ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

真福寺 札所二番 ・・・秩父巡礼

2013-09-24 20:26:42 | 史跡

真福寺 札所二番

真福寺 場所; 秩父市山田3095

縁起; 寺の開基は大棚禅師といわれる。禅師が岩屋にこもって読誦していると鬼となった老婆があらわれて、過去を懺悔して去った。あわれんだ禅師はその供養のために堂宇を建立した。人々から慕われた禅師は地名にもなっている。老婆があらわれて、過去を懺悔して去った。あわれんだ禅師はその供養のために堂宇を建立した。人々から慕われた禅師は地名にもなっている。


堂塔; 昔は観音堂五間半四面、ほか本堂、札堂、仁王門、羅漢堂、稲荷社、諏訪社などがあったが、これらはすべて火災によって焼失してしまい、今は本堂がたつだけでる。本尊は聖観世音立像一木造りで高さ64cm、室町時代の作といわれている。

 

     山額    観音像 草花が石仏を飾る頃

 

一番から二番へは、畑の風景を過ぎてから傾斜の急な坂道となり、季節の花を眺めながら、やがて林間も行き、多少喘ぎながら、たどり着くという行程になります。焼失して残った本堂を礼拝してから、納経所のある光明寺への道のりも、同様に林間を下るという、脚力を必要とします。運動不足の輩にはほどよい距離といえるかも知れません。

             納経所 光明寺

 光明寺の縁起

ここには、比較的おもしろいことは書かれています。平安中期の高望王流桓武平氏の弟の恒望王が武蔵権守に補せられ、官舎を新木の地(現恒持神社)に置き、この地で逝き(807)、弔ったのが光明寺だという。そのあと衰退し、のちに隣の新木の荒船家から越生龍穏寺に出家していた僧が光明寺を再建したとある。荒船家は当時番匠屋(大工?)であったという。荒船家は、後に政治家荒船清十郎を生んだ、あの荒船家である。

*荒船清十郎(1907-1980)・・・政治家

決してクリーンではないが気骨ある政治家として知られ、また品性に欠ける嫌いがあったものの愛嬌があり憎めない党人派として国民から親しまれた。かれは、荒船放言として、じつに多くの「放言」をしてマスコミをにぎわした。川島庄次郎自民副総裁から「やはり野に置け蓮華草」と言われたことは有名である。彼の菩提寺は、山田にある金昌寺(札所四番)。

光明寺 場所;埼玉県秩父市山田2191

・・・・・なお、昔、秩父巡礼が三十三札所巡りの時、ここ真福寺は巡礼の寺に選ばれていなかった。追加された寺である。何故に三十四のなったのかは、関東巡礼で、西国三十三、板東三十三、秩父三十三の合計九十九より、百国巡りの方が、ありがたさが増すということで、一寺追加されたそうである・・・が詳らかではない。

・・・なお、札所二番は、一番と集合であったものを、独立して、編集しました。

 

 

 


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