ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下松市東豊井は海側に工場群、山側が住宅地 

2022年02月11日 | 山口県下松市

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         東豊井(ひがしとよい)は切戸川下流左岸に位置し、西は笠戸湾に面する。地名の由来につ
        いて、地下(じげ)上申は清水の湧き出る豊かな井戸があったことによるとする。(歩行約5.
        9㎞)

        
         JR下松駅は、1897(明治30)年山陽鉄道の広島ー徳山間が開通したと同時に開業す
        る。
駅舎は1965(昭和40)年現在の橋上駅となったが、県内では最初の橋上駅である。

        
         1889(明治22)年の町村制施行により、東豊井村と西豊井村の区域をもって豊井村が
        発足し、のちに下松町なるが、駅前の広島銀行東の路地が合併前の村境であったという。 

        
         新町は、1677(延宝5)年新たに造られた町だそうだ。

        
        
         新町の一本松老人集会所のある地は、かって一本松寮(寺の寮?)と呼ばれ、観音菩薩が
        祀られ市内最古の宝篋印塔があったとされる。石碑ははっきり読めないが、一本松寮を再
        建した記念碑のようである。

        
         当時の下松藩(のちの徳山藩)の御舟倉があった地とされる。

        
         鍵曲りになった地に海上の守護神、和歌の神、商売繁盛の神として崇敬されてきた住吉
        神社。

        
         さらに進むと県道徳山下松線に合わす。 

        
         県道を横断すると二宮町公園内に埴常社(はにとこしゃ)があるが、1802(享和2)年富洲
        屋が建立したとされる。1917(大正6)年久原房之介(日立製作所)が一帯を買収後、当時
        の地区の人々が現在の地に移転した際、社も移転したとされる。

        
         県道合流点に戻って直進すると弁財天社がある。祭神は下松の有力者だった小嶋家由来
        のもので、1941(昭和16)年に旧国道から移転する。常夜塔や鳥居は東洋鋼板内にあっ
        た旧磯部・矢嶋邸より移設される。

        
         弁財天社の隣には金倉寺と記されたお堂と、手前に「力石」が置かれている。

        
         下松は海軍工廠のある光市と海軍燃料廠のある徳山市に隣接し、大規模な兵器製造工場
        があったことから米軍の標的となる。1945(昭和20)年5月以降6回にわたる空襲を受
        け、2・3回目は市街地を焼失するなど甚大な被害をもたらした。

        
         大谷川に架かる橋の親柱。

        
         東洋鋼板の敷地内に、1709(宝永6)年「富洲屋」の初代磯部好助が建てた別荘と、邸
        の東に広大な塩田があったという。大谷川と県道笠戸島公園線に挟まれた一角にある老松
        が邸の残りを留める。

        
         右手に日立製作所を見て右折すると、今でも引込線がある。

        
         次の線路は山陽本線で中豊井踏切を横断する。

        
         豊井小学校前を右折すると、学校先に大地之森(おおじのもり)と呼ばれる森がある。石祠
        とお堂が祀られ、祠を取り囲むように下松市保存樹のムクノキ、エノキの巨木がある。

        
         さらに東へ向かうと国道高架を潜る。

        
         慶雲寺(曹洞宗)

        
         東端にある摂社・降松神社は、もと宮ノ洲山にあった小社で、明治期に摂社となった後、
        久原房之助の用地買収により、恋ヶ浜にあった荒神社を合祀してこの地に移転したとされ
        る。摂社とは本社に付属し、その祭神と深い神を祀った神社のことらしい。

        
         境内には宮洲屋関連の狛犬や灯籠が現存し、手水鉢には「筑州柳川領廻船中」と刻まれ
        ている。

        
         亀甲模様に市章と「汚水」が入った下松市のマンホール蓋。 

        
         豊井小学校裏に疫神を祀る八坂神社の由緒等は不明。

        
        
         妙法寺(曹洞宗)の沿革によると、1854(嘉永7)年11月の南海地方の大地震で山門を
        残して全焼し、昭和期にも大火に見舞われて詳細な古文書を失ったが、室町期の1553
        (天文22)年が開創とされている。
         山門は2度の大火を免れたが、老朽化のため昭和期に同型に改修された。

        
         土地勘がないため地図を頼りに駅方面へ向かうが、予定とは違う道を歩いてしまう。

        
         右手の西教寺(真宗)は、1941(昭和16)年駅前の道路拡張に伴い、当地に移転してき
        たという。

        
        
         先祖伝承をまとめた「大内多々良譜牒」によると、推古天皇の頃、青柳浦に星が降って
        きて、松の木の上に留まって七日七晩輝き「異国から太子がこの地にやってくる。太子を
        護るため降ってきた」というお告げがあったことに始まり、3年後に百済の琳聖太子が来
        朝したため、人々は降臨の松・連理の松・相生の三樹が鼎の形をしているので鼎(かなえ)
        松と呼んで松の木を崇めたという。(現在の松は5代目) 

        
         鼎大明神を祀る金輪神社。下松の地名は「星が降った」が「降り松」となり、下松にな
        ったといわれるが他説もあり。

        
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