ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市仁保の上郷は私小説の嘉村磯多生誕地

2022年07月09日 | 山口県山口市

         
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         仁保上郷(にほかみごう)は物見ヶ岳南麓、仁保川上流に位置する。北から東は標高500
        ~800mの山地が広がり、南北に細長い地域である。
                 この地を訪れる公共交通機関がないため、車に頼る以外に方法はない。

        
         仁保川の塩川橋を渡れば仁保上郷の北河内地区。 

        
         北河内の県道沿いに疣(いぼ)が治るという地蔵尊が祀られている。疣ができた人が祈願し
        ても治らないが、人に頼んで祈願すると治るという不思議な地蔵尊で、別名「ことづけ地
        蔵様」と呼ばれている。 

        
         左右の山裾に数軒の民家が軒を並べる。

        
         県道沿いの「月読神社・石風呂」の道標に従うと、急坂で荒れた山道である。

        
         月読命を祭神とする月読神社。1874(明治7)年山口の多賀社より移転したという。
         長崎県壱岐の神社に祀られたのが始まりとされ、最初は海上の神であったが、その後農
        耕の神として祀られるようになったという。

        
         石風呂は現在のサウナ風呂のようなもので、石を丸く囲んでドーム状に積み上げ、その
        中で薪などを燃やして熱くした後、石菖(せきしょう)や筵(むしろ)などを敷いて寝ころんだ。
        医者にかかることが少なかった時代に疲れを取り、病を癒す貴重なものであったという。
         石菖はサトイモ科で水辺に群生する常緑の多年性植物で、根茎や葉は薬草として用いら
        れている。

        
         法雲院(曹洞宗)は、1870(明治3)年当地にあった養徳院と大富の法雲寺が合併して法
        雲院と改称し、犬鳴口にあった光明寺も合併して現在に至る。

        
         犬鳴川渓谷の入口に光明寺跡。

        
         1933(昭和8)年7月28日、種田山頭火はこの地を行乞する。「分け入れば水音」は
        生前交友のあった詩人・和田健氏所蔵の短冊にあった山頭火直筆とのこと。

        
         案内によると、その昔、一獲千金を夢見た鉱山師が、この付近の岩場を採掘した跡だと
        いう。

               
         犬鳴の由来によると、昔、座頭が隣村の篠目に行くために愛犬を連れてこの渓谷に入り、
        足を取られて滝壺に落ち込んで亡くなった。それを見た犬が三日三晩鳴き通した後に、滝
        壺へ身を投げて主人の後を追ったという伝説からきているという。 

        
         学校のプールまで遠いこともあって河川プールが設置されているが、コロナ禍で使用禁
        止になっている。

            
         金比羅、稲荷、荒神、大森大神(祭神は知り得ず)、仁保八十八ヶ所(何番札所かは不明)
        が神仏習合で祀られている。

        
         KDDI山口衛星通信センターのパラボラアンテナがデザインされた山口市のマンホー
        ル蓋。

        
         この地蔵尊はここから南西に50m、堂ヶ迫川が仁保川に合流する手前の小橋の袂にあ
        ったという。昭和の初め頃までは病気を患っても医者にかかることができず、「御立願(
          りゅうがん)
」といって病気平癒を祈願し、治ったらお礼の意味を込めて地蔵尊と一緒に簡単
        な食事をとるという風習があったという。
         医療制度が充実すると風習は廃れたが、その後も地蔵尊を大切に守り続けてきたが、高
        齢化のため鎮座する場所に日々のお参りが困難になってきたため、この地に移転したとい
        う。

        
        
         このお堂は岩瀬戸山に鎮座していたが、老朽化のため現在地に移転させて新たなお堂を
        建立したが、お堂は北向きを否(いな)とするので、県道に背中を向ける形となった。お堂の
        所在が判りづらいと考え、お祀りしてある3体の絵図を道側に掲げたという。

        
         農協の購買部を思い出させるような建物。

        
        
         1861(文久元)年大富小学校の前身となる私塾が開かれ、1874(明治7)年に上仁保小
                学校として発足する。のちに大富小学校に改称し、尋常小学校、国民学校を経て1947
          (昭和22)年再び大富小学校と称した。1966(昭和41)年仁保小学校に統合され、建物は
        大富
公民館として活用されている。

        
                   「私は都会で死にたくない
                     異郷の土にこの骨を埋めてはならない」
                                    磯多
         ここに建立された碑は、望郷の念やみがたい彼の心情を短文ながらよく表した「上ヶ山
        の里」からの一節を刻んだものである。

        
         仁保上郷から佐波郡柚野へ行く道は、峠越えの狭隘な道で馬車が通れなかった。そこで
        1889(明治22)年から1892年にかけて拡幅や橋を架けるなどの改修工事が行われ、
        物資の往来が可能になった。これを記念しての碑である。

        
         仁保の三古社の1つとされる大畑神社(妙見宮)は、平安期の807(大同2)年に勧請され
        たと伝えられ、仁保では最も古い社である。大内氏ゆかりの神社で、拝殿の桁に大内菱の
        紋章が彫られているが、現在改修中で、拝殿まで行くことができず。
         なお、嘉村磯多の作品「神殿結婚」の舞台でもある。 

        
        
         嘉村磯多(1897-1933)は嘉村若松の子としてこの地に生まれ、山口中学校に入ったが4年
        で退学する。この頃キリスト教や仏教の影響受け、その後、役場や森林組合に勤める傍ら、
        水守亀之助から文学の影響を受ける。
         1921(大正10)年上京して雑誌「十三人」の社友になり、以後、小説を書いたり同人
        雑誌を発行したりしたが恵まれず、山口に帰ったり、また、上京するなどした。
         その後、雑誌記者の傍ら私小説を発表して次第に文壇で認められるようになる。とくに、
        1932(昭和7)年に発表した「途上」は高く評価されたが翌年病没する。

        
         古民家での生活体験ができる施設で、利用者がいたため土間から室内を見学する。

        
         生家から仁保川を川上に向うと上ヶ山公民館があり、橋の先に「磯多の道」がある。そ
        れに沿うと分岐には墓への案内があり、墓地には数基の墓があるが、「昭和8年11月3
        0日」の刻字が磯多の墓である。
         作品「上ヶ山の里」に「背戸山には白百合の花が咲く。そこの近くに墓地がある。私の
        兄や弟や妹が眠ってゐて、3つの地蔵さんが合掌してござる。私は都会で‥略‥それは私
        の衷心の願である。あのお地蔵さんのそばへ埋る日を思うて、このこころ躍る!」とある。 

        
         揚山(上ヶ山)の薬師堂は眼病に霊験あらたかとか。

        
         上ヶ山の里には上ヶ山・葛坂の2つの集落があり、それぞれに神仏を祀ってきたが、建
        物の老朽化による維持管理が困難となりつつあった。
         ところが1996(平成8)年の県道の拡幅工事で客神社、厳島神社、六地蔵尊が移転する
        ことになり、この地に社殿を新築し他の神仏も集めて上ヶ山の村社とした。ちなみに8神
        社(人丸・客・河内・足王・霊・厳島・木崎・金比羅)と3菩薩(観世音・地蔵・弘法大師)
        が並んでいる。 

        
         上ヶ山集落。

        
         仁保の名水「平家の泉」の取水口で、伝説の平家の泉・平家岩は、ここから500m先
        にあるという。

        
         平家の泉へは薮道が続き途中で残念するが、説明によると下関の壇ノ浦で源氏に敗れた
        平家の落人は、各地に四散したが、その中に平家一門の万寿姫もいた。姫はわずかな郎党
        に守られながら仁保川を遡り、上ヶ山の里から小径にさしかかると巨大な岩の傍には湧水
        が出ており、喉を潤すと姫は笛を取り出し静かに吹き始めたという。一行は休息の後、徳
        地の白井の里(大字野谷の西部)へと旅立っていったと伝えられている。


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