平井義十郎は、森家第七代出島組頭であった森永年の長男として、天保10年(1839年)1月27日、長崎の興善町に生まれています。興善町というのは、現在長崎市の消防局や中央署がある辺り。
出島組頭は、出島のオランダ商館を管理する地役人。オランダ商館を管理するトップは長崎奉行で、その実務にあたる責任者が町年寄(地役人のトップ)。町年寄は出町乙名(おとな)2名を任命し、その下に組頭・筆者、さらに通訳として大通詞・通詞目付・小通詞・稽古通詞などを置いていました。その組頭が、義十郎の父であったわけで、出島のオランダ人と密接な関係を持っていた、ということができるでしょう。
嘉永5年(1852年)8月、14歳の時、唐通詞(「通事」とも。以下「通事」として記す)平井家第九代雅高(作一郎)の養子となり、平井義十郎と称することになります。
「通事」というのは、中国語の通訳(唐通詞)のこと。対して「通詞」というのは、オランダ語の通訳(蘭通詞)のこと。
鎖国時代、幕府は長崎を窓口にして、中国(清国)およびオランダと交易をしていたため、通訳を必要としました。長崎には、中国人やオランダ人と日本人との間で同時通訳をすることが出来、また中国語やオランダ語の文書をスラスラと作成し、また翻訳することの出来る人々が多数存在していました。彼ら通事や通詞は、武士ではなく、長崎の町に住む地役人(じやくにん)でした。地役人は、長崎の町を支配している役人(町人)であり、長崎の町政は、町年寄を筆頭にして二千人余りの多数の町役人(長崎の町民のうち20分の1近くは地役人)によって担われていました。つまり「町民の町民による」政治が行われている特異な町だったのです。
長崎の町には、奉行所関係の役人と、一年交替で港の警備にあたる福岡・佐賀両藩士、そして各地から留学生としてやってきた武士のほかには、武士はほとんど居住していませんでした。
地役人である通事・通詞の職は、代々世襲であり、そのため跡取がない場合は、他家より優秀な者を養子に迎えたりなどして、通事・通詞職を継がせていました。
義十郎が養子に入った平井家は、太祖が平井敦昌(あつまさ・市左衛門)で相州鎌倉の出身。寺沢志摩守広高が、幕命により、初代長崎奉行として長崎に赴任した際、市左衛門は奉行寺沢広高に同道して、まず平戸に居住し、後に長崎に移住。この平井家は、代々通事職の家柄で、初代(太祖)が市左衛門、義十郎は十代目になります。そして義十郎は、八代昌成(考三郎)の娘斐(あや)と結婚しています。
通事は、首席に大通事がいて、次に小通事がおり、その下に稽古通事、稽古通事見習、内通事などがおり、定員は134名でした。
通事のほとんどは明末・清初の頃の日本への亡命者か、あるいは海寇(海賊)の流れであった(多くは中国人の子孫)ということですから、もともと平井家は、通事職としては珍しい家柄だったということになります。
嘉永5年(1852年)、義十郎は稽古通事である養父の雅高(作一郎)の願いにより稽古通事見習となり、御役所(長崎奉行所)や通事会所、その他関係筋への挨拶廻りをしています。
安政3年(1856年)3月、養父作一郎お役御免(作一郎は、すでに前年11月に死去)と同時に、作一郎の跡を相続して、稽古通事見習から稽古通事になりました。
安政5年(1858年)、義十郎は、他の通事ら(頴川〔えがわ〕藤左衛門・呉〔ご〕硯三郎〔けんざぶろう〕・鄭〔てい〕右十郎・中山玄三ら)とともにロシア・オランダ両国の通商条約書の翻訳(漢訳)を長崎奉行より命ぜられ、その翻訳の功により、その年10月に「御褒美」を受けています。彼の語学力が、抜群であったことを示しています。
ここに出てくる「頴川」・「呉」・「鄭」・「中山」といった諸家は、「彭城(さかき)」・「王」・「何(が)」などとともに中国人の子孫で、「通事職」を世襲していた家でした。
諸外国との交渉が深まるにつれ、従来の中国語やオランダ語だけでは外交処理が困難になってきたことにより、大通事の鄭幹輔は、通事に英語を学ばせる必要を、時の長崎奉行である岡部駿河守長常(ながつね)に訴え、そのことにより安政5年(1858年)12月、義十郎は、游龍(うりゅう)彦三郎・彭城(さかき)太三郎・太田源三郎・何礼之助(があやのすけ)とともに、「「新地前英人止宿所」に赴き、英語に心得のある「英船乗組ノ中国人」より「英語修学」をするよう、長崎奉行岡部長常により命ぜられています。彼は、中国語ばかりか英語も学ぶことになったわけです。
安政6年(1859年)6月、稽古通事より小通事末席に。
万延元年(1860年)9月、小通事助 過人に昇進。
文久元年(1861年)11月、小通事助に昇進。
文久2年(1862年)、製鉄所通弁御用兼務を命ぜられています。
この「製鉄所」というのは「長崎製鉄所」のこと。
幕府は、安政4年(1857年)、海軍伝習所教官のハルデスらの指導のもとに、オランダから蒸気機関や工作機械などを輸入し、長崎対岸の稲佐郷飽の浦(あくのうら)に「鎔鉄(ようてつ)所」を建設し、これを「製鉄所」と改称しました。その製鉄所の「通弁」(通訳)として義十郎は活躍し、その年12月に奉行より「御褒美」を受けることになります。
文久3年(1863年)7月、「英語稽古所」が長崎奉行支配組頭永持亨次郎の官舎内に設置された際に、義十郎は、何礼之助とともに学頭となり、同月、当時の長崎奉行大久保豊後守忠恕、同服部長門守常純在勤の時、勤務誠実・勉学優秀なるを認められて、同僚何礼之助とともに長崎奉行支配定役格(しはいさだめやくかく)に異例の抜擢(ばってき)を受け、幕府の御家人(地役人〔町民〕から武士へ)となります。25歳の若さでした。
履歴書には次のようにあります。
「常々(つねづね)家業兼英語兼学格別出精是迄(これまで)御用筋正実(せいじつ)ニ相勤候(あいつとめそうろう)ニ付(つき)出格(しゅっかく)之訳(わけ)ヲ以テ長崎奉行支配定役格」を申し付けられた、と。
「家業」というのは「通事職」ということでしょう。
長崎奉行は、外交上の最高機密が洩れないように、神奈川や箱館では「通弁」が御家人に取り立てられて機密の保持がなされていることに鑑(かんが)み、「篤(とく)ト人撰」を行い、義十郎と何礼之助を御家人に取り立てたのです。先例はありました。安政6年(1859年)4月、岡部駿河守が長崎奉行であった時、オランダ大通詞楢林栄左衛門が支配定役に任じられていました。義十郎が、何礼之助とともに奉行から絶大の信頼を得ていたことは確かでしょう。
文久3年(1863年)11月、義十郎は、幕府が条約を締結した各国に使節を派遣するにあたっての「御用」(諸調査や諸準備)のため江戸行きを命ぜられ、長崎に差し回された船に乗って江戸に赴きます。
江戸での「御用」を務めて五ヶ月ばかり、元治元年(1864年)5月に長崎帰着。
江戸から東海道経由で長崎に帰る途中、義十郎は横浜に立ち寄り、佐野屋というところで、通弁仲間である太田・北村・名村(おそらく泰蔵〔1840~1907〕のこと。オランダ語のみならず英独仏の諸外国語を習得。文久元年〔1861年〕、神奈川奉行所詰を命ぜられた)・吉雄・平野栄三郎らと会っています。彼らは、長崎から横浜にやって来ていた通事や通詞たちでした。
その年6月、義十郎と何礼之助は、運上所詰を命ぜられ、お互いに一日交替で翻訳業務に携(たずさ)わることになります。
そして慶応元年(1865年)9月、義十郎は、「済美館学頭」を拝命します。
この「済美館」の前身は、文久3年(1863年)に立山町に設立された「英語稽古所」(義十郎と何礼之助が、その学頭であったことはすでに触れました)で、これが後に「洋学所」と改称され、また大村町に移転して「語学所」(英語・プロシア語・フランス語が教授される)となり、それが慶応元年(1865年)2月に新町の長州藩旧蔵屋敷(前年〔元冶元年〕夏の京都における「蛤御門(はまぐりごもん)の変」で長州藩は「朝敵」となり、この蔵屋敷は幕府に没収された)に移され、この年8月に「済美館」と命名されたのですが、その「学頭」になったのです。
ちなみに、元年の夏、江戸においては、桜田・麻布竜土の長州藩邸が幕府により没収され、打ち壊されています(風呂屋の焚き木となったとか)。
この「済美館」に、この年の秋(おそらく10月)、土佐からやってきた中江兆民(篤助)が入学。当然、その学頭であった平井義十郎と会ったはずです。
「済美館」とは、どういう学校だったのか。
フランス語を教えていた教師にはどういう人がいたのか。
フランス語の教本はどういうものだったか。
そして、幕府が倒壊した時、「済美館」はどうなったのか。
などといった点については、次回以後にまとめたいと思います。
また平井義十郎のその後についても、次回以後に回すことにします。
では、また。
○参考文献
・『維新への澪標(みおつくし)─通詞平井希昌の生涯─』平井洋(新人物往来社)
※この稿は、多くがこの本の記述に依拠しています。
・『長崎』原田伴彦(中央公論社)
・『日本史のなかのフランス語』宮永孝(白水社)
・『中江兆民』飛鳥井雅道(吉川弘文館)
・『日本近現代人名辞典』(吉川弘文館)
・『日本洋学人名事典』(柏書房)
出島組頭は、出島のオランダ商館を管理する地役人。オランダ商館を管理するトップは長崎奉行で、その実務にあたる責任者が町年寄(地役人のトップ)。町年寄は出町乙名(おとな)2名を任命し、その下に組頭・筆者、さらに通訳として大通詞・通詞目付・小通詞・稽古通詞などを置いていました。その組頭が、義十郎の父であったわけで、出島のオランダ人と密接な関係を持っていた、ということができるでしょう。
嘉永5年(1852年)8月、14歳の時、唐通詞(「通事」とも。以下「通事」として記す)平井家第九代雅高(作一郎)の養子となり、平井義十郎と称することになります。
「通事」というのは、中国語の通訳(唐通詞)のこと。対して「通詞」というのは、オランダ語の通訳(蘭通詞)のこと。
鎖国時代、幕府は長崎を窓口にして、中国(清国)およびオランダと交易をしていたため、通訳を必要としました。長崎には、中国人やオランダ人と日本人との間で同時通訳をすることが出来、また中国語やオランダ語の文書をスラスラと作成し、また翻訳することの出来る人々が多数存在していました。彼ら通事や通詞は、武士ではなく、長崎の町に住む地役人(じやくにん)でした。地役人は、長崎の町を支配している役人(町人)であり、長崎の町政は、町年寄を筆頭にして二千人余りの多数の町役人(長崎の町民のうち20分の1近くは地役人)によって担われていました。つまり「町民の町民による」政治が行われている特異な町だったのです。
長崎の町には、奉行所関係の役人と、一年交替で港の警備にあたる福岡・佐賀両藩士、そして各地から留学生としてやってきた武士のほかには、武士はほとんど居住していませんでした。
地役人である通事・通詞の職は、代々世襲であり、そのため跡取がない場合は、他家より優秀な者を養子に迎えたりなどして、通事・通詞職を継がせていました。
義十郎が養子に入った平井家は、太祖が平井敦昌(あつまさ・市左衛門)で相州鎌倉の出身。寺沢志摩守広高が、幕命により、初代長崎奉行として長崎に赴任した際、市左衛門は奉行寺沢広高に同道して、まず平戸に居住し、後に長崎に移住。この平井家は、代々通事職の家柄で、初代(太祖)が市左衛門、義十郎は十代目になります。そして義十郎は、八代昌成(考三郎)の娘斐(あや)と結婚しています。
通事は、首席に大通事がいて、次に小通事がおり、その下に稽古通事、稽古通事見習、内通事などがおり、定員は134名でした。
通事のほとんどは明末・清初の頃の日本への亡命者か、あるいは海寇(海賊)の流れであった(多くは中国人の子孫)ということですから、もともと平井家は、通事職としては珍しい家柄だったということになります。
嘉永5年(1852年)、義十郎は稽古通事である養父の雅高(作一郎)の願いにより稽古通事見習となり、御役所(長崎奉行所)や通事会所、その他関係筋への挨拶廻りをしています。
安政3年(1856年)3月、養父作一郎お役御免(作一郎は、すでに前年11月に死去)と同時に、作一郎の跡を相続して、稽古通事見習から稽古通事になりました。
安政5年(1858年)、義十郎は、他の通事ら(頴川〔えがわ〕藤左衛門・呉〔ご〕硯三郎〔けんざぶろう〕・鄭〔てい〕右十郎・中山玄三ら)とともにロシア・オランダ両国の通商条約書の翻訳(漢訳)を長崎奉行より命ぜられ、その翻訳の功により、その年10月に「御褒美」を受けています。彼の語学力が、抜群であったことを示しています。
ここに出てくる「頴川」・「呉」・「鄭」・「中山」といった諸家は、「彭城(さかき)」・「王」・「何(が)」などとともに中国人の子孫で、「通事職」を世襲していた家でした。
諸外国との交渉が深まるにつれ、従来の中国語やオランダ語だけでは外交処理が困難になってきたことにより、大通事の鄭幹輔は、通事に英語を学ばせる必要を、時の長崎奉行である岡部駿河守長常(ながつね)に訴え、そのことにより安政5年(1858年)12月、義十郎は、游龍(うりゅう)彦三郎・彭城(さかき)太三郎・太田源三郎・何礼之助(があやのすけ)とともに、「「新地前英人止宿所」に赴き、英語に心得のある「英船乗組ノ中国人」より「英語修学」をするよう、長崎奉行岡部長常により命ぜられています。彼は、中国語ばかりか英語も学ぶことになったわけです。
安政6年(1859年)6月、稽古通事より小通事末席に。
万延元年(1860年)9月、小通事助 過人に昇進。
文久元年(1861年)11月、小通事助に昇進。
文久2年(1862年)、製鉄所通弁御用兼務を命ぜられています。
この「製鉄所」というのは「長崎製鉄所」のこと。
幕府は、安政4年(1857年)、海軍伝習所教官のハルデスらの指導のもとに、オランダから蒸気機関や工作機械などを輸入し、長崎対岸の稲佐郷飽の浦(あくのうら)に「鎔鉄(ようてつ)所」を建設し、これを「製鉄所」と改称しました。その製鉄所の「通弁」(通訳)として義十郎は活躍し、その年12月に奉行より「御褒美」を受けることになります。
文久3年(1863年)7月、「英語稽古所」が長崎奉行支配組頭永持亨次郎の官舎内に設置された際に、義十郎は、何礼之助とともに学頭となり、同月、当時の長崎奉行大久保豊後守忠恕、同服部長門守常純在勤の時、勤務誠実・勉学優秀なるを認められて、同僚何礼之助とともに長崎奉行支配定役格(しはいさだめやくかく)に異例の抜擢(ばってき)を受け、幕府の御家人(地役人〔町民〕から武士へ)となります。25歳の若さでした。
履歴書には次のようにあります。
「常々(つねづね)家業兼英語兼学格別出精是迄(これまで)御用筋正実(せいじつ)ニ相勤候(あいつとめそうろう)ニ付(つき)出格(しゅっかく)之訳(わけ)ヲ以テ長崎奉行支配定役格」を申し付けられた、と。
「家業」というのは「通事職」ということでしょう。
長崎奉行は、外交上の最高機密が洩れないように、神奈川や箱館では「通弁」が御家人に取り立てられて機密の保持がなされていることに鑑(かんが)み、「篤(とく)ト人撰」を行い、義十郎と何礼之助を御家人に取り立てたのです。先例はありました。安政6年(1859年)4月、岡部駿河守が長崎奉行であった時、オランダ大通詞楢林栄左衛門が支配定役に任じられていました。義十郎が、何礼之助とともに奉行から絶大の信頼を得ていたことは確かでしょう。
文久3年(1863年)11月、義十郎は、幕府が条約を締結した各国に使節を派遣するにあたっての「御用」(諸調査や諸準備)のため江戸行きを命ぜられ、長崎に差し回された船に乗って江戸に赴きます。
江戸での「御用」を務めて五ヶ月ばかり、元治元年(1864年)5月に長崎帰着。
江戸から東海道経由で長崎に帰る途中、義十郎は横浜に立ち寄り、佐野屋というところで、通弁仲間である太田・北村・名村(おそらく泰蔵〔1840~1907〕のこと。オランダ語のみならず英独仏の諸外国語を習得。文久元年〔1861年〕、神奈川奉行所詰を命ぜられた)・吉雄・平野栄三郎らと会っています。彼らは、長崎から横浜にやって来ていた通事や通詞たちでした。
その年6月、義十郎と何礼之助は、運上所詰を命ぜられ、お互いに一日交替で翻訳業務に携(たずさ)わることになります。
そして慶応元年(1865年)9月、義十郎は、「済美館学頭」を拝命します。
この「済美館」の前身は、文久3年(1863年)に立山町に設立された「英語稽古所」(義十郎と何礼之助が、その学頭であったことはすでに触れました)で、これが後に「洋学所」と改称され、また大村町に移転して「語学所」(英語・プロシア語・フランス語が教授される)となり、それが慶応元年(1865年)2月に新町の長州藩旧蔵屋敷(前年〔元冶元年〕夏の京都における「蛤御門(はまぐりごもん)の変」で長州藩は「朝敵」となり、この蔵屋敷は幕府に没収された)に移され、この年8月に「済美館」と命名されたのですが、その「学頭」になったのです。
ちなみに、元年の夏、江戸においては、桜田・麻布竜土の長州藩邸が幕府により没収され、打ち壊されています(風呂屋の焚き木となったとか)。
この「済美館」に、この年の秋(おそらく10月)、土佐からやってきた中江兆民(篤助)が入学。当然、その学頭であった平井義十郎と会ったはずです。
「済美館」とは、どういう学校だったのか。
フランス語を教えていた教師にはどういう人がいたのか。
フランス語の教本はどういうものだったか。
そして、幕府が倒壊した時、「済美館」はどうなったのか。
などといった点については、次回以後にまとめたいと思います。
また平井義十郎のその後についても、次回以後に回すことにします。
では、また。
○参考文献
・『維新への澪標(みおつくし)─通詞平井希昌の生涯─』平井洋(新人物往来社)
※この稿は、多くがこの本の記述に依拠しています。
・『長崎』原田伴彦(中央公論社)
・『日本史のなかのフランス語』宮永孝(白水社)
・『中江兆民』飛鳥井雅道(吉川弘文館)
・『日本近現代人名辞典』(吉川弘文館)
・『日本洋学人名事典』(柏書房)