ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市仁保の中郷に国内唯一の国際通信所 

2022年07月12日 | 山口県山口市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         仁保中郷は仁保盆地の中心に位置し、仁保川とその支流・坂本川、石坂川流域に位置す
        る。(歩行約4.8㎞)

        
         JR新山口駅(8:20)から防長バス道の駅「仁保の郷」行き約1時間10分、KDDIバ
        ス停で下車する。

        
         たばこや果樹が栽培されていた地に、1969(昭和44)年我が国2番目となる国際通信
        所が開設される。アメリカと日本の通信は太平洋上の衛星、ヨーロッパはインド洋上の衛
        星を使って行われ、当通信所はヨーロッパとの通信を受け持っていた。現在は通信技術の
        進歩により2ヶ所あった通信所は仁保に集約されている。(見学はコロナ禍のため事前予約
        制)

        
         諏訪社はバス停の先右手に「ひらきの里」の案内があり、道なりに進むと左手の高野公
        民館敷地内に鎮座する。
         仁保の三古社の1つで、大内氏の鎮守といわれ、狩猟・農業の神である。昔は鷹野と呼
        ばれて鷹狩りが行われていたため、狩猟にまつわる諏訪社が建立されたという。

        
         仁保中郷の家並み。

        
         左手の道に入ると井開田地区。

        
         招魂社から見る井開田地区。

        
         日清戦争から日露戦争に従軍し戦死した仁保村の霊を慰めるため、日露戦争後の190
        6(明治39)年現在の大内町招魂社境内に碑が建立された。
                  1955(昭和30)年仁保・大内・小鯖の3ヶ村が合併して大内町になると、太平洋戦争
        までの戦病死者・570柱(仁保地区は202柱)を慰霊するために、全村からの寄付で、
        1959(昭和34)年に大内町招魂社が建立される。
 

        
         パラボラアンテナがデザインされたマンホール蓋。

        
         長州藩(萩藩)は藩庁となる居城を萩から山口へ移鎮したことにより、萩と山代を結ぶ山
        代街道は、萩~鹿野間が山口から仁保、徳地を経由する道に変更された。

        
         仁保川手前にあった山根自転車店も廃業。

        
         1901(明治34)年仁保中学校下に、病床数13床(収容可能人数36人)の伝染病患者
        に対応できる避(伝染病)病院が開設された。この病院は1948(昭和23)年頃まで続いた
        とされる。(現在は畑地)

        
         皇徳寺(曹洞宗)は、1872(明治5)年釈迦堂の横に廃寺となった見性院の檀家が中心と
        なって竹林寺が再興された。1880(明治13)年鹿児島の天皇家由来の皇徳寺の寺号を引
        き継いで現在に至るという。

        
         1690(元禄3)年建立の釈迦堂には、平安末期の釈迦如来像ほか二天立像、地蔵像が祀
        られている。

        
        
         皇徳寺墓地の東側から衛星通信所のアンテナ群が望める。東向きのアンテナはアメリカ、
        西を向いているのがヨーロッパで、他にインマルサット衛星を介して航空機、船舶の通信
        も行われている。

        
         1717(享保2)年の春、入会権のない他地区の農民が、何度も仁保の山野に立ち入って
        柴草を刈り取ったことから「下田のしぐれ」事件が起こった。当時、芝草は田畑の大事な
        肥料であったため、庄屋たちは藩の役所に訴えたが聞き入れてもらえず、怒った農民80
        0人余が上郷から篠目経由で藩庁へ訴え出ようとしたが、途中で役人に制止・説得されて
        訴えは収まる。
         その後、仁保の言い分が認められたが、7人の庄屋は騒ぎを起こした罪で、1718年
        下田河原で斬首された。遺骸は下田の山中に埋葬され、その威徳を偲ぶ墓標と六地蔵が建
        立された。

        
         仁保川に架かる下田橋の袂に、仁保七義民300年祭の六地蔵と、対岸に「七義民の留
        魂」碑がある。

        
         1889(明治22)年の町村制の施行により、仁保上・中・下郷村が合併して旧村名を継
        承して発足し、左手の派出所付近に仁保村役場が設置された。その後、大内町との合併を
        経て、1963(昭和38)年に山口市となる。

        
         この周辺に仁保農協本館、生活部、ガソリンスタンド、安藤医院(現存)などがあったと
        される。

        
        
         仁保井開田の谷口周辺の水田は、水量が少なく耕作するのに苦労が多かった。そこで江
        戸末期、水量の多い坂本川の水を谷口周辺に廻す工事が行われた。この偉業を後世に伝え
        るために、1926(大正15)年に溝渠(こうきょ)碑が建立される。(碑は林の中) 

        
         天神社は元井開田周辺の給領主であった国司氏が、防府天満宮から勧請したものである。
        境内には1872(明治5)年に建立された菅原道真の歌碑がある。

        
        
         信行寺(真宗)の開基は、毛利氏の家臣であった香川景邑が、牧川(仁保)に来て念仏三昧
        の生涯を送ったが、その子・玄秀が現在地に建立したのが始まりとする。

       
         1897(明治30)年8月8日午後9時半頃、隕石記念碑の西約50mの水田と信行寺
        本堂裏に隕石が落下し、近くの住民が探索して2つの隕石を発見した。1個は東京の国
        立科学博物館に収蔵されている。(1個は所在不明)

        
         大正期に建てられたという煉瓦造の蔵がある民家。

        
         東井開田地区の東端付近で県道に出合う。左手は徳地町八坂、右手は国道に合流する。

        
         衛星通信所を見ながら道の駅「仁保の郷」に戻る。 

        
         道の駅バス停(14:13)からJR新山口駅行きに乗車する。