ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

秩父紀行  ・・・雑記

2013-09-14 03:51:40 | 日記

・・・秩父夜祭り

とりあえず、秩父の寺を、巡礼札所の順に、34ヶ所まわりました。それはそれで打ち止め。

又の機会は、もみじの色づく頃でしょうか。境内のもみじが見てみたい寺がいくつかあります。

気になっているところ、など幾つか補足・・・

 

ようばけ・

・・・” ようばけ ”の よう は太陽の陽で間違いなさそうですが・・・ ばけ は、どうも はけ と言う言葉が地質学にあるようです。大宮第三公園の「武蔵野の地層モデル」の造地に、説明文がありました。・・川が岸辺を削りとった崖状のことをさして、水路まで含んで、” はけ ”と呼んでいたようです・・。前回の説明では、60点というところでしょうか。コメントをいただいで、すこし調べて、訂正させて戴きます。

 

椋神社・

・・・藤原秀郷の記述がありましたが、藤原秀郷は、将門の乱の沈静に京都からやって来て、沈静の後は京都に戻ったように思っていましたが、川島町金剛寺に残存する系図に、秀郷の系譜が乗っているそうです。さらに、系譜上の波多野遠当なる人物は、比企遠宗と同一人物とされています。真偽は分かりませんが、比企の地名を残した比企一族の痕跡がここにあるとすれば、いままで不明とされてきただけに、面白そうです。

 

仏像・

秩父の寺を、あれだけ周りながら、お堂の中の仏像にあまり興味を持てませんでした。外にある、羅漢や地蔵や石仏には、表情に親しみを覚えて、また門にある仁王像もかなり撮影したのですが、・・・。

・・・弥勒菩薩像。太秦の弥勒菩薩で、写真集を見た時は仏像とはこんなに表情豊かで、美しいものなのか、感動を覚えました。どうも、仏像そのものが興味がない、と言うわけでもなさそうです。太秦は、新羅系秦族の拠点で、広隆寺です。

いけないのは、どうも多面多臂が人間離れして、馴染めないのではないか、と結論しました。感動を覚えた弥勒菩薩は一面二臂で、普通の人間の姿です。

その反面、多面多臂の仏像には、どうも馴染めません。馴染めない理由は、人間離れして違和感を覚えてしまうからのようです。その中でも気になる多面多臂の仏像があります。民衆に信仰が厚かった十一面観音です

・・・十一面観音。この場合は六臂です。顔の数を数えると、11より多くなることがあります。なぜだか判りません。顔が11あり、腕が6本。宗教的意味でもなければ、まるで化け物です。白洲正子の随筆のなかで、十一面観音がたびたび取り上げられています。なぜ民衆に人気があったのか、白洲正子から探って見たいと思います。

 

修験者・

・・・秩父には、修験者や役行者の痕跡がいくつも残っています。明治に、修験道が禁止されて、普通の仏教や寺院に習俗されて、秩父の修験者はいなくなりました。法律が変わり、宗教の自由が認められても、修験道は復活しませんでした。しかし、山に生きた修験者は、里や里山の人達と無関係な生活をしたわけでもなさそうです。

山に精通した修験者は、当然山の植物にも精通します。行者ニンニクは代表格ですが、薬草をよくします。修験者の生活地に、いくつかの薬師堂を見ますが、これも修験者との関わりのようです。巡礼の後半に到ると、山にある寺に薬師堂があれば修験者がいたのではないかと思うようにもなりました。

薬と言えば、富山の薬売りが思いつきます。その富山の薬の源流は、富山側立山の修験者が作ったものという研究論文が出されています。富山の立山の修験道は、天台密教にもとずくもので、秩父の真言密教とは少し違いますが、同じく修験者の存在が薬に関与しております。修験者は、どうやら、薬草知識の”エキスパート”と見て良さそうです。

薬草と同様に、修験者は”鉱物”とか”鉱山”のエキスパートでもあったみたいです。それも、平安以前は、金ではなくて、鉄とか水銀のようです。当然、副産物として金も採れたのでしょうが。渡来人の”金上无”の職名も、金ではなく、金属と捉える方が納得出来ます。どうも、金の価値が上昇するのは、鎌倉時代以降のように見えてきます。貿易によって外国の金の需要と価値を確認し、さらに貨幣に金を使うようになってからのようです。それまでは、日本の金の使用目的は、一部の金装飾ぐらいの利用価値しかなかったようです。それより価値が高かったのは、鉄と銅と水銀だったようです。水銀は、当時”辰砂”とよばれて、赤色顔料の原料や薬剤等に使用されていたようです。今では水銀は毒性が強いことが確認されていますが、当時は不老不死の長寿の薬物とされていました。秩父の山岳は、鉱山をもとめるに、修験者達の恰好の地であったようです。

 

 

・・・椋神社の、龍勢ロケットのもとになった、鉾が飛んだ逸話、は霊験でないとしたら、火薬が想像されます。日本武尊は、景行天皇(-130)の頃とされていて、西暦100年を少し過ぎた頃、日本書紀が書かれたのは西暦600年頃、約500年の歳月の差があります。この時代は中国は、唐の時代で、ようやく唐で、火薬を狼煙として使われた、とあります。唐の時代は、日本との往来はかなりあったみたいで、唐の火薬の知識を持った人が日本書紀の編纂にも加わり、逸話を挿入したと見るのが、当たらずといえども遠からず、かと思います。

あれから、ずっと歴史を積んで、今年も、10月第二日曜日に、龍勢祭は行われます。


・・・秩父の寺を廻ると、背景地や脇に墓地を持っている寺と墓地が見当たらない寺に出会います。当初、修験者の道場として成立し、修験道の禁止の法律で寺に変わったところは、それはそれで納得出来ますが、そうでないところは何故でしょう。坊さんは聖職ですが、生身ですから”霞”を食べて生活できるとも思えません。いくら仏閣を大切に扱っても、長年では朽ちることもあるし、武田軍が火をつけたこともあるし、山崩れや水害でも損傷は受けそうです。檀家の無い寺や、少ない寺は、そこをどうしたのでしょうか。同じことは、神社でもいえます。そんなことを思いながら巡ると、時折この寺の別当畠山重忠とか、丹治某がこの神社に供田しとか、家康は数町を御朱印しとか出てきます。どうも、寺も神社も領地をもっていたようです。

例えば、札所十五番の少林寺は、秩父神社(秩父妙見社)の神宮寺であるようだ。秩父を取り巻いた時の権力者の変遷は、まず秩父平氏が妙見菩薩を信仰して建立して庇護し、後北条がこの地の領有したが、この時の庇護は資料に余りない。そして徳川になって、庇護を厚くした歴史がある。庇護の内容は、改装費の肩代わりと生活基盤に領地を与えることで、この時の領地からの年貢の徴収など差配をするのが神宮寺で、経済的サポートのみならず、神事まで関与することが多い。秩父神社の少林寺は、明治の神仏分離令で廃寺とされが、時を経て札所十五番として復活して現在に至っている。

この神宮寺と役割を同じくするのは、「別当」とか「別当寺」とか呼ばれる、地方豪族や寺で、この関係性を眺めてみると、当時の勢力図が浮かび上がってきて、興味深いのだが、長い年月で資料は散逸している場合が多い。深く調べたわけではないが、武田信玄は、寺院と豪族との関係に目をつけ、別当であった寺は、その豪族の、潜在の第二勢力として、徹底的に攻撃したようである。その為、この秩父同様に、武田が侵攻した信濃国は、多くの寺院が焼き払われて貴重な資料を焼失している。

 

秩父は、地学の宝庫です。門外漢の自分ですら興味津々・・・機会があればまた・・

「ジオパーク秩父」のブログを参照下さい。以下に・・

http://www.chichibu-geo.com/midokoro/geosite.html


 

 

 

 

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a day in the life ・・・大きな梨

2013-09-14 03:10:44 | 日記

a day in the life ・・・・・

大きな梨です・・・

もらい物です。スーパーでは見かけたことがありません。見ても、りんごと見間違えるでしょう。正直、おいしそうに見えますか・・・・・。

ですから、いままでに、買ったことも食べたこともありません。

大きさの比較から、隣にタバコを置いて、デジカメで撮影。昔、プロカメラマンが、広告用の商品の撮影で、バックに白の模造紙を敷いていたのを思い出して、印刷用紙A4を4枚敷いて、プロ気取りで撮影しました。重量は1Kgはありそうです。

梨の名前は、TVの相棒の”かおる”くん・・・ではなくて、”かおり”と言うのだそうです。

生産は、非常に難しくて、千葉県の一部と四国の一部に限定され、少なすぎて市場ではめったに見かけることがないそうです・・・どうりで・・・。勝手に産地を想像すれば、ゆるキャラ人気抜群の”ふなっしー”の里かな・・・なんて。

1Kgの梨が、木にぶら下がっている姿を想像したら、枝が折れたしまうことが頭に浮かびました。枝が折れなくても、重さで、落ちてしまいそうですね。・・・栽培の難しさは、そこかな、と勝手に判断・・・

食べたら、甘みが強く、かなり美味しかったです・・・

a day in the life ・・・

 

 

 

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椋神社と龍勢会館とようばけ ・・・ロケットは神事だろうか

2013-09-08 00:49:47 | 史跡

椋神社と龍勢会館

菊水寺を出て、水潜寺に行く途中に、椋神社と龍勢会館はあります。菊水寺の近くには赤平川が流れていて、化石の露頭の”ようばけ”も近くです。”ようばけ”の後は、水潜寺に行く前に、椋神社と龍勢会館に寄ります。

          ・・椋(ムク)神社

椋(ムク)神社の成立とその後の出来事を、”由来書”を読みながら追っかけていくと、かなり面白い事実と出会います。

まず、由来書・・椋神社

日本武尊東夷ノ逆徒ヲ征伐トシテ・・此所二著御アリ。・・軍神事勝長狭神(即猿田彦大神ナリ)二神慮ヲ請ヒテ之二進ト欲シ、暫ク此所二停止シ鉾ヲ杖トシテ相休焉コ時アリ・・・光ヲ放ツ。其光耀ノ飛止ル所、・・井邊ノ椋本二現出スル也。示日吾則猿田彦大神ナリ。,・・日本武尊喜日是則大神庇護ヲ垂ルナリ。故二之ヲ謝テ神祠ヲ造立シ永ク鎭座ト爲サシムル焉。則チ井椋宮是也。・・亦当社ノ西二當り櫻ノ大樹アリ、之ヲ奥ノ院ト云。井椋塚アリ。・・亦日本武尊鉾ヲ以テ神体ト爲シ猿田彦大神ヲ祠り給フナリ。・・から

意訳から・・・日本武尊が東北に東征する途中で、この地に着き、猿田彦の神への必勝祈願をし、鉾を杖として休息した。すると、鉾が光り出して飛び出して着地した。その着地の地点が井戸のあたりの椋本という場所だった。この出来事は猿田彦大神の仕業と思われた。日本武尊が東征に勝利したのは、猿田彦大神のお陰と思い、感謝してここに神社を建立した。名前は井椋宮という。ここから西に桜の大木があるが、そこを”奥の院”という。井椋塚もある。・・・この神社は、日本武尊の鉾を神体とし、猿田彦大神を祠るものとする。

神社のご神体と神名は理解出来たが、神社名が、まだ繋がらない。

別書に、景行天皇の時、日本武尊東夷征伐のとき、伊久良に御鉾を立て猿田彦大神を祀ったという。更に別書に、江戸時代は「井椋大明神」「井椋五社明神」とあり、椋(ムク)神社という同名社が秩父郡市内に5社を数え、井椋(いくら)五所大明神と号しており「いくらじんじゃ」が本来の呼称である、とある。・・これで謎が解けた。

どうも、椋(ムク)神社の呼称は、地元の簡略した通称で、江戸末期から明治にかけて定着したものと推定される。この地の名は、伊久良とか井椋とか書かれ、読みは”いくら”であるようだ。文字からは、育良や井倉を連想し、この地が穀倉地域であり、地域の中心を想像させる。・・・そうか、ここは昔、井椋神社・・イクラジンジャが正式な呼称で、やがて地元の略称で、椋神社・・クラジンジャとなり、ついに椋を、”クラ”から”ムク”の読み替えて、呼び名が定着した・・・恐らくこの推理は筋が通っていると思うのだが・・・

   神社の眷属は山犬(狼)・・  本殿の方にも狛犬の眷属があるが・・・

社伝に曰く・・・

朱雀天皇天慶5年藤原秀郷当社に春日四所の神を合祀す。日本武尊5代の裔丹治家義5代の孫武信神領数十町を寄附す是を供田と云う。即ち六段田是なり

・・・・・藤原秀郷の名前が出てきました。別名俵藤太です。

俵藤太による平将門討伐のおり、俵藤太が当社に詣で、祈願したことにより将門一門を討つことがかない、俵藤太によって春日四神を合祭され井椋五社明神と称されるようになったという・・・ここで、当初の官製神社は変わりないが、春日神を合祀することにより、神社の性格が少し変質する。天慶5年と言えば、藤原摂関政治の隆盛期にあたります。藤原一族は、政治的拡大と経済地盤の強化で、この地を、藤原一族の”荘園”にしようと計画したのでしょう、俵藤太は、将門征伐を兼ねた、藤原一族の先兵です。・・・社伝の締めくくりに、藤原一族の末裔と覚しき、藤原の名前、・・荘官として当地に土着しただろう、数人が確認できます。

丹治家義5代の孫武信神領数十町を寄附・・とあります。

丹治武信は武蔵七党の丹党の祖といわれている武将です。飯能を拠点とする豪族ですが、神領数十町を寄付す、と書いてあるところから、高麗あたりから秩父にかけて領有していたことが判ります。丹治家系は辰砂から水銀を作る技法を持った一族で、そのため経済的に豊かで、修験者達の頭目とも別当(経済的支援者)とも推測されています。また、丹治家義は空海と関係を持ち、密教との繋がりがあり、その点からも修験者と関わっていたようです。鉱物知識と技法から新羅系渡来人とされてもいます。

其後、畠山重忠太刀一口を獻ず。今遺存して神宝となす。

・・・・・畠山重忠の名前が出てきました。鎌倉時代の頼朝の武将、畠山重忠です。この地方一帯も、統治していたことが覗われます。椋神社と離れますが、関東の”板東平氏”は、ほとんど頼朝に協力します。平将門の敵も味方も、両方が、です。埼玉や特に秩父地方を回って、地元の豪族の行く末を見てみると、どうしても”源平盛衰記”の源平の対峙の構図は見えてきません。”源平盛衰記”の平氏は、どうも限られた京都の平氏で、地方の平氏は頼朝の味方だった様です。この京都公家社会の構図の認識から脱皮できなかった頼朝家系が、三代で終息する理由は、ここにあるような気がします。

 

八幡宮、老朽化の保護で建屋の中に安置されている。由来書の中の軍神の意味からすると、こちらが本来の様な気がするのだが・・・

それにしても、猿田彦といい、八幡といい、軍神となれば、渡来人の秦氏の関連を思い浮かべてしまう。

       ・・八幡宮の彫刻

 

その後の歴史・・

元亀年中武田信玄秩父氏と戦い社頭を焼く神殿古器神宝旧記悉く皆焼失す。

天正3年鉢形城主秩父新太郎氏邦神殿を再建す同氏獻上する処の祭具木魚二本今猶存在す。

・・・・・秩父新太郎氏邦は北条氏邦のこと、鉢形城主

 

・攸 芦田伊勢守 藤原守房、芦田若狭守 藤原守光、芦田長門守 藤原重斉 干時宝永五壬子天二月吉日

・・・・・芦田と藤原の名を多く見ます。神社を支えた別当でしょうか。かっては官製神社の名残かも知れません。

攸・” ゆう ”が読みで、" ところ ”の意味ですが、上記の場合は、「関係者は以下の・・・」と訳せばいいと思います。

干時・という見慣れない文字は、” 時に ”とか、” その時は ”とかの意味のようです。「方丈記」の末尾に・・・”干時、建暦のふたとせ、やよひのつごもりごろ、桑門の蓮胤、外山の庵にて、これをしるす」とあります。昔の文章の締めくくりに使うことが多かったが、今では死語になっています。

 

 

遠くに、櫓が見えます。龍勢というロケットの発射台です。昔の逸話と今のロケットの組み合わせです。コントラストの妙を覚えます。龍勢は”神事”でしょうか・・・

                 ・・説明板

 

ここは、明治に起こった”秩父困民党の乱”の集結地です。

          ・・”秩父困民党の乱”の集結地 案内柱と案内板

詳しくは、こちらを参照下さい・・・「比企の丘から」より 

http://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/e/9fb424cf9ffafe0aede64130ece2c874

さらに興味のある方は、『秩父困民党群像』井出孫六をお奨めします。

 

龍勢会館

ここは道の駅です。駐車スペースはあまり大きくはありません。農産物直売所や食堂も兼ね備えています。が、どこか他の道の駅と雰囲気がことなります。

       ・・このアニメの聖地でもあるようです。客層も若者が目立つようです。

この「道の駅」の一角に井上伝蔵の住居跡があります。建て替えられたもので、秩父困民党時代のものではありません。井上伝蔵の伝記的な単行本は読んだ記憶があります。この本をもとに?、映画が作られました。タイトルは”草の乱”です。

 ”草の乱”・・・・・

    草の乱・・井上伝蔵の住居  ・・草の乱、ポスター

井上伝蔵 下吉田村(現吉田町)出身。

草の乱・あらすじ・・・・・地域の名望家として広く養蚕農民を助け、絹布の問屋商人として「丸井の旦那」の愛称をもつ。人望が厚いばかりでなく、当時全国的に流行していた自由民権運動に触発されて自由党に入党し、東京の党本部と秩父の入党者とのパイプ役となる。明治17年に至ってデフレ政策が秩父の農民の生活を圧迫し、ついに蜂起するに至っては困民党軍の会計長として幹部に迎えられ活躍する。事件後、幹部が次々と捕縛・自首する中で伝蔵は実家の近所の土蔵に2年間隠れ住み、そののち北海道に移住。伊藤房次郎と名を変えて妻子をもうけ、1918(大正7)年のその死の直前、家族に自分の正体を明かし、来歴を隠さず語った事で世の中に衝撃が走る・・・

生糸の商家「丸井商店」を営む井上伝蔵、農民の高岸善吉、落合寅市、坂本宗作などが不当な高利の取り締まりを求めて役所などへ誓願運動を始めた。各地で集会を開き、賛同者を募り、さらに加藤織平を副総理、大宮郷の顔役の田代栄助を総理として迎え入れ「困民党」を組織した。そして、警察署への誓願や高利貸しとの交渉をねばり強く行うが、ことごとくはねつけられる。そのうちに高利貸しが裁判官に賄賂を贈っていることが明るみに出て、丸井商店の土蔵に集まった困民党幹部たちは「もはや願いをかなえるには政府を打倒するしかない」と、命をかけた武装蜂起を決意する-

 

ようばけ

*”ようばけ”・・・・・面白い名前です。最初は、妖怪お化け、かなと軽く思っていましたが、”陽の当たる岸壁”の意味のようです。川岸が赤平川の浸食で削り取られて、剥げてしまった跡地、”剥げ”が”ばけ”に変化した、と考えると”ようばけ”の意味が納得できます。・・・当たっているのかどうでしょうか・・

地表が剥げて見えるのが”ようばけ”です。古代地層が露出している”さま”を露頭と言います。ここの化石は貝殻など海の生物、この山間の里は大昔海だった・・・           

 

       赤平川とようばけ・・・

おがの化石館・・・休日に行ってしまいました。残念

 






 

 

 

 


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秩父華厳の滝 涼をもとめて ・・・秩父風景

2013-09-07 14:22:49 | 名勝

秩父華厳の滝・・

                ・・下流から遠望

水潜寺 札所34番から1.3Km、車で5分以内で行けそうなので、寄ってみました。

美しい滝です。日光の華厳の滝に準えたところを見ると、どこか似ているのでしょう。が、規模は比べようもなく小さいです。名滝人気ランキングで10位となっています。9位に群馬の”吹割の滝”があります。

滝の入口に、バス停があります。皆野駅からバスが運行している様子です。

ここへの道順に、”満願の湯”があり、水潜寺、秩父華厳の滝と続きます。温泉をからめた行楽も悪くないと思います。

あとで気がついたのですが、”満願の湯”の名前の由来は、秩父三十四巡礼完了=結願のあとの「ご褒美の湯」と解いてみたのですが・・・どうでしょうか。

名称:秩父華厳の滝 (チチブケゴンノタキ)、規模 :落差13m

所在地;秩父市皆野町上日野沢
電話;お問合わせ、0494-62-1462・・・役場の観光課のようですが

 

 

 

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水潜寺 水くぐりの岩戸が・ 札所三十四番 ・・・秩父巡礼

2013-09-06 14:24:04 | 史跡

水潜寺 札所三十四番 

俳人・金子兜太の句碑があります。

      曼珠沙華 どれも腹だし 秩父の子  ・・兜太

金子兜太は、秩父育ちのようです。 

**金子兜太・・秩父近くの小川町で生まれ、4歳まで上海で過ごし、小中を皆野町で過ごしたそうです。中学は旧制熊谷中学(現・熊谷高校)、野上から熊谷まで秩父線で通ったのだろうと思います。後、旧制水戸高、東京帝大経済を出て日銀に就職。高校時代から俳句は作っていたそうです。小林一茶や種田山頭火を研究し、作風は前衛的と言われています。

そういえば、秩父巡礼の寺に、時々投句箱を見かけています。

本堂・・

本堂右手の方に石の絶壁があり、その下に、自然にできた岩屋があります。ここには清水が湧いております。観音詣りが終ったら、この中をくぐって身を浄め、俗世間にもどる習わしがありました。これから水潜り寺が水潜寺となりました。・・・水潜寺の由来

あの窪みが、岩戸でしょうか。裏山へは「立ち入り禁止」の看板と綱張り・・・崩落の危険があるのでしょうか。

 

 ・・寺案内板 ・・入口付近 

開山は旅の僧という。飢饉のあった天長元年(824)、旅の僧が「まず観音を信ぜよ。我ここに西国をかたどり阿弥陀を置き、板東をかたどり薬師を置く。この観音と合わせて百番の霊場として、我が笈摺をここに納む」と里人に告げたという。そして「樹甘露法雨」の札を立てたところ、雨が降ったという。ご本尊は「千手観音」。阿弥陀如来・薬師如来あわせて伝教大師作という。・・・そうすると旅の僧は、伝教大師となるのでしょうか。

・・・・・百番の霊場とあります。四国の霊場を除いて、西国33霊場、板東33霊場、秩父33霊場、合計99霊場を”+1”して100霊場にした、と記憶しています。既述、真福寺の項、札所2番・・・なお、昔、秩父巡礼が三十三札所巡りの時、ここ真福寺は巡礼の寺に選ばれていなかった。追加された寺である。何故に三十四のなったのかは、関東巡礼で、西国三十三、板東三十三、秩父三十三の合計九十九より、百国巡りの方が、ありがたさが増すということで、一寺追加されたそうである・・・が詳らかではない・・参照。それも江戸時代に、と覚えていますが、そうなると、顕かに矛盾です。・・秩父古番付けでも33霊場。どちらが正しいのでしょうか。秩父巡礼の歴史を辿ると、江戸時代に”+1”して100霊場になった、と言う方が説得力がありますが、秩父の郷土史家に判断を任せます。

笈摺・おいずり・・・巡礼などが着物の上に羽織る袖のない薄い衣。笈で背の擦れるのを防ぐための衣という。

             ・・巡礼の姿絵

この姿は、修験者に似ているように思えます。手にした杖が錫杖(しゃくじょう)と呼ばれる金属製の杖で、袈裟と、篠懸(すずかけ) であれば、可能性が高いと思われます。

*なお、巡礼の服装に拘る人は、秩父の札所一番・十三番・十八番で買うことが出来ます。


 ・・本堂までの石段参道坂道風景・・・

 ・・石段脇の石仏、新しい・・・

 

・・施無畏(セムイ)・・仏語。仏・菩薩が衆生の恐れの心を救済すること。

その下に、「天女の舞」の彫刻が一対あります。天井絵も絢爛。

 ・・右 ・・左  ・・天井絵

 

これで、秩父34札所巡礼は終わりになります。江戸時代には、巡礼完結の後は、多くは信濃善光寺に、たまに甲斐善光寺に、終了報告を兼ねて、参詣に行くのだそうです。どうするか”つれあい”に聞いてみます。

・・巡礼終結  -----ということで、証明書?になるのでしょうか。

 

住所:秩父市皆野町日野沢3522

電話:0494-62-3999

 

 

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菊水寺 「子返し」の戒め 札所三十三番 ・・・秩父巡礼

2013-09-06 09:41:35 | 史跡

菊水寺 札所三十三番

 菊水寺は、「菊水の井」があったことが寺の名前の由来と言われています。

 「正大悲閣」の額を掲げた入母屋造りの本堂を持つ札所。赤平川のほとりにあり、寺の庭に菊水の井」という名井があったことから寺名になったと言う。本尊聖観世音は一木造り一材ほどの立像で藤原時代の作。 江戸時代に盛んであった「間引き」を戒めた子返しの額もある。別に本尊を模した聖観世音の立像があり、室町時代の作といわれる。 

壁面高く、名高い「子がえしの絵図」が掛かっています。秩父聖人と言われる井上如常が奉納したものであります。如常はこの絵の中で、嬰児殺しの悲惨な風習を戒めて、わが子を圧殺するなど極悪非道の所業だと母親をはげしく責めています

 

 ・・入口付近  ・・庭園と本堂 ・・石碑

長享の番付には、17番菊水寺小坂下(こざかけ)とあります。昔、たぶん室町時代あたりは、巡礼の一番は、今の秩父駅周辺なので、ここは道半ばにありました。古番付けは、地元の人の巡礼順序なんでしょうね。江戸時代に、江戸からの巡礼が増えて、今の順序になったと聞きます。

永禄十二(1569)年の信玄攻めで観音堂を焼かれたが、本尊は長福庵に難を避けた、とあります。 信玄は、十石峠を佐久方面からやって来たようです。十石とは、山間で米のとれない秩父に運ぶ米の量からの名付けと聞きますが、米の代わりに、信玄がやって来て、寺も焼いてしまった、と言うことです。

本堂前に芭蕉句碑があります。寛保年間に建てられたもので、県内最古であります。

  ・・芭蕉の句碑、菊塚

・・・下記の句が彫られているそうですが、擦れて読めません。別所から調べて見ました。

    寒菊や こぬかのかかる 臼の端      ・・芭蕉

 

境内に、もう一つ・・・

  ・・これも句碑ですが、芭蕉とは無関係。黒田杏子の句だそうです。

 ・・・・・黒田 杏子( ももこ)、日本の俳人、俳誌「藍生」主宰。


住所:秩父市吉田町桜井1104

電話:0494-77-0233

 

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法性寺 苔寺そして・奥の院 札所三十二番 ・・・秩父巡礼

2013-09-05 14:25:34 | 史跡

秩父に苔寺・・・ パワースポット・・

法性寺 札所三十二番

秋海棠(『東国花の寺』指定)・しゅうかいどう、と読むのでしょうか。・・花の浄土・・

・・この寺の、9月の花、秋海棠 ・道の両脇に・

 山門
 宝永七(1710)年建立  三間×二間半の八脚門。欅材を主にした二階建ての鐘楼門

             ・・
 
 仁王像 正徳二(1712)年作 江戸の仏師、石見作。 現在仁王像は、修復さてれいます。

      本堂 納経所・兼

       ・・観音堂・・宝永四(1707)年建立

 岩盤の上に建つ、総欅材の三間四方舞台造り。
 森閑とした木立に寂然として建ち、その姿は『優美で鳳凰が舞い降りるが如し』と讃えられています。 
 平成十三(2001)年に大改修がなされ、貴重な建物が後世に引き継がれています。

奥の院がこの寺の特徴です・・・

 観音堂の裏には砂岩に幾多の穴があります。
 これは、太古秩父まで海が広がっていた頃にできた浸食のあとだと言われています。

・・観音堂への参道の途中に、奥の院への分岐・・・岩と岩との間を抜けて、いざ奥の院へ・・・

行程は、約1時間の完全な山登りです・・・難所もあるそうです。奥の院へ行くのは断念。以下は調べて、要点のみ・・・

 観音堂前の岩穴をくぐり抜け、険阻な山道を登ると奥の院になります。

  ・・岩をくり抜いた穴に足をかけ、鎖を伝わって、岩山を登るそうです。間違えば滑落の危険・・・山の上は、こんな岩盤が至る所にあるそうです。一番は、”船の形の岩”だそうです・・・

*大日如来
 宝暦二(1752)年 西村和泉守作
 舟の艫にあたる岩に突き立った岩を鎖を伝って登ると、二畳程の所に大日如来がお祀りされているそうです。

奥の院は奇岩,怪石の多いところで,竜虎岩,天狗岩,船の形に似た奥の院があるそうです。さすが秩父は、地質学の宝庫。

奥の院(お船観音)・・

観音・・ 奥の院は、船の形をした長さ200m、高さ80mの巨岩からなり、俗に『般若のお船』と称され、 ここからの眺望は秩父札所随一だそうです。聖観世音菩薩(お船観音)、 舟の舳先にあたるところにお祀りされています。本堂から往復約1時間。
*奥の院まで登拝できない方は、本堂前から遥拝できます。・・・建立はかなり新しそうです。苔の寺には、少し似合わない。

・・・眼下に秩父の山々が広がり、御仏に抱かれたパワースポットです。


住所: 秩父市小鹿野般若2661
電話: 0494-75-3200

 

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観音院 日本一の石像の仁王尊 札所三十一番 ・・・秩父巡礼

2013-09-04 19:42:50 | 史跡

観音院 札所三十一番 

右手の山麓に仁王門が見えてくる。仁王は身の丈1丈3尺、台座まで入れると4mを超す高さを誇る荒削りの石像で、1868年長野の石工藤森吉弥一寿の作と言われます。この石像の仁王像は日本一の大きさだと言われています。・・・丈は畳に通じ、畳(タタミ)の長い方で6尺、従って全部で9尺、約270Cm、・・・

  ・・藤森吉弥は信州高遠の石工です。1868年は戊辰戦争の頃、吉弥は当代一の石工と言われていたようです。高遠は、石工達の故郷の町、”守屋貞冶”の跡を継ぎながら、出稼ぎの旅に、ここも回ったのでしょうか。 

 ・・本堂は石段の上にあります。石段下の入口付近の風景。 

秩父札所31番寺の仁王門をくぐると石段があり、観音堂までつづいています。やくよけかいだんと彫られた所からはじまります。石段の数は296段あって、般若心経276字と、普回向20字の合計の数になります。一段づつお経を唱えながら登っていくと、厄除けのご利益があるといいます。

  ・・石段、でも長いです。足が棒になります。

秩父札所31番、 鷲窟山・・しゅうくつざんと読みます。

登り切ると、観音院 聖観世音を安置する本堂に着きます。   


 

・・左手の大岩の崖に弘法大師像があります。。堂の左側岩壁から一条の滝が落ちていて、その落差は約60m、滝下の池のそばには不動明王が立っています。秩父札所31番は昔は、水量も豊富で修験者たちが滝に打たれて荒行をしたといわれ、それを証するように池の近くの断崖には体長18cmほどの爪彫り千体仏が浮き彫りされております。弘法大使が”爪”で彫った?はて・・・?

この寺にも、芭蕉は訪れたようです。本堂の横手を裏に抜けて登ると、さらに裏山に出ます。行程15-20分とありますが、熊に”注意”の文字も見えます。庫裏の脇の崖は、露頭です。第三紀古代層の砂岩や礫岩が露頭しています。秩父の露頭からは、至る所で海の生物の化石が出て、昔この地が、海だったことを証してくれます。上に登ると、東西の奥の院です。奥の院の名前は、本当は神社に使うのが多いのですが・・・。西奥の院は崩落の危険で立ち入り禁止。東奥の院は、芭蕉の句が書かれた香塚や本堂があります。天狗堂もあるそうです。・・・すると、ここも修験者の修行地とか?・・・・熊出没?・少し怖いので、登るのは割愛。

 

秩父札所31番観音院のやや道下に、水子地蔵の紫雲山地蔵寺があります。 

観音堂と地蔵寺の関係は不明。

  ・・赤の”に赤い前掛け”と風車の色彩はは強烈な印象、それと”水子地蔵”の数に圧倒されますが、華やかの中の寂静の異空間を感じます。・・哀悼


住所: 秩父市小鹿野町飯田2210
電話:0494-75-3300

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法雲寺 庭園を見てください 札所三十番 ・・・秩父巡礼

2013-09-01 23:51:50 | 史跡

法雲寺 札所三十番

 

秩父札所三十番法雲寺
           指定史跡

 臨済宗建長寺派の寺院で、開創は一三世紀中頃の鎌倉時代である。 
 本尊は如意輪観世音菩薩で唐の玄宗皇帝の作と言われる。 皇帝が戦場にあって楊貴妃の冥福を祈り、観音の御心に すがる真情がうかがえて、美しく尊厳に満ちたものである。 
 堂宇は江戸初期には観音堂、本堂、二王門等を備えていた が嘉永年間(一八四九頃)火災に遭い、観音堂のみを残し悉く焼失した。 
 昔日の面影を残す観音堂と四季折々の花で彩られる浄土庭園との調和 は見事であり、訪れる人々の心を和らげてくれる。

とにかく、庭が、うつくしい。

             

    ・・置物のかえるも愛嬌・・  (Wクイックで拡大します)

秩父札所30番寺の境内は広くて綺麗な池があり、まわりにサツキ、アヤメ、ツツジ、フジなどが植えてありま。この池は心の字の形に造ってあり、心字池といいます。ここにかけられた石橋を渡ると浄土があるといいます。巡礼者の方が有難く渡っている姿を見かけます。

 

 ・・寺入り口付近  ・・裏に竹 林が見えます  ・・観音堂  ・・千匹猿

とにかく、美しい寺です。絵馬に”楊貴妃”がプリントしてあります。庭の、”つつじ”や”さつき”の咲き乱れる頃は、さぞや!と想像します。

住所:秩父市荒川白久432 電話:0494-54-0108

・・・・・・・・・・この寺とこの地方に、「平将門」伝承があります。調べたら、前章、「道の駅ふたつ」に追加しておきます。

 

 

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