ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

水潜寺 水くぐりの岩戸が・ 札所三十四番 ・・・秩父巡礼

2013-09-06 14:24:04 | 史跡

水潜寺 札所三十四番 

俳人・金子兜太の句碑があります。

      曼珠沙華 どれも腹だし 秩父の子  ・・兜太

金子兜太は、秩父育ちのようです。 

**金子兜太・・秩父近くの小川町で生まれ、4歳まで上海で過ごし、小中を皆野町で過ごしたそうです。中学は旧制熊谷中学(現・熊谷高校)、野上から熊谷まで秩父線で通ったのだろうと思います。後、旧制水戸高、東京帝大経済を出て日銀に就職。高校時代から俳句は作っていたそうです。小林一茶や種田山頭火を研究し、作風は前衛的と言われています。

そういえば、秩父巡礼の寺に、時々投句箱を見かけています。

本堂・・

本堂右手の方に石の絶壁があり、その下に、自然にできた岩屋があります。ここには清水が湧いております。観音詣りが終ったら、この中をくぐって身を浄め、俗世間にもどる習わしがありました。これから水潜り寺が水潜寺となりました。・・・水潜寺の由来

あの窪みが、岩戸でしょうか。裏山へは「立ち入り禁止」の看板と綱張り・・・崩落の危険があるのでしょうか。

 

 ・・寺案内板 ・・入口付近 

開山は旅の僧という。飢饉のあった天長元年(824)、旅の僧が「まず観音を信ぜよ。我ここに西国をかたどり阿弥陀を置き、板東をかたどり薬師を置く。この観音と合わせて百番の霊場として、我が笈摺をここに納む」と里人に告げたという。そして「樹甘露法雨」の札を立てたところ、雨が降ったという。ご本尊は「千手観音」。阿弥陀如来・薬師如来あわせて伝教大師作という。・・・そうすると旅の僧は、伝教大師となるのでしょうか。

・・・・・百番の霊場とあります。四国の霊場を除いて、西国33霊場、板東33霊場、秩父33霊場、合計99霊場を”+1”して100霊場にした、と記憶しています。既述、真福寺の項、札所2番・・・なお、昔、秩父巡礼が三十三札所巡りの時、ここ真福寺は巡礼の寺に選ばれていなかった。追加された寺である。何故に三十四のなったのかは、関東巡礼で、西国三十三、板東三十三、秩父三十三の合計九十九より、百国巡りの方が、ありがたさが増すということで、一寺追加されたそうである・・・が詳らかではない・・参照。それも江戸時代に、と覚えていますが、そうなると、顕かに矛盾です。・・秩父古番付けでも33霊場。どちらが正しいのでしょうか。秩父巡礼の歴史を辿ると、江戸時代に”+1”して100霊場になった、と言う方が説得力がありますが、秩父の郷土史家に判断を任せます。

笈摺・おいずり・・・巡礼などが着物の上に羽織る袖のない薄い衣。笈で背の擦れるのを防ぐための衣という。

             ・・巡礼の姿絵

この姿は、修験者に似ているように思えます。手にした杖が錫杖(しゃくじょう)と呼ばれる金属製の杖で、袈裟と、篠懸(すずかけ) であれば、可能性が高いと思われます。

*なお、巡礼の服装に拘る人は、秩父の札所一番・十三番・十八番で買うことが出来ます。


 ・・本堂までの石段参道坂道風景・・・

 ・・石段脇の石仏、新しい・・・

 

・・施無畏(セムイ)・・仏語。仏・菩薩が衆生の恐れの心を救済すること。

その下に、「天女の舞」の彫刻が一対あります。天井絵も絢爛。

 ・・右 ・・左  ・・天井絵

 

これで、秩父34札所巡礼は終わりになります。江戸時代には、巡礼完結の後は、多くは信濃善光寺に、たまに甲斐善光寺に、終了報告を兼ねて、参詣に行くのだそうです。どうするか”つれあい”に聞いてみます。

・・巡礼終結  -----ということで、証明書?になるのでしょうか。

 

住所:秩父市皆野町日野沢3522

電話:0494-62-3999

 

 

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菊水寺 「子返し」の戒め 札所三十三番 ・・・秩父巡礼

2013-09-06 09:41:35 | 史跡

菊水寺 札所三十三番

 菊水寺は、「菊水の井」があったことが寺の名前の由来と言われています。

 「正大悲閣」の額を掲げた入母屋造りの本堂を持つ札所。赤平川のほとりにあり、寺の庭に菊水の井」という名井があったことから寺名になったと言う。本尊聖観世音は一木造り一材ほどの立像で藤原時代の作。 江戸時代に盛んであった「間引き」を戒めた子返しの額もある。別に本尊を模した聖観世音の立像があり、室町時代の作といわれる。 

壁面高く、名高い「子がえしの絵図」が掛かっています。秩父聖人と言われる井上如常が奉納したものであります。如常はこの絵の中で、嬰児殺しの悲惨な風習を戒めて、わが子を圧殺するなど極悪非道の所業だと母親をはげしく責めています

 

 ・・入口付近  ・・庭園と本堂 ・・石碑

長享の番付には、17番菊水寺小坂下(こざかけ)とあります。昔、たぶん室町時代あたりは、巡礼の一番は、今の秩父駅周辺なので、ここは道半ばにありました。古番付けは、地元の人の巡礼順序なんでしょうね。江戸時代に、江戸からの巡礼が増えて、今の順序になったと聞きます。

永禄十二(1569)年の信玄攻めで観音堂を焼かれたが、本尊は長福庵に難を避けた、とあります。 信玄は、十石峠を佐久方面からやって来たようです。十石とは、山間で米のとれない秩父に運ぶ米の量からの名付けと聞きますが、米の代わりに、信玄がやって来て、寺も焼いてしまった、と言うことです。

本堂前に芭蕉句碑があります。寛保年間に建てられたもので、県内最古であります。

  ・・芭蕉の句碑、菊塚

・・・下記の句が彫られているそうですが、擦れて読めません。別所から調べて見ました。

    寒菊や こぬかのかかる 臼の端      ・・芭蕉

 

境内に、もう一つ・・・

  ・・これも句碑ですが、芭蕉とは無関係。黒田杏子の句だそうです。

 ・・・・・黒田 杏子( ももこ)、日本の俳人、俳誌「藍生」主宰。


住所:秩父市吉田町桜井1104

電話:0494-77-0233

 

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