ヤハマの2サイクルRX350は市販レーサーTD3の血統を受け継いで俊足、コーナリングは重い四気筒勢よりも早かったが、やはり、世の中の潮流は、マルチシリンダーのホンダCB750とCB500にあった。
いろいろ自分でいじり回していて、焼付きを起こしてしまい、修理費をかけるなら16万円でCB750の中古に乗り換えないかって話があった。その先輩はかなりマニアっクな方で、初期型の大きなドライサンプタンクのサイドカバーに取り替えてあったり、トリコロールカラーに塗り替えてあった。そして、巨大なホンダにナナハンは我が家にやって来た。
その、強烈な加速とエンジンブレーキ、スロットルの重さ、倒しこみの重さは大柄な外国人向けのバイクだったが、そのマルチシリンダーの排気音は迫力があって、まさに王者の貫禄だった。
アルバイトの資金で最初に取り掛かったのは、メーカー在庫も減って来た初期型K0用のフルエグゾースト、サイレンサー構造がシンプルで抜けがよいから、サウンドの変化と高速の伸びが期待できた。
早朝、篠崎街道の本州製紙付近に集まり、小岩までタイムトライアルをするなど、今では考えられない違法行為を楽しんだ。
何せ、小岩に向かう信号の無い土手沿いの片側一車線でメーター読みで180キロを維持して走らなければ男じゃなかった。
3無い運動もヘルメット着用義務も関係ない時代だった。郊外へツーリングに行くでもなく、日比谷公園や青山あたりの喫茶店に集まり、音楽やバイク談義に明け暮れた。いつしか、マスコミはサーキット族と呼ぶようになっていた。けして、縄張り争いがあるでもなく、後に現れるヤンキーの暴走族とはファッションも異なるひとつの風俗だった。