この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
1889(明治22)年町村制施行により、中野村・川上村・川曲村・上村の4ヶ村が合併
して加見村(かみそん)が発足し、1942(昭和17)年徳山市に編入されるまで村立する。
中野は富田川の支流である中野川流域に位置する。地名の由来は、佐波郡徳地から富田
に至る道筋にあたる当地は、往古、人家はなく広野ばかりであったためという。(歩行約1
㎞、🚻なし)
中野へはJR新南陽駅から四熊経由で路線バスがあるが、1日4便と少なく車に頼らざ
るを得ない場所である。川上ダム湖の付け替え道路に沿って1本道を進む。
神上(こうのうえ)神社は、1600(慶長5)年に勧請されたと伝え、旧藩時代は神上大明神
と称していた。鳥居は大正4年乙卯年(1915)の御大典記念と記す。
神社から約300m奥に進むと旧中野村の中心地で、12世帯14人が暮らす。(集落入
口の路肩に駐車)
菊川小学校中野分校は、1877(明治10)年南野小学中野分校として創立。のちに中野
簡易小学校、分教場、分校などに校名変更してきたが、1982(昭和57)年に休校し、1
994(平成6)年廃校となる。(片隅に二宮金次郎像)
二宮金次郎像傍に「伝 中野出土舟形石棺」2基が保存されているが、左側の石棺は終
戦後に発見されたが、石を穿(うが)って作られており、破片となっていたものが復元された。
右のものは、古くから保安寺(上村)にあったもので、石棺の蓋と伝えられている。(説明板
より)
中野消防庫脇に中野薬師堂。2003(平成15)年に入佛法要祭が行われたと記す。
分校跡から右手の集落道を上がって行くと、10軒程度の民家が道に添うが空家が多い。
バスはここで折り返すが、平日4便、土日祝は2便と少なく、利用者(利便性)と便数(収
益)の関係はいたちごっこのようだ。
バス回転場の脇に地蔵尊と道路奥にも人家。
最奥民家も空家。
車庫らしき建物の中に墓碑と、壁には各地の寺社の御朱印が掲げてある。
古老によると中野川を挟んで棚田が広がっていたが、耕作放棄後は棚田だったことが嘘
のような姿になってしまったという。奥に民家があったのであろう電柱と舗装路が延びて
いる。
川上は西から四熊川、北西から中野川が注ぎ込む富田川の中流域に存在した。川上ダム
により地区の家屋計60戸、面積68万7,243㎡が水没し、現在では川上ダム管理事務
所があるだけである。
山口県営多目的ダムとして1958(昭和33)年に着工、1962(昭和37)年に完成した
重力式コンクリートダム。
しかし、水需要のさらなる増大により、1979(昭和54)年に既設ダムが16.5mかさ
上げされた。
上村(かみむら)は富田川中流域の両岸に位置し、東と西は山が迫る地にある。(歩行約
2.5㎞)
中国電力間上(はざかみ)発電所は、1940(昭和15)年に発電が開始された。背後の急傾
斜地に敷設された水圧鉄管で、水の落下を利用したダム水路式発電所である。。
間上集落とバス停付近に水車2基。
県道新南陽日原線から市道間上線に入り富田川沿いを下る。
川の左岸に東南野集落の家並み。
富田川に架かる恵比須橋と、袂に恵比須神の小祠。
保安寺(ほうあんじ)は曹洞宗のお寺で、室町期の1465(寛正6)年に陶弘房の妻・保安寺
殿華谷妙栄の菩提寺として創建される。1821(文政4)年天神山下から今の地に移転する。
寺前から見るべきものもないのでウオーキングになってしまう。(再合流の県道付近より
見返る)
市道徳山加見線を下る。
亀甲模様に市章と文字が入った周南市のマンホール蓋。
東南野には数軒ほど農家住宅らしい建物が見られる。
川曲(かわまがり)は富田川の支流・川曲川流域に位置する。地名の由来は、川の流路の曲
りが多いためという。(歩行約2㎞)
集落は市道徳山加見線分岐から下川曲バス停まで2.3㎞の距離にあり、三嶋神社を挟ん
で下と上に分かれている。
バス便はJR新南陽駅から1日1便のみで、病院、生活物資購入など生活するためには
車に頼らざるを得ない状況のようだ。
大きな屋敷地を構える民家。
人の気配が感じられないが、下川曲では11世帯18人が暮らしているという。
大きな民家だが無住のようだ。
川に沿って右カーブした所に三島神社。1590(天正18)年河野五郎右衛門が伊予国三
島神社の分霊を祀ったことに始まるという。
15世帯21人が暮らす上川曲集落。
東荘寺(曹洞宗)の創建年は不明だそうで、1750(寛延3)年富田より移転する。本寺は
大道理の龍豊寺とされるが、現在は廃寺同然の姿を見せる。
大乗妙典は法華経のことを意味し、小さな石にお経を一字づつ書いて埋めたものとされ
る。
段々状に並ぶ民家には車などがあって日々の営みを感じる。
上川曲集落の中心部にバス停。この先600mほど入ると、10世帯20人が暮らす矢
櫃集落だが猛暑で歩けず残念する。
過疎対策にこれといった特効薬もないようで、将来展望を描くことの難しさを感じつつ
往路を引き返す。