奉行所の御役所を出て「寄勝場(よせせりば)」(復元したもの)を見学しました。
「寄勝場」というのは金山で採掘した鉱石を粉砕・選鉱し精錬した作業場。
各所にあったものを、横流し防止のために一ヶ所に集めたものであるとのこと。
施設内の解説パネルによれば、宝暦9年(1759年)から奉行所の敷地内に設けられたものであるという。
「寄勝場」に入ると、ちょうど作業内容を紹介するための映画撮影を行っている最中でした。
ちょんまげで着物を腰に巻いて石臼を回す(鉱石を細かく砕く作業)上半身裸の人夫たち、着物を着て選鉱をしている人夫、作業の様子を上役に説明する担当の武士たち(奉行所の役人)、母親と一緒に幾筋も流れ下る水路で金を採取する子どもたち、赤ん坊をおんぶして働く女たち。
それを撮影するカメラマンや化粧担当の人、監督と思われる人などが立ち働いていました。
まるで時代劇の撮影現場のようになっていました。
たまたまその撮影の最中に「寄勝場」に入ったことになります。
滅多にないことなので、施設の方に断って撮影現場を見学させてもらいました。
興味深かったのは、「寄勝場」では男だけでなく女や子どもも働いていたこと。
女や子どもも労働力であったのです。
彼らは大工町や諏訪町、次助町などから働きにやって来た女や子ども(大工の妻や子ども)であったかも知れません。
それらの町からはここまで歩いて30分ほどであったからです。
それらの町には金銀山へ「金穿(ほ)り」に行く男たち(大工)もいれば、「寄勝場」に働きに行く男たちや女・子どももいたものと思われます。
また金銀山においても女たちが働いていたことは、鉱山を巡見した佐渡奉行川路聖謨(としあきら)の日記でわかります。
佐渡金山や佐渡奉行所の「寄勝場」は、男だけでなく女や、場合によっては子どもが働く作業場であったことが、この撮影現場を見てよくわかりました。
撮影が終わって建物を出ると、ちょうど出演していた女性や子どもたちが外に出たところでした。
あたりまえのことですが、佐渡金山があったかつての相川町にも、鉱山労働者を含む一般庶民の日常の家族生活やその家族の「歴史」の積み重ねがあったことを、撮影に参加していた女性や子どもたちの姿からあらためて感じることができました。
もちろん江戸から送られて来て「水替人足小屋」に入り、厳しい労働環境の坑内で働き、差配人の監視のもと「水替人足小屋」で共同生活を送った無宿人たちにも、それぞれの人生があったのです。
終わり
小谷源之助は明治20年代に佐渡でアワビ事業を行っていました。新潟から横浜へ干鮑を送っていたようです。
佐渡について紹介されていますが、情報交換は可能でしょうか。