ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市秋穂の大海は秋穂湾から神社仏閣・小祠を巡る ② 

2024年04月14日 | 山口県山口市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したっものである。

        
         2日目は大海小学校前バス停から海岸通りを北上する。

        
         大海小学校の正門には「創立明治7年(1874)11月23日」の表札と、1924(大正1
          3)
年建立の「報徳」と刻まれた碑がある。
                 正面の二宮尊徳(金次郎)像は、1939(昭和14)年に銅像で建立されたが、先の大戦に
        おいて武器生産に必要な金属資源の不足を補うため供出された。1942(昭和17)年にセ
        メント製の像が設置された。

        
         小学校前の広場に「EARTH and SKY(地球と空)」と紹介された石の作品がある。チェコス
        ロバキア生まれのペーターローラー氏の作であるが、作品のコンセプトはわからないが、
        2つあるので「地球と空」が表現されているのであろう。

        
         浜内会館脇に「小林和作先生頌徳碑」がある。洋画家の小林和作(1888-1974)は富裕な地
        主の家に生まれ、京都の美術学校を卒業して画家となる。1934(昭和9)年に尾道に移り
        住み、以後亡くなるまでの40年間尾道にあって創作活動を行う。
         1931(昭和6)年の経済恐慌で実家の経済状態が悪化し、財産整理を行っている。碑文
        には「先生は郷土を愛する念厚く、郷土発展に貢献されること甚大‥」とある。国民宿舎「
        秋穂荘」に和作コーナーが設けてある。

        
         小学校からは海岸通り歩き。

        
        
         小学校東側から旧県道に出ると火除地蔵尊の木祠がある。立像の右手が欠損しているが、
        倒れ防止のため「はめ込め地蔵」となっている。

        
         東側が海ということもあって、台風などによる被害を受けてきた地域である。

        
         旧道沿いには立て管が数十メートル毎に設置されているが、排水システムに關係するも
        のだろうか。

        
         スーパーのある四差路を左折して小道に入り、2軒目の大村宅の西角に「大海小学校発
        祥之地」碑がある。民家から東泉寺、大昌寺の仮教室を経て、1874(明治7)年大海小学
        校として開校したという。

        
         バス路線であるが、県道25号線(宇部防府線)が新設されたため静かな通りとなってい
        る。

        
         旧道から新川右岸を辿ると、厄神社の石祠があるが祭神等は移転したようだ。

        
         新川橋の袂に赤崎宮の灯籠が、樹木に隠れるように立っている。

        
         大海小学校と東泉寺を繋ぐ道に瓦屋根付きのお堂がある。右の地蔵尊は頭部がセメント
        で接着されているが、民家での結婚式に運び出されたためだろうか。
         左の地蔵尊は他地より移転してきたようだが、後に2体に合わせてお堂が建てられたと
        思われる。

        
         ホームセンター向い側にも赤崎宮の灯籠がある。この道は大海小学校から東泉寺へ至り、
        山手を北に辿る「上ん道(うえんどう)」と呼ばれ、バス道路に対応した主要な道であったと
        いう。

        
         江戸期の秋穂は陸路の街道筋はなかったが、秋穂浦から幸田(現山口市秋穂二島)を経由
        する道と、大海峠を経由して東泉寺前を通る道があった。いずれも奥地より海港に出る道
        として、人の往来や物資輸送のために開かれた。

        
         東泉寺(浄土真宗)の寺伝によると、豊前国の大友宗麟の家臣であった森王弥権太夫時乗
        が、宗麟のキリシタン改宗に悲しみ、故国を去って当地に居住する。慶長の頃(1596-1615)
        に上京して剃髪して教善と称し、4代のときに寺号が与えられたという。
         豊後国から山口に攻め込んだ大内輝弘の乱(1569年)と時代が重なるが、関係するか
        否かはわからない。

        
         境内の西側に出ると、六角堂へは並びの悪い石段を上がる。

        
         長徳寺(現大昌寺)の末寺で「江月庵観音堂」と称し、大内義弘(1356-1400)が京都六角堂
                の如意輪観音を勧請して創建したと伝える。堂宇の形から六角堂と呼ばれ、本尊は秘仏で
        21年毎に開帳されて、本寺において供養が行われる。(秋穂八十八ヶ所12番札所)

        
         六角堂の裏手を進むと、旧大海保育園上の墓地一画に妙見社があるが、元は上下に離れ
        ていたという。妙見社は国土を守り、災いを消して人々に福寿をもたらす星の神とされる。

        
                 大海湾と大海の町並み、銀色に輝く球体が見える。

        
         旧大海保育園下にこんもりとした森があり、その中に注連縄が張られた石祠がある。郷
        の森様・幸大明神というらしいが詳細は知り得なかったが、今も大切に祀られている。

        
         県道交差点から海側に下ると、左手に小祠が見える。「森様」と呼ばれているが、土地
        を守る神が祀られているのだろうか。

        
         地区の中心地であったと思われ、店舗の構えを残す家が見受けられる。

        
         大海郵便局近くにある地蔵尊は台座に「三界萬霊」とあり、ここも首がセメントで補修
        されている。1794(寛政6)年に地元の網元が奉納したという。

        
         1994(平成6)年に完成した秋穂大海総合センターらんらんドーム。 

        
         1968(昭和43)年10月に秋穂漁港大海防波堤灯台が設置された。背後の佐波川に架
        かる防府新大橋は、2003(平成15)年に台道南交差点から富海に至る県道58号線(防府
        環状線)の一部として設けられた。

        
         大海漁港と思い込んでいたが、行政上は秋穂漁港(大海地区)とされ、管理者は山口市と
        のこと。

        
         1955(昭和30)年代の海岸保全工事と漁港修築工事は、関係地区の人々にとって台風
        被害の減少など受益するところが大きかった。(この先に浜中墓地) 

        
         浜中墓地の一画にある「福田先生之墓」は、1874(明治7)年大海小学校開校当時の主
        任教師だった福田微の墓である。教え子たちによって建てられたというが、慕われた心が
        墓標に刻まれている。

        
         山口県漁協大海支所の直売所。大海浦の漁業は秋穂浦より遅れて始まったが次第に隆盛
        となり、1878(明治11)年には大海浦魚市場が設けられた。日露戦争終了後の1905
          (明治38)年頃には、大海浦の漁家9割が専業で、漁家の多くが福岡県や長崎県沖まで遠洋
        漁業に進出するようになったという。
         現在は直売所と海鮮丼などを食する施設が併設されているが、常時ではないようなので
        事前に確認を要する店のようだ。

        
         漁村集落特有の海への細い路地が区画されたように設けてある。

        
         石碑の刻字は風化してはっきりと読めないが、大海浦漁業組合の記念碑のようだ。碑文
        には「大正5年(1916)3月元村営なりし大海漁海市場を大海浦漁業組合の経営となす。大
        正6年2月大海浦漁業組合に養殖場の件を認可せらる」とある。左には大正十年(1921)六
        月建立された旨の刻字がみられる。 

        
         浜中天神バス停があるので近くに天神社があるのでと探すと、記念碑のある広場に灯籠
        があり、「天満宮」「慶応元(1865)乙丑一季十月廿五日」とある。公園広場になっている
        が、社殿は台風で大破し、正面の保管庫で祭神が祀られているとのこと。
         古くは天御中主神を祀っていたが、宝暦年間(1751-1764)太宰府天満宮より勧請し、一時
        新川の疫神社に併祀されていた。1802(享和2)年今の地に移して祀るようになったとい
        う。

        
         無住のようだがトタン屋根の民家も少なくなった。

        
         1900(明治33)年山陽鉄道の大道駅が開業すると、幹線道路であった秋穂港ー大道間
        の道路改良が進められ、1925(大正14)年竣工したが、この道幅になったかどうかは定
        かでない。 

        
         赤いちゃんちゃんこに赤頭巾をかぶり、老夫婦のような姿をみせる微笑ましい地蔵尊。

        
         路地を抜けると出雲神社。その昔、疫病が流行したのを機に、出雲社を勧請して社を建
        てて祈願したという。

        
         大河内バス停よりJR大道駅に戻るが、バス停前に小さな地蔵尊が祀られている。19
        72(昭和47)年9月に3歳の子が、同所で飛び出し事故により亡くなり、その供養のため
        建立されたという。