児玉真の徒然

峠にたつとき
すぎ来しみちはなつかしく
ひらけくるみちはたのしい
(真壁仁 峠)

久しぶりの札幌、アートマネジメント研修会

2009年09月14日 | 徒然
8月から秋にかけては、新しい企画とか考え方とかをこね回すべき時期であるが,同時に秋のイベントのことを考えないといけない時期でもあって、精神的に追い込まれる気分になるのは毎年のことであるけれど、今年は特にきつい感じがあったのは、全体的に草臥れているのかなあ。

北海道文化財団が長くやっているアートプロデューサー養成講座。今年は音楽のアウトリーチがテーマになっていて現在のアウトリーチの状況について、社会の中の役割について話をしてきた(9月9日、10日)。
アウトリーチは企画する側から見てもとても楽しいし、反応も明快で満足感があるのでやりがいはある。だから今本当に各地で行われている。流行みたい。でも、流行ならいずれ飽きられるし、問題点が出てきたときには誰もやらなくなる。
だから、と言うか、でもというか、一つ一つの企画を良くしていく努力とともに、そのシステムを考えていかないと、近い将来形式だけが残って堕落していくだろう、というのが自分の認識であって、それ故にいま頼まれれば断らないようにしているということもあるのだけれど。
システムといっても結局は人が動かしていくものなので、結局は人の中にあるその炎(意欲や意志)をどのようにつないでいくか、というシステムが必要なのだけれど、それはどうして良いのか分からない。炎(火)はエネルギーの基になるので、そのコントロールというのはたき火から原子力まで人間が太古から取り組んでいることではある。まあ解決していないから今も取り組んでいるのだろうけどね。

今回の北海道の講座は、演奏家、会館職員、そのほかと多彩な人が集まった。多彩というと良いことのようだけれど、アウトリーチへの見方はみんな方向性が違うのでそこで話をする事は非常に難しいのである。まあ、そのようなハードルは何とかすることは経験的に出来るようになってきたけれど、レジュメではいつも失敗をする。
多彩でも本当は方向性は一緒でないといけないはずなので、今回はもう一回月末に行くときには演奏家と、企画側とで一緒にアウトリーチプログラムを考えていく,と言うことを実験してみようと思っている。

現場の経験から見いだされた意欲とか手法とかの考え方を広めて行き、いずれそれが社会の常識になるような方法論を考えるのが良いのだろうと思うけれど、今はどうなのか・・・
アーチストが学校などに出前演奏して帰ってくるということはどういうことなのか、という認識に関して、まだ、先生、プロデューサー、会館、市役所、教育委員会、演奏団体、アーチスト、すべてのところで、手間をかけて取り組むことであるという認識が、決してメジャーな思考回路になっていないように思う。それは困るけれどもだから面白いと言うこともある。

愚痴っぽくなる話はさておき、北海道では、私がアウトリーチの理屈っぽいところを話したあと、ピアニストの田村緑さんに模擬的にアウトリーチ授業を行っていただき、その上で演奏家の立場から見たアウトリーチを話して頂いたのだけれど、一つのことを別の視点から見て貰うやり方は今回も非常にうまくいったように思う。遅れてきて最後の30分に参加した某大学の先生が、「すでに話し手と聞き手の関係と雰囲気が完全に出来てしまっていたので途中からは入りにくかった」と仰っていたが、それは先生には悪いけれど成功だとおもう。
人は理解しても納得はしないものだ。納得とは、結局自分の中にある何かと反応して初めて自己の経験として取り込まれるのだから。納得しないとその人の行動基準の中には組み込まれることはない。だから、同じ出発点に立ちつついくつもの視点から語られると説得力がある事が多い。特に情と理が上手く結びついたときの説得力は大きいのだ。これからは、その納得を政策化するというトランスクリプション(翻訳)を上手くやってくれる人を熱望する。