鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

定信と文晁、そして「真景図」について   その3

2014-01-29 06:38:27 | Weblog

 寛政5年(1793年)の定信の江戸湾岸巡視に随行して、『公余探勝図巻』を完成させた文晁は、翌寛政6年(1794年)には、「浴恩園図記」を描き、また奥州白河に戻る定信に随行してしばらく白河に滞在し、白河小峰城三の丸内に造営された「南園」を描いた「楽翁公下屋敷真景図」を制作しています。

 この時、白河にはまだ「南湖」は存在せず、それが完成されるのは享和元年(1801年)のこと。

 その「南湖」を、文晁は「南湖勝覧図」として文化3年(1806年)に描いていますが、それが実景を見て描いたもの(真景図)であるかどうかはわからない。

 文晁の「浴恩園図記」も、そしてまた「楽翁公下屋敷真景図」も、江戸築地の「浴恩園」や白河小峰城三の丸内の「南園」の初期の姿を描いたものであり、記録的にも貴重なもの。

 定信は、お抱え絵師である文晁に、後世にその姿を伝えるために「記録」としてその「真景図」を描かせたものと思われます。

 「絵画における〈写実〉や〈記録性〉、また〈実利性〉」を追求する定信の姿勢は、自らが築造した庭園を「真景図」として描かせるという形でここにも貫かれていることがわかります。

 星野文良による、「浴恩園真景図巻」もその延長線上にある。

 『江戸絵画と文学』の著者今橋理子さんは次のように指摘する。

 「『公余探勝図』は、海岸防備を目的とした巡見で実視した現場を、第三者に対して〈立体性〉と〈臨場感〉をもって「伝達」することを目的とした「記録」映像であったと位置づけることができるだろう。いずれにしても、この仕事を通じて文晁が絵画表現-とくに風景における「現実」や「写実」の問題について、強く意識をもつことになったことは疑いなく、これ以降の文晁画の中に「写実」的な風景画がたびたび現れてくるようになる。」

 そしてその風景画は、

 「確かに従来の狩野派でも、洋風画でも、南宋画でもない、まったく新しい山水・風景表現の確立だったと言えるだろう。」

 とも。

 共通することは芳賀徹さんも「『公余探勝図』私観-谷文晁と洋風画-」で指摘しています。

 「洋画法を習得することによって自然に対しても新しい観察の眼を開かれた」文晁は、「自然が新しく見えてくることの喜び」を、定信の相模・伊豆巡見学に随行し、風景をスケッチしていくことの中で感じていったというのです。

 「自然が新しく見えてくることの喜び」

 これは文晁においてそうであったように、その門弟である崋山においても同様であったでしょう。

 父定通の死の翌年、文政8年(1825年)に「四州真景」の旅に出発した崋山が、道中において数多くのスケッチを描いた時も、興趣を感じた対象に向かってスケッチをする崋山には、「自然が新しく見えてくることの喜び」があったのではないか。

 北方の脅威をきっかけとした江戸湾防備のための定信の相模・伊豆巡見、そこにおいて〈写実性〉〈記録性〉〈実利性〉を求められたお抱え絵師文晁は、その巡見中に数多くのスケッチを描いていくことにより、「狩野派でも、洋風画でも、南宋画でもない、まったく新しい山水・風景表現」を確立させることになったのです。

 その文晁の「まったく新しい山水・風景表現」を学んだ崋山は、清新で伸びやかな「真景図」の傑作を、その旅先で生みだしていくことになりました。

 

 終わり

 

〇参考文献

・『房総の幕末海防始末』山形紘(崙書房出版)

・『江戸絵画と文学』今橋理子(東京大学出版会)

・『定信と庭園』白河市歴史民俗資料館(白河市都市整備公社)

・『生誕250周年 谷文晁』(サントリー美術館)

・『写山楼 谷文晁』(栃木県立美術館)



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