ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

2:慈光寺、都幾川

2021-08-07 10:49:12 | 史跡

「どん」が何を意味するのか?
「鈍」なのか?「呑」なのか?「丼」なのか?あるいは「首領(Don)なのか?はたまた!!

慈光寺、都幾川:


2:慈光寺、都幾川
 --・戦国の僧兵たち &番匠、湯葉など

 

 都幾川 --・ときがわ町(玉川村と都幾川村が合併してできた町名)、因は、町を貫流する都幾川。その都幾川は、慈光寺の山号「都幾山」を由来とする。

 慈光寺のホームページの紹介の項に、「戦国の時世では、当山も僧兵を傭し、近隣の城主との抗争に明け暮れましたが、それも太田道灌らによって焼き討ちの憂き目にあい、栄華を誇った寺院も衰運をたどること・・」という文面がある。
 
 その慈光寺・・

 時がたち・・嘗ての慈光寺が如何なるものであったか?」は、「web」を巡ることである程度把握は出来そうであるが、本来の規模や勢力の実感は、--・つまり筋肉質や血の実感までは、「見える化」しなければ霧のように遠いのである・・その「見える化」の作業・・
 この輪郭の明確化こそが、この項の要である。
 恐らくは、頼朝から寄進された「1200町歩」という領地の規模が、この慈光寺の性格を定義したのであろうと推測して・・以下の作業

不思議なる塔頭の庵の寺院・霊山院

 開山は臨済宗開祖の栄西禅師の高弟・栄朝禅師。後鳥羽天皇から勅命を受け、慈光寺の塔頭として、建久八年(1197)に創建、「東関最初禅窟」の勅額があり、勅使門もある。
 奇妙に感じるのは、慈光寺が天台宗であり、塔頭の庵・寺院の霊山院が、臨済宗であること。さらに勅使門があることは、天皇家から度々使いが訪れていたことを裏付けている。
 つまり、霊山院(リョウザンイン)はもともと「慈光寺」の僧坊で、その塔頭の一つだったわけで、・・・

山門は、現在「瓦葺」になっているそうです・・

 ---・【白河天皇】より ... 法皇の政治は恣意的な面が強く,〈意の如くならざるもの,鴨河の水,双六(すごろく)の賽,山法師の三つのみ〉という,いわゆる〈天下三不如意〉の逸話もその権勢を示すものとされる。・---

 ここであえて、「霊山院」を取り上げてみたのは、山岳仏教の武装寺院の「慈光寺」の性格の輪郭を明確に描きたいためである。中世におけるこの寺院の存在の必然性は何だったのか?

 霊山院の創設は建久年間で、鎌倉幕府成立の時期と重なるわけで、その「宗派」の臨済宗も、始めを同じ頃としていた。僧侶にも、偏諱の制度なあったかどうかは詳しくないが、烏帽子親や烏帽子名の習慣が僧侶の世界にもあったとしても不思議はない。臨済宗の祖が、自分の一字を高弟に与えて、「栄朝」と名付けて東の官の寺である慈光寺に派遣したとみるのは合理的である。叡山の天台宗が、天皇家と深い繋がりがあるのは、その頃から、天台宗座主に、天皇の子息がなっている例は多い。栄西、道元、法然、親鸞、などなど・・宗派分流のもとの仏教の学校が「叡山」であった。従って、天台宗「慈光寺」の僧兵の分流に、「臨済宗」や「密教」や「台教(=顕教)」があったのは、ごく普通の話であったようだ。それぞれの流派の塔頭・僧坊は繁栄を極め、「一山七十五坊」あったと記録が残る。坊あたり何人の僧兵がいたかは不明だが、かなりの要塞であったのは確かで、これが戦国の時代まで続いた。

 都幾川の地元には、その僧兵の蛋白源としての「豆腐」や「湯葉」の産業、あるいは「番匠」という大工の集団の移住の地名や「大工」より収入が安定できるとして変質した「建具」の産業が、遺産として残る。写経などで大量消費しただろう「和紙」の産地も近くに残るのも、僧兵=学徒の存在の傍証かもしれない。

 慈光寺は、鎌倉時代前後に、『慈光寺実録』によると、慈光寺別当. 厳耀は、畠山重忠の伯父であったという。 畠山重忠は板東八平氏の一つ秩父氏の出身の関東武士で、初期から「頼朝」を助けた。この別当というのは、経済的支援者で、この寺は平良文流の秩父平氏で、さらに頼朝から「1200町歩」を寄進されており、1町歩=100俵:2俵=1石とすれば、120000俵/2=60000石(6万石)という中堅クラスの大名と同じ経済力ということになる。

 要は、中世において慈光寺は守護大名と同じ経済地盤だったということ、中世の戦国は、その経済地盤の領地の「分捕り合戦」が常であった、ということ。先述で、太田道灌"ら"により「焼き討ち」にあったとあったが、この「ら」は、--・天文年間(1532~55年)小田原北条氏の家臣で松山城主上田朝直が大築城を築き、一山75坊を有し関東屈指の大寺院であった天台宗関東別院慈光寺を攻略するのに際して付城とし、北方約4㎞にある慈光寺を焼き打ちにした。---・とあるので「上田朝直」であろうか! (大築城・・ときがわ町大附(オオツキ))

 付録:同時期に、東松山にある「正法寺」が、同じように「焼き討ち」にあい、周囲にある「僧坊」を焼失している」という記録が、同じ書に残る。「正法寺」も、比企一族由来で北条政子の加護寺(守り本尊)なので、鎌倉幕府より多くの寄進地があったのだろう。「正法寺」は岩殿観音として親しまれている寺・・

 とにかく、以後に慈光寺に、江戸時代まで坊の記録を見ないので、「焼き討ち」の以後に、この寺は武装を解き、知行地を奪われたとみるのが合理的であるが、家康の江戸入府で、この寺は、御朱印を受け、ここからまた100石の寄進地を得ていて29坊を作っている。江戸・上野の「寛永寺」の山号は「東叡山」で、比叡山の関東の拠点を意味し、慈光寺は、寛永寺の末寺にされている。恐らく「天海」の策と推定・・ 鎌倉時代は、比叡山・延暦寺「別院」であったとか?・・

 これらの史実の記録を残した『慈光寺実録』の作者は、九十六世信海」となっておりますが、いささか疑問??九十六世信海」は江戸時代の人・どこかで読んだが、調べてみたがわからず・・慈光寺の創設が、宝亀元年(770年)道忠が開山とあり、信海が生きた江戸時代中を1700年とすれば、天武(40代)-東山(113代)の間で、天皇家はこの間:73代の天皇がいたことになり、ほぼ同期間に96代慈光寺住職は疑問?併せて、慈光寺の創設時期が、書により「マチマチ」なのが気にかかる・・
 中世の山伏の宿坊・75坊は戦火で焼けたことは記録に残るが、江戸時代の29坊は、現存を一つも見ない、のはなぜか?
 経緯・由来から、天皇家・後鳥羽上皇などと関係が深いが、南北朝時代はどちらに与したのだろうか?生い立ちから「南朝側」とみるのが自然であるのだが・・
 霊山院の塔頭・栄朝は、老いて上野へ退き、長楽寺を創設。長楽寺は承久3年(1221)、新田義重の四男で徳川氏始祖の義季が、臨済宗の開祖栄西の高弟栄朝を招いて開基した、東国における禅文化発祥・・とある。
 --・戦国以前は、子息に、自国領土の一部を分譲し宛がった。新田義季の宛がわれた地が「世良田」であった。中世の封建時代は、目下のものが目上の者を「呼ぶ」とき「正式な氏名」を呼ことは憚られた。代用は、お館さま、お頭、あるいは住んだ土地名で、例えば「世良田さま」とか。妻女には、み台さま、奥さま、奥方さまなど・・この世良田は、新田氏の有力な一族であった。南北朝時代、絶えず天皇側であった新田氏は、「後醍醐上皇」に与して、その世良田氏はご醍醐上皇の子息・「宗長親王」の側近として行動を共にした。世良田氏は、宗長親王亡き後も、その子の尹良親王を助けて連戦し、敗れて「奥三河・設楽」に隠棲して、そこで松平と姓を変えた」とある。徳川家のもとの松平の出自である。
 上野国・世良田(今は、群馬県太田市内)には、長楽寺の隣に「東照宮」があり、家康が祀られている。

都幾川:三波渓(群馬・鬼石の三波石と同等の石が散在する・・に因んで)

 都幾川・・慈光寺・霊山院のあるところ、都幾山というが、その脇を、都幾川が流れる。その山懐の開けた地に、湯葉や豆腐、建具の産業が息づく。土地の名は、「大工の集落」を意味する「番匠」という。流れはやがて槻川を落合して、さらに流下して、越辺川と落合する。

 

 


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