ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

見沼について ・氷川神社との関係 

2013-09-27 17:09:12 | 歴史

武蔵国一宮の氷川神社は、むかし大きな湖の畔にありました。江戸時代、八代将軍吉宗の頃までです。

その名残は、境内に幾つか残る神池となっています。湖の場所は、大宮公園に隣接する動物園やサッカー場辺りから蹴落としの坂となり、湖に繋がります。この湖は、最大に膨張した時で、周囲を42Km強に及びました。これの面積は、諏訪湖より一割強小さいぐらいで、かなり広大です。これだけ大きいと沼と呼べないと思い、湖としました。名称は「見沼」、・・・昔の呼び名は「御沼」とも「三沼」とも「箕沼」とも、古書に記されているそうです。水面を飛び跳ねる魚を詠んだ和歌も散見されると言います。

氷川神社は、もともと出雲系の神社で、水の神を祀っておりました。それでか、湖の畔に、氷川神社三社を建てております。 

・・・見沼周辺にある大宮市高鼻の氷川神社・浦和市三室の氷川女体神社・大宮市中川の中山神社は、それぞれ男体宮・女体宮・簸王子宮と称していました。この三社にはそれぞれ縁起書や古記によって創建年代を定めていますが、実際とは異なる場合があるともいわれています。信濃国諏訪湖畔の諏訪大社は、上社下社に分かれていますが、もとは一社で大社名は両社の総社であるといわれています。氷川三社も恐らくもとはこのような形態ではなかったといわれています。これは三社が深い関係をもっていたことを示しており、かつては一社であったことを物語るものと考えられます。・・・この三神社は、湖で繋がり、往来は船であろうかと、三室の女体氷川神社の「御船祭」の由縁から想像されます。御船祭は、見沼が干拓された後、岩舟祭に名前を変えて現在も継続・伝承されています。

大宮氷川神社・・高鼻の男体神社は有名なので割愛して、中山神社と氷川女体神社を紹介します。

中山神社・・

    ・・拝殿

   ・・本殿 ・・旧社(保存)

 ・・稲荷神社と合祀の村社 

・・火塚  まるで、ゾロアスター教の祭典のような火の祭がありました

・・中山神社の由来 ガイド板

中山神社は、江戸時代まで「中氷川神社」と呼ばれていました。明治になり、一村一神社が法律で決まり、村内の付近の神社が中氷川神社に合祀されました。また氷川三社の中で、この神社だけが火のお祭りを行い、中氷川の氷のの文字が溶けて無くなったとも言われています、これは"まさか”とは思いますが、付近の中川の地名とともに中川神社に変名したようです。

・・冬至と夏至の話は三神社の説明の後に・・・神話なのか!科学なのか!・・・


氷川女体神社・・

   ・・神社の鳥居と社稜

・・氷川女体神社の由来板と龍神の舞の祭事の説明

見沼氷川公園・・

公園の入口近くには、「案山子」の記念碑が建てられています。
     山田の中の一本足の案山子
     天気のよいのに簑笠着けて
     朝から晩まで立ちどおし
     歩けないのか山田の案山子

・・・・・この公園の付近の明治大正の頃の風景から、この歌が生まれました。見沼たんぼの原風景・・・

 

氷川女体神社は、奇稲田姫命を祀ってあります。彼女は須佐之男命の妻であります。・・ちなみに須佐之男命は氷川男体神社(=大宮氷川神社)の主神です。

この三社は別々の神社ではなく、氷川三社で一体の氷川神社を形成して見沼を神池「御沼」として広大な神域を有していた、と思われます。三社は、この湖水を船で往来したらしく、この女体社に御船祭の神事を残し、西縁用水路を挟んだ公園・・見沼氷川公園に祭事の跡を残しています。

 

氷川男体神社(=大宮氷川神社)と中山神社と氷川女体神社

中山神社は、氷川神社と氷川女体神社の直線上にあり、広大な見沼を挟んでちょうど中間に位置します。太陽は夏至に西北西の氷川神社に沈み冬至には東南東の氷川女体神社から昇るという、稲作で重要な暦を正確に把握するための意図的な絶妙な位置関係です。

氷川神社(三社)は、暦の夏至と冬至を正確に推し量り、近在の農民に、種まきの時期や刈り取りの時期を教えていたと推測できます。

氷川神社は出雲族の神の出で、以前調べた日置部の知能・技術を兼ね備えていた模様です。日置部は太陽祭祀を司り、暦に精通して、農耕の発展で豊作に通じている知識です。日置部は、太陽祭祀に秀でるもはシャーマンとなり、技能に優れるものは土師氏になって、土器や鉄の製造に携わるようになります。このシャーマンになったものは、武蔵国に来て氷川神社を創り、武蔵国国司に何代も君臨したと言うことです。

興味深い話が残っています。

明治維新がなり、天皇が京都より江戸へ行幸して、江戸城に入り、東京の命名をして遷都します。このとき、天皇は、関東の神社で、武蔵一宮の氷川神社に、いの一番で参詣したと言われています。氷川神社は出雲系であり、天皇家は天津系です。遠い昔に両系は争った経緯があり、須佐之男は追いやられました。遠い昔の諍いの仲直りの挨拶に来たのでしょうか・・・

・・・氷川神社や見沼のことは、資料も多く、熱心な研究者によって、ほぼ調べ尽くされているように思います。ここには自分の出る幕は無いようにも思えます。ただ、みな地味で、目立たないため知らない人も多そうです。

・・・・・次回は、見沼が一番湖水の面積を膨張させた時期を、追いかけてみたいと思います。ここには伊奈熊蔵忠次と伊奈半左衛門忠治が出てきます。






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