鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

佐渡市相川「京町通り」 その10

2019-02-19 07:21:37 | Weblog

  「旧相川拘置支所」を出た斜め向かい側にあったのが「旧鉱山住宅」でした。

 右側の長屋板壁の金属プレートには、「重要文化的景観」「佐渡相川の鉱山及び鉱山町の文化的景観」「新五郎町住宅4、5号棟」とあり、「昭和10年代の鉱山大増産期に建てられた小規模な2室の和室をもつ労働者住宅。戦後の鉱山大縮小後は相川拘置支所の官舎としても利用された」と説明があり、最後に「重要な構成要素No39/佐渡市」と記してありました。

 先ほど私が見学した、通り斜め向かいの相川拘置支所は昭和29年(1954年)に開設されたものでしたが、この長屋はその官舎としても利用されていたことがわかりました。

 もともとは昭和10年代(戦前)の佐渡金銀鉱山の大増産期に建てられた労働者住宅。

 「重要文化的景観」「重要な構成要素No39/佐渡市」とあることは、佐渡市が指定した「重要文化的景観」として複数の「構成要素」があり、その39番目であることを示しているようです。

 また「昭和13年の相川新五郎町」と記された、画鋲で板壁に張られた掲示があり、それによると、明治29年に相川金銀山は明治政府から三菱合資会社に払い下げられ、その鉱山職員のための鉱山住宅として昭和前期に建てられたものであるとありました。

 長屋は全部で5棟あり、1棟には2つ玄関があって1棟に2家族が住んでいました。

 斜め向かい側にも鉱山住宅があり、それは主に単身者が暮らす寮でした。

 その単身者が住む寮が撤去されて、昭和29年に相川拘置支所が建てられたことがわかります。

 鉱山住宅は、昭和10年代の鉱山大増産期に建てられた鉱山職員の住宅であり、戦後の鉱山大縮小後はそれまであった単身者用の寮が撤去されて、その場所に相川拘置支所が建てられ、長屋の方は相川拘置支所の官舎などに利用されていたことになります。

 現在は佐渡市の市営住宅として使われているようであり、左側の長屋には住んでいる方がいて、玄関脇に郵便ポストや植木があるなど暮らしの気配がありました。

 昭和10年代(戦後)の「鉱山大増産期」と戦後の「鉱山大縮小」については、後で、北沢地区の佐渡鉱山の跡地を見学した際にその詳細を知ることになりましたが、この「旧鉱山住宅」はその戦前の最盛期と戦後にかけて、鉱山で働いていた鉱山職員およびその家族(寮の方は単身者)が暮らしていた長屋であったことがわかりました。

                           続く



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