ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

見沼について ・八丁堤と通船堀

2013-09-28 23:42:32 | 歴史

見沼について ・八丁堤と通船堀

赤山街道という道がある。

最初に確認したのは、与野から、浦和の大間木、川口の木曽路を通って、川口の赤山に繋がる道路。後で知ったには、越谷から川口の赤山への道。さらには都足立の竹ノ塚から、川口赤山への道。まだ、あるのかもしれない。・・・これでは、まるで鎌倉街道みたいに、中心を川口赤山に置いて、放射線状に繋がっている。

この中心の、川口赤山は、一体何なんだろう、どうしてなんだろう、・・と。

むかし、沼地であった見沼の低湿地帯は、浦和の大間木と川口の木曽呂の辺りで台地がせり出し、見沼の湿地帯の巾を、急に縮める。この木曽路と大間木の間に、堤(=堤防)をつくって、灌漑用の貯水沼を造った。歴史書を紐解くと、1629年の事業とある。この沼のことを、人は”見沼の溜め井”と呼んだ。この年のうちの少し前に、荒川は、熊谷の久下付近で閉めきられて、いくつかの支流を経て、入間川に落とされて合流し、現在の荒川になっている。

 ・・大間木と木曽路の間の八丁堤・・・八丁・約800M強の長さから名付けられる。

・・左、赤山街道 右、芝川に掛かる赤山街道の橋

・・芝川(大間木付近)

八丁堤が出来た当初は、貯水の水量が増大して、見沼は膨張し、周囲42Kmの大湖水になった。そして雨期と重なった時、溜め井上流部は、水田や沿岸を湖水に隠して、多大な損害を出したと言う。

伊奈半左衛門忠治・・初代赤山城城主、初代関東郡代。父は関東代官頭の伊奈忠次。伊奈熊蔵家が嫡流が途絶えて廃絶した後、名門伊奈家を伊奈半左衛門家として復活させた。関東郡代頭伊奈忠次の次男。・・荒川の瀬替えを、伊奈忠次の業績とする書をよく見かけるが、それは誤りで、忠次は1609年に死去している。荒川の瀬替えや見沼の溜め井は伊奈忠治の業績で、関東郡代になった以後、忠次の治水や農政のテクノラート軍団を、ほぼ引き継いだと思われる。ちなみに三男は縫殿助。病弱のため仏門に入り、日誉源貞を称す。武州鴻巣勝願寺、鎌倉光明寺、京都智恩院と移り、寛永十八年十一月には紫衣を許される。慶安五年七月に没す。終年に大僧正位。墓は勝願寺にあると言われるが、確認できない。・・・恐らくは、ここの住職達の墓域の卵墓石のひとつで、伊奈家とは別世界に埋葬されていると推定する。

溜め井下流部(八丁堤より下流部)は、湿地帯を水田に変え、調整された水量により、江戸幕府の米の石高を増大させたという。

・・・下流地域は浦和領、戸田領、笹目領、舎人領、安行領、谷古田領、平柳領、淵江領の8領221ヶ村があり、この地域が泥土の河原から美田に変わったのであろう。この221ヶ村から生み出される米の生産量は相当な量になったと思われ、また丹念で調査の積み重ねで、精度の高い生産量も推定算出が可能と思われるが、ここは他人に任せたい。見沼溜め井は、これらの村の灌漑水源としたのである。

幕府は、この事業を成し遂げた伊奈忠治を、極めて高く評価した。その頃伊奈熊蔵家は、病弱の三代目で、それも七歳で相続し、九歳で早世している。嫡子を失った熊蔵家は、こうして廃絶する。幕府は、伊奈熊蔵家の治水に長けた「テクノラート集団」を惜しみ、さらに名家伊奈家の廃絶を惜しんで、忠次の次男の伊奈忠治に、この治水の「テクノラート集団」を継承させる。赤山城主伊奈忠治・・関東郡代の誕生である。

忠治の築いた堤防・・八丁堤の上を、今でも赤山街道が走っています・・・・・

だが、これは長くは続かなかった。

荒川水源を閉められて、見沼溜め井への水は少なくなる。見沼溜め井の水位は、どんどん下がり、上流は沼をシュリンクしていく。下流への水の供給も少なくなり、水田の維持も難しくなる。さらに、泥土は、見沼の沼底に積み上がり、水深を浅くする。

「水いかり」・・・見沼溜井は洪水時には下流側の江戸を水害から守る、遊水池としても機能していたが、溜井の上流側では八丁堤の存在によって、悪水の流下が妨げられるために湛水被害も多発していた。 農作物の収穫に大きな被害を及ぼすだけでなく、民家も浸水被害に陥っていた。溜井の水深が最も深かったのは、本郷村から大和田村(共に旧大宮市)にかけてだったが、これらの地域では、既存の田んぼが水没する被害が続出している。これを[水いかり]と称した。・・大宮市史 第三巻上、p.624によれば、水いかりによる犠牲田は、高鼻村で村高100石に対して51石(全体の51%)、大和田村では250石に対して88石(35%)だった。犠牲田には代替地が与えられた。なお、片柳村の万年寺は境内にまで浸水し、結局、移転を余儀なくされている。
見沼溜井の成立によって、上流側の地域では湛水被害が増えただけでなく、それまで入会地として利用されていた土地が水没してしまったので、肥料や燃料の供給機能も著しく低下してしまった。一方、溜井の下流側では水田の開発が進行し、結果として農業用水の不足がより深刻になった。しかし、見沼溜井はその水源自体が次第に枯渇していった。沼沢地に設けられた溜井だったが、直接、水源となるような河川が乏しく、天水(雨水)や湧水が主水源だったのが原因である。・・・

荒川瀬替えや見沼溜め井から、約100年経った吉宗の時代、・・・この「水いかり」に、溜め井の八丁堤の、上流からも下流からも、溜井の利点よりも弊害の方が深刻になり、見沼溜井周辺の治水対策が急務となった。一方で、急増する江戸の人口を支えるためには、食料の増産が必須だった。そのような社会情勢から、見沼溜井という農業水源までも潰して、そこに新田を開発する必要に迫られたのである。

そこで八代将軍吉宗は、この問題解決を紀州時代に紀州で治水に実績を上げた井沢為永に託した。正式名称は・・井沢 弥惣兵衛 為永・いざわ やそべえ ためなが・で、和歌山生まれの豪農である。

彼の役目は、八丁堤を抜き見沼を干拓すること、水源を確保して上・中・下流域に水を供給することである。

           見沼代用水路・・・図

           

上の図が、見沼代用水の経路である。・・・この部分も、先達により業績は調べ尽くされている観がある。

まず、利根大堰で取水が行われた。・・見沼用水の水源が利根川になったということ。そして、所々に堰をもうけて、水量の調整と他用水への分流と配流がされている。さらに、旧河川と交差する地点で、川の上に水路を通す工夫、川の下に水路を潜らせる工夫がなされた。従来の「伊奈流」の治水技術ではなく、新たな「紀州流」の治水技術である。見沼の沼干拓の地域では、沼の岸辺の高台に、二手に分けて用水路を造った。見沼東縁と見沼西縁の用水路の事で、上尾の瓦葺が分水の地点になった。これから水を抜いて干拓する土地に、水が流入しては元も子もない。ここの部分は慎重に細心な注意で、工事がおこなわれた。

この、見沼用水路の完成は、着工から僅か6ヶ月で成し遂げられる。その理由は、幕府の後押し、地元農民の期待からの協力などがあげられ、地域住民の期待の事業だったようである。

反面、見沼湖水の干拓事業は困難を極めたようだ。これには完成までに50年の年月を要した。そうして、今の見沼たんぼの風景ができあがったわけである。・・・・・

井沢弥惣兵衛の指揮の下に、見沼用水が開設されたには、1727年と言われる。伊奈忠治が、荒川を熊谷久下で締め切り、荒川の西遷をしたのが、1629年のことだから、実に約100(・・98)年たった後のことである。

   八丁堤付近の見沼代用水、東縁・西縁の風景・・・

       

                    ・・井沢弥惣兵衛像(見沼自然公園にて)

通船堀

この様にして、見沼用水路の流域は、江戸時代に新たな農耕作地として生まれ変わり、商業農作物は、一大消費地の江戸に運搬されるようになった。この大量輸送をになったのが、芝川と見沼用水路による船での運搬になる。芝川は、見沼の低湿地を流れる悪水路である。この場合の悪水路は、水がきたなく汚れて淀んでいることではなく。用水ではなく排水の水路の意味で、高台の縁を流れる西・東縁の用水路の対比で呼ばれる。従って、用水路と芝川では高低差が生まれる。この為、芝川と、見沼用水路との船の往来は、高低差の水位を調整する必要がある。・・・この水位の調整が通船堀で行われた。・・・つまり「運河」のことである。これは、スエズ運河が出来るかなり前の事ではあるが、歴史上見沼通船堀が初見ではない。

      

・・・見沼通船堀の記念碑、説明板、通船の方法の図・文の説明板

   ・・通船堀遺構

 ・・通船堀の船往来を取り仕切った鈴木家屋敷。・・井沢為永の紀州からの部下でもあった。

 

少しだけの感想・・・

伊奈忠治も井沢為永も、歴史から眺めれば、時代が少しずれるが、ともに優れた治水のテクノラート官僚に思えるが、川口地区と大宮地区では、評価に微妙な温度差を感じる。これが、治水の事業によって受けた恩恵の落差なのかどうか、後世の読み人は、推測するしかないが、しかし、官僚とは、かくあるものとして、尊敬の念は禁じ得ない。