鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

定信と文晁、そして「真景図」について   その1

2014-01-26 07:18:16 | Weblog

 松平定信が生まれたのは宝暦8年(1759年)。

 八代将軍徳川吉宗の二男、田安宗武の七男(母は側室の「とや」)として生まれました。

 安永3年(1774年)、白河藩主松平(久松)越中守定邦の養子となり、その翌年、田安家を出て八丁堀にある白河藩上屋敷に移りました。

 安永5年(1776年)、将軍の日光東照宮の参詣に際して、3月(旧暦)に初めて白河へ赴いて小峰城に入城し、その年5月に江戸に戻っています(18歳)。

 老中首座となったのは天明7年(1787年)で、29歳の時でした。

 一方、文晁が生まれたのは宝暦13年(1763年)。

 父は谷麓谷(1729~1809)。田安家の家臣で、当時著名な漢詩人。

 若き日の文晁は、狩野派の絵師加藤文麗や渡辺玄対に絵を学んでいます。

 天明8年(1788年)、定信が老中首座となった翌年に田安家に出仕。

 寛政4年(1792年)の3月には松平定信付となり、俸100俵となっています。

 その翌年(寛政5年〔1793年〕)に、定信は幕府老中を辞しています。

 さて、この定信ですが、12、3歳頃より狩野派について絵画を学び始め、その後、沈南蘋(しんなんぴん)〈長崎派〉の濃彩な花鳥画の画法を学んでいます。 

 『定信と庭園』には、天明4年(1784年・26歳)に白河城で描いた「達磨図」、「自画賛 呉竹図」、天明7年(1787年・29歳)に描いた「酔李白図」、「自画像」がおさめられていますが、いずれも確かな画力を感じさせるもの。

 定信が老中時代に最重要問題の一つとして取り組んだのは海防問題でした。

 寛政4年(1792年)の9月には、ロシア使節アダム・ラクスマンが、漂流民大黒屋光太夫を移送して蝦夷地根室に来航し、通商を求めました。

 定信は、長崎以外においては外国との交渉・交易は一切許されていないとの国法を楯にとって、長崎への入港許可証を与えるだけにとどめ、ラクスマンを帰国させることに成功しますが、このことは定信の海防問題への関心をより一層深めることになりました。

 それは海外情報への関心と平行するわけですが、定信は、『宇下人言』(うげのひとこと)で次のように記しています。

 「寛政四五のころより紅毛の書を集む」

 定信が「紅毛の書」を通して海外情報の収集を始めたのは、蝦夷地根室にロシア船(ラクスマン)が来航し通商要求をしてきた時期と重なっています。

 その海防への危機意識は、寛政5年(1793年)の3月から4月にかけての定信の江戸湾岸巡視につながりました。

 幕府は寛政4年(1792年)の5月、『海国兵談』などで海防を論じた林子平に蟄居を命じましたが、実は、林子平の深刻な危機意識を共有していたのが定信でした。

 定信は『宇下人言』で次のように記しています。

 「房・相・二総・豆州は小給所多く、城などいうもの少なく、海よりのり入れば永代橋のほとりまでは、外国の船とても入り来るべし。さればこのときに到ては咽喉を経ずしてただに腹中に入るともいうべし。」

 筆頭老中自ら、江戸湾岸巡視(しかも、相州・豆州にわたって)を行うなどということは前代未聞のこと。

 実は、この定信の江戸湾岸巡視の際、定信が随行させて各地の風景を描かせたのが、お抱え絵師の文晁であり、それをまとめたのが『公余探勝図巻』(こうよたんしょうずかん・寛政5年〔1793年〕)でした。

 全部で39図。

 私は、この『公余探勝図巻』が、文晁や崋山の「真景図」を考える時に、重要なものではないかと考えています。

 では、なぜ、定信は文晁をお抱え絵師として採用(寛政4年)し、そしてまた江戸湾岸巡視に随行(寛政5年)させたのか。

 そこには、定信なりの明確な考えがあったものと思われます。

 

 続く

 

〇参考文献

・『生誕250周年 谷文晁』(サントリー美術館)

・『江戸後期の新たな試み-洋風画家谷文晁・渡辺崋山が描く風景表現』(田原市博物館)

・『定信と庭園-南湖と大名庭園』白河市歴史民俗資料館(白河市都市整備公社)

・『定信と文晁-松平定信と周辺の画人たち-』(福島県立博物館)

・『松平定信』高澤憲治(吉川弘文館)

・『松平定信 政治改革に挑んだ老中』藤田覚(中公新書/中央公論社)



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