鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.9月取材旅行「大麻生~押切~上新田」 その7

2013-11-15 05:52:45 | Weblog

 途中で旧道らしき道があったので、県道から左へそれてその旧道へと入って進んで行くと、まもなく右手に神社の石鳥居があり、その境内へと入っていくと「村社 諏訪神社」と刻まれた標柱があり、この神社が「上新田村」の「村社」であった「諏訪神社」であることを知りました。

 案内板もしっかりとあり、それには以下のようなことが記されていました。

 所在地は、熊谷市上新田。

 創立年代は不詳。

 本殿は延享3年(1746年)に、柴田信右衛門豊忠が再建し、明治28年(1895年)に修理したもの。

 末社には、女(め)諏訪神社、天神社、琴平神社があって合祀されている。

 最近まで、地区内を山車(だし)が屋台囃子(やたいばやし)もにぎやかに練り歩き、神楽を奉納し、この地の無病息災を祈願した。

 この中で注目されたのは、本殿は延享3年に柴田信右衛門豊忠が再建したという記述。

 上新田の「柴田家」がかなり有力な家であったことは、三ヶ尻や大麻生を取材している時に耳にしたことであり、三ヶ尻村の黒田平蔵(幽鳥)は、この上新田村の柴田家の次男として生まれて、黒田家に養子として入った人だということを聞いていました。

 上新田村から見れば、荒川を北に越えた三ヶ尻観音山のあたりも柴田家の土地であったとも、聞いたことがありました。

 俳諧の師匠として、近隣に500人の門弟を有していたという人物であり、大変な教養人であったのでしょう。

 崋山がその離れに滞在した大麻生村の古沢喜兵衛(槐市〔かいち〕)にとって、俳諧の師匠として仰ぐ存在は、その三ヶ尻村の黒田平蔵(幽鳥)であったのです。

 馬場國夫さんの「渡辺崋山の調査協力者『三ヶ尻村黒田平蔵』考察」によれば、三ヶ尻村の豪農であった黒田平蔵は、黒田家7代目であり、大里郡上新田村の代官柴田又兵衛の次男であって、天明4年(1784年)に生まれて、天保13年(1842年)に亡くなっています。

 崋山が三ヶ尻村を訪ねた天保2年(1831年)には、48歳でした。

 柴田信右衛門とは、この大里郡上新田村の代官であった柴田家の当主であったと考えられます。

 神社の本殿を再建することができるほどの財産を有していたことになる。

 境内には、

 「父祖の地や 桑の畑より 神の杜   白陽」と刻まれた句碑もあり、「白陽」なる人がどういう人であるかはわかりませんが、このあたりが養蚕で栄えた地域であることがわかります。

 その諏訪神社のある集落の中の通りに、「熊谷市ゆうゆうバス ~籠原駅南口ゆき~ 上新田 国際十王バス」と記されたバス停があり、また通りに面した人家の前に「こうなん祭り」のポスター板も立てられていました。

 諏訪神社前の通りに戻って、さらにその道を西方向へと進んで行くと、左手に広場があって、その広場の向こう(南側)に、立派な屋根付きの、白壁の白が際立つ板塀で囲まれた屋敷(右端には白壁の蔵も見える)があり、そのたたずまいの立派さから、ここが柴田家ではないかと直感し、さっそくその広場を抜けて、屋敷の左側にある細道へと入って行きました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)

・『江南町史 資料編5 民俗』(江南町)

・『熊谷市郷土文化会誌 第64号』「渡辺崋山の調査協力者『三ヶ尻村黒田平蔵』考察」馬場國夫

 



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