ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

日出は別府湾を見下ろす小さな城下町 (日出町)

2017年11月19日 | 大分県

          
        この地図は国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平29情複第968号)
         日出(ひじ)は大分県の中部、国東半島の南端部に位置するが難読な地名である。1889
        (明治22)年の町村制施行により、日出(ひじ)村は町制に移行する。その後、1954(昭和
          29)
年に豊岡町、藤原村など4町村と合併し、新たな日出町となり今日に至っている。(歩
        行約5㎞)

          
         1987(昭和62)年4月に国鉄分割民営化されたが、暘谷駅は国鉄時代の同年3月に開
        業する。2016(平成28)年には約100m東側へ移動して新駅舎が完成する。

          
         左手は大手門通りであるが直進する。

          
         致道館(ちどうかん)は、1858(安政5)年に15代藩主・木下俊程の命により、二の丸に
        創立された藩校である。明治の廃藩により閉校し、1951年(昭和26)年に日出中学校の
        開設に伴ない現在地へ移転した。

          
         建っているのは講堂(主屋)部分で、8歳以上の子弟が読書、習礼などを学んだ。致道館
        前が旧木下家居所だったようで白壁通りとなっている。

          
         海の石を利用した塀も現存する。

          
         穏やかな別府湾を臨みながら遊歩道へ下る。

          
         城下(しろした)海岸から豊岡島山まで約2.5㎞の遊歩道。

          
  
         城側西南部の地盤は軟弱で難工事であったことや、方位上から城の裏鬼門にあたること
        などから人柱を立てたのではないかと考えられている。棺が出土した地点の石上に人柱祠
        が祀られている。 

          
         暘谷稲荷前から城址への道。

          
         天守閣跡より別府湾。

          
         暘谷城の時鐘は、1695(元禄8)年に3代藩主・木下俊長が鋳造させた釣鐘である。1
        874(明治7)年に外大手門(現在の日出町役場前)より裏門櫓の跡地に移された。

          
         裏門櫓から石垣に沿って遊歩道が設けられている。

          
         日出城は、1601(慶長6)年初代藩主の木下延俊が姫路から移封入国後、築城に取りか
        かり翌年に完成する。三層の天守閣は別府湾に臨む一角に築かれ、大規模ではなかったが
        調和のとれた美しい城だったといわれている。

          
         城の石垣は近江国穴太(あのう)の石工集団によって築かれたとされている。3代藩主・木
        下俊長が中国古書より引用した暘谷城という別名もある。

          
         日出漁港前の集落。

          
         蓮華寺(高野山真言宗)は、浮津密乗院(うきつみつじょういん)と名乗り、大神氏の菩提寺だ
        ったといわれている。1603(慶長8)年に藩主・木下延俊が、日出城鬼門鎮護のため現在
        地に移し、日出藩の祈祷所として蓮華寺に改名した。

          
         若宮八幡神社の神殿正面に建つ二層の楼門は、1703(元禄16)年に藩主・木下俊長が
        寄進したものである。

          
         左手の社殿は金比羅宮。

          
          
         鏝絵は厄除けや家内安全、子孫繁栄の意味を込めて「えびす」「大黒」「鶴」など縁起
        のよいものが多い。上の「恵比寿と鯛」は傷みがあり、下は修復されたようで波をウサギ
        が飛んで行く様が描かれている。

          
         的山荘(てきざんそう)は、1915(大正4)年に馬上金山を経営していた成清博愛(ひろえ)
         
が、別荘として建てた数奇屋風の建物と庭園である。

          
         総工費は25万円(現在の価値でおよそ7~8億円)と記録されている。

          
         別府湾を一望する広大な敷地に、近代和風建築の粋を凝らした豪華な家屋と、別府湾や
        高崎山を借景とした見事な庭園が広がる。(国重要文化財)

           
         鞍馬から取り寄せたという靴脱ぎ石は、表面が暗赤褐色に錆びている。茶道の侘び寂び
        の世界に欠かせないとされている。

          
         旧二の丸の街並み。左手が料亭「的山荘」

          
         現在の日出幼稚園は瀧家住居跡(二十番屋敷)で、瀧廉太郎の父・吉弘の生家である。

          
         二の丸日出中学校校庭にある大サザンカは、樹齢400年以上で町花・花木とのこと。

          
         城があった当時のままの道だそうだ。

          
         日出小学校前に深い堀が残されている。

          
         二の丸館(にのまるやかた)日出城址周辺の観光拠点として、2010(平成22)年に完成
        する。

          
         大手門通り。

          
         本丸の北東側に位置していた鬼門櫓は、櫓の北東隅を欠いた特異な構造である。これは
        鬼門の隅を無くしてしまうことで、鬼門の方角から禍が侵入するのを封じ込めるために施
        されたものと考えられる。日出城に建っていた頃は下の石垣まで隅を欠いていたといわれ
        ている。

          
         瀧家は日出藩の家老職を代々務めた上級武士であった。瀧廉太郎(1879-1903)は肺結核の
                ため、1903(明治36)年6月29日に大分市の自宅で死去する。当初、大分市の万寿寺
                に葬られたが、2011(平成23)年に先祖が眠る龍泉寺に移された。

          
         帆足萬里は三浦梅園、廣瀬淡窓とともに、「豊後三賢」の一人に列せられる日出町出身
        の高名な学者である。学問だけでなく、時に日出藩家老として藩政の改革に尽力した偉人
        でもあった。萬里の墓は松屋寺裏手の丘の上にある。

          
         丘から見る日出の街並み。

          
          
         松屋(しょうおく)寺は前身を西明寺といい、日出藩初代藩主・木下延俊が1607(慶長1
          2)
年に、祖母の朝日の方(豊臣秀吉の正室・高台院の母)と、妻の加賀の法名から「康徳山
        松屋寺」と改称する。

          
          
         樹齢約700年といわれる大蘇鉄。高さ6.1m、株元の周囲6.4mもの大きさを誇って
        いる。

          
         藩祖・木下延俊は豊臣秀吉の正室・高台院(北政所、ねね)の兄である木下家定の子であ
        る(秀吉からみると義理の甥にあたる)もともとは杉原家を名乗っていたが、高台院の実
        家にあたることから、血縁の少なかった秀吉に重用され、豊臣姓である木下氏を名乗るよ
        うになった。関ヶ原の戦い(1600年)のとき、東軍で活躍した功績により、徳川家康に
        より豊後国・日出3万石に封じられて日出藩を開く。

          
         父の木下家定も備中国(岡山県)足守藩2万5千石を封じられる。江戸時代に260の大
        名家があったが、豊臣家につながりを持った大名は足守藩木下家と日出藩木下家の2家の
        みである。  

         松屋寺から暘谷駅に戻る。      
   


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