ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市仁保の仁保市と源久寺・仁保氏居館趾 

2022年07月13日 | 山口県山口市

         
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         仁保下郷は白石山に西方、仁保川上流に位置する(歩行約5.6㎞)

        
         JR仁保駅は仁保の西端に位置し、中心地の井開田地区までは2㎞も離れている。

        
         山口線の山口~篠目間は、1913(大正2)年1月に工事が開始されたが、2年後の19
        15(大正4)年12月23日、木戸山トンネルで落盤事故が発生して作業員56名が生き埋
        めになる。昼夜を問わず救出作業が行われ、発生から120時間後に救出抗が開き32名
        が救出されたが、24名が犠牲となる。
         1916(大正5)年7月トンネル開通後、仁保駅構内を見下ろす高台に「招魂碑」が建立
        される。(ホームに戻って探すと山手側に碑が見える。)

        
         駅構内から見えるのが事故のあった木戸山トンネル(583.38m)で、篠目駅まで6ヶ
        所のトンネルと高い擁壁の築堤など難工事の末、1917(大正6)年7月1日山口~篠目間
        が開通する。

        
         駅前の古民家。 

        
         この道は中国自然歩道で、山口県庁から一の坂川、常栄寺雪舟庭、KDDI衛星通信所
        を経て、仁保川沿いを上流して磯村磯多生家から徳地へ至る道である。

        
         国道376号から分岐すると仁保市。

        
         ほぼ直線的な道が東へ向かって延びている。

        
         旧仁保郵便局は民家となっている。

        
         池田百貨店周辺にも理髪店や仁保農協支所などがあったが現存しない。

        
         舟山八幡宮は平子(たいらこ)重経が源久寺の山道傍に建立したが、南北朝期の1347年、
        重経から6代目の平子重嗣の手によって現在地に建立された。
         後に大内氏が社殿を再建したが戦火により焼失し、1613(慶長18)年に毛利輝元が再
        々建している。

        
         八幡宮と御旅所の間に2つの祠がある。(左は恵比寿社)

        
         舟山八幡宮御旅所には大杉がある。

        
        
         御旅所から見る仁保市集落。

        
         最近は少なくなったトタン葺きの家屋。この付近に1955(昭和30)年代に梅田醤油店
        があったとされるが面影すら残されていない。

        
         仁保酒舗。

        
         浅地川に架かる仁保市橋までが仁保市。

        
         教林寺(真宗)は、山口市矢原で医者をしていた石津玄祖が僧となり、一寺を建立したの
        が始まりとする。1819(文政2)年現寺号が付けられ、木戸山トンネル事故の犠牲者24
        名のうち20名を10代住職が導師となり、法名を与え葬儀が行われた。

        
        
         橋を渡れば野上集落だが、多くは現在風の建物が主流を占める。

        
         左手にKDDIのパラボラアンテナが見えてくる。この方角を向くアンテナは、インド
        洋上の衛星と交信している。

        
         峠が下郷と中郷の境で国道を引き返す。

        
         鷹野原墓地由来によると、河川改修や圃場整備により一帯は整備されたが、墓地は荒地
        と化していたため整備・安置したとある。
         長井家は旧家であったことが記され、吉田家については三浦家初代平子重経より分家し
        た家系だが、室町期の1569(永禄11)年10月、吉田元種、武種父子は吉川元春の家老
        ・江田智次により浅地川で殺害され、この地に葬られたとある。
         大内・陶氏滅亡、毛利氏の時代へと移行する中で、領主だった三浦(仁保)氏も時代の波
        に押し流される。

        
         鎌倉期の1197(建久8)年地頭職として下向した平子重経が、居館を構えた地といわれ
        る。重経の子孫は地頭として、以後、この地に居住し、その出目の姓をとって三浦氏、ま
        た当地の名によって仁保氏を称した。
         近世に入り、毛利氏に仕えて三浦元忠の時、亀山城番を命じられて山口町に住すること
        になり仁保の地を離れた。

        
         源久寺参道脇に平子重経の墓と伝える高さ1.6mの宝篋印塔がある。年号などの刻銘は
        ないが、鎌倉時代の形式がよく残るとされる。

        
         1984(昭和59)年住職が知人から株を譲り受けて植えたもので、夏には大賀ハスが大
        輪の花を咲かせて訪れる人を楽しませてくれる。
         2022年は例年ない水不足により、蓮田に水があたらずハスの花を見ることができな
        い。(2016年9月に撮影)

        
         源久寺の寺伝によると、鎌倉期の1199年に源頼朝が没したので、仁保庄の地頭・平
        子重経が当寺を創建して、その位牌を置いたという。1244(元仁元)年に重経が没し、
        当寺に葬られて法名源久寺殿西仁大禅定門と称し、以後、源久寺は三浦家(仁保家)の菩提
        寺となる。

        
         第22代・三浦元忠(1555-1596)の墓とされる宝篋印塔が墓地内にある。

              
         門前バス停(13:02)よりJR山口駅に戻る。

        
         源久寺から妙見社、玄答院を経て深野八幡宮まで約7㎞もあり、後日、車で訪れる。深
        野八幡宮は、いつ、誰が創建したかは不明であるが、昔からあった社に平子氏の分家、深
        野氏が舟山八幡宮から勧請して祭ったものであろうと伝えられている。

        
         境内にはねじれながら成長した「ねじれ杉」がある。

        
         玄答院(曹洞宗)の開創年は不明だが、弥称寺、寿光寺、法春寺、玄答院と寺号が4度変
        わっている。1577(天正5)年弥称寺再興の時に曹洞宗となり、益田景祥の菩提寺となっ
        て母の戒名から法春寺、1630(寛永7)年に景祥が没したことにより、戒名から現寺号と
        なる。

        
         本堂に上がると左手に高さ270㎝の大きな阿弥陀如来像がある。深野八幡宮の社坊、
        神宮寺に祀られていたもので、深野大仏と呼ばれている。

        
        
         仁保上郷の大畑神社(妙見宮)と仁保中郷の諏訪神社、この妙見社を仁保三古社という。
        妙見社は一説によると、595(推古天皇3)年下松の老松に星が降りかかり、占い師が「3
        年後異国より太子がくる。それを守るために天から降った」と予言し、百済の国から琳聖
        太子が上陸、妙見神社が建立されたという。
         その後、各地に勧請され、平安期の826(天長3)年仁保下郷に妙見宮が建立されたと伝
        えられる。