝えたとのこと。
解説だけではわかりませんが、おそらく「南蛮貿易」や「南蛮船」で日本にやって来た西洋人がその仕組みを日本に伝えたものと推測されます。
1653年にはすでに使われていたということは、相川金山が発見されて50年余の間に導入されていたことになります。
この「水上輪」を操作する樋引人足は、高い賃金が得られることから、出稼ぎにやって来る近隣の農家の次男や三男でしたが、江戸後期には無宿人も使われた、とありました。
大量の地下水が湧いてくる坑道現場において、その地下水を「水上輪」などを使って上へ運んで排出する作業に、江戸時代後期になると無宿人が加わっていたということになります。
より詳しくは「水替人足と無宿人」や「樋引人夫と水替人足」という解説に記されていました。
それによると、つるべや手桶で湧水をかい出す重労働をするのが水替人足で、「水上輪」などを操作するのが樋引人夫(にんぷ)であったとのこと。
水上輪だけでは間に合わず、手繰り水替による人海戦術がとられるようになり、不足するその人員を補充するために江戸・大坂・長崎などの無宿人を受け入れるようになったという。
その最初が安永7年(1778年)でした。
「無宿人」とは、「親に勘当されたり放浪していて、宗門人別帳(戸籍)から除外された者で無罪の者。後に有罪者も混ざるようになる。幕末までの100年間に、1874人が佐渡に送られてきた」(「水替人足と無宿人」)とありました。
「1874人」という具体的な数字が示されているのには驚きました。
正確にその人数が把握されていた(その記録がある)ということであるからです。
隔日交替の一昼夜勤務で、賃金はよかったという。
日当は、飯米一升二合。味噌・醤油・野菜など。また塩代、小遣など。
その他、年間仕事着、蓑・笠代、蒲団代が支給されたという。
つるべや手桶で湧水をかい出すほか、「水上輪」などを操作することもあったのかも知れません。
これらの解説で注目されるのは、「無宿人」=犯罪者ではないということ。
江戸や大坂などの極悪人が佐渡の金山に送り込まれ、過酷な労働に従事させられたというイメージがありますが、そうではなく、「無宿人」とは「親に勘当」されたり「放浪」したりして「宗門人別帳」から除外された者のことで(これを「帳外」ともいう─鮎川)、その一部が佐渡金山に送り込まれたということ。
さまざまな事情から宗旨人別帳から除外された者たち。
村落共同体からはみ出た者たちや締め出された者たち。
彼らの多くは村から都市(町)に出たり、各地を放浪したりしました。
とりわけ江戸や大坂といった大都市は、そのような「無宿人」が集まったところでした。
「1874人」という具体的な数字が出てくるということは、佐渡金山に水替人足として送り込まれた「無宿人」は、かなり厳重に管理されていたということを推測させます。
続く
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