ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

別府は古くからの温泉街の町

2017年11月20日 | 大分県

          
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 平29情複第968号)
         別府は大分県の東部に位置し、西に鶴見岳・扇山、東は別府湾に囲まれた扇状地と沖積
        平野か
らなる。別府山の手地区は別府温泉中心街(JR別府駅周辺)より西側の地区で、戦
        災に遭わなかった別府には、明治、大正、昭和から続く温泉や建築物等が残っている。古
        くから別荘地として開発され、「九州の軽井沢」とも呼ばれていた所である。(歩行約7㎞)

          
         1911(明治44)年に開業したJR別府駅。

          
         JR別府駅前のビル所有者が「駅前なんだからいい風景をつくりたい」と、ダメモトで
        岡本太郎氏に頼んだら実現したレリーフである。(岡本氏にとって別府は両親が治療のた
        め通った思い出のある場所であった)
         作品の大きさに合わせて、鉄骨でビルの高さを継ぎ足したとされる。

          
         田の湯温泉の創設は江戸時代と伝えられ、温泉の名のとおり、田んぼの中にあり、畦道
        を通って利用していたため「畦なしの湯」とも呼ばれていた。その後、田の湯温泉と呼ば
        れるようになったが、素朴さの残る市営の温泉である。(入浴
料100円)

          
         明治から大正にかけて松永万八の別荘として建てた洋風木造三階建ての建物は、民宿・
        田の湯館として使用されてきたが、2009(平成21)年の夏に取り壊しとなったとか。

          
         公会堂の駐車場一角に、1982(昭和57)年に移築された土蔵造り木造2階建ての古
        風な建物がある。
         井上馨が山口市湯田で俗論派(恭順派)の刺客に襲われ重傷を負う。その翌年の1865
        (慶応元)年に別府へ逃れ、身を隠した旅籠若彦(のちの若松屋)の離れである。47年後の1
        911(明治44)年に同所を訪れ、謝恩の意をこめて「千辛萬苦之場」という扁額を贈る。

          
         別府市公会堂(旧別府市中央公民館。市民会館)は、1928(昭和3)年に当時の著名な建
        築家の吉田鉄郎が、ノーベル賞の記念晩さん会が開かれるスウェーデンのストックホルム
        市庁舎にヒントを得て設計したという。彼が渡欧したのは、公会堂竣工の3年後のことで
        ある。

          
         白い壁にアールデコ調の曲線が美しい廊下。

               
           
          星月夜をデザインしたステンドグラスも健在。

         
       
  大正時代から昭和初期にかけての歌人・柳原白蓮は、京都の伯爵家に生まれた。16歳
        にして養女先の子息と結婚させられるが、すぐに離別する。27歳の時に筑豊の炭鉱王・
        伊藤伝右衛門と再婚し、別府の赤銅(あかがね)御殿と呼ばれた別荘での生活が始まる。その
        後の青年社会運動家・宮崎龍介との恋話は有名である。
         赤銅御殿跡の公園には、「和田津海の 沖に火燃ゆる 火の国に 我あり誰そや 思は
        れ人は」と、白蓮が情熱を込めて詠んだ詩碑がひっそりと立っている。

          
         赤胴御殿敷地面積は10,700㎡、建築面積936㎡であったという。1914(大正
          3)
年に伊藤伝右衛門が起工し、2年後に竣工する。戦中は海軍省、戦後は占領軍の宿舎に
        接収され、1954(昭和29)年にホテル赤胴御殿として開業するが、1979(昭和54)
        に解体される。(写真は別府市の復元調査による鳥瞰図)

          
          
         聴潮閣(ちょうちょうかく)は、1929(昭和4)年に当時の大分県における政財界の第一人
        者だった高橋欽哉が住居兼迎賓館として建てたものである。大正から昭和にかけて流行し
        た和洋を取り入れた近代和風建築である。残念ながら昨年末で閉館して内部を見ることは
        できない。

          
         野口原五輪塔群は、別府市野口原で土石流の中に埋もれていたものが発掘されて、現在
        地の公園に移転して復元される。年代は鎌倉~室町時代にかけてのものと推定され、この
        1基から火葬の人骨も発見されている。

          
         1922(大正11)年に北九州の炭鉱王と呼ばれた佐藤慶太郎の寄付を受け、野口雄三郎
        が野口病院を設立する。2013(平成25)年に青山町の地へ新築移転する。

          
          
         別府観光の父・油屋熊八は、亀の井旅館(現在の別府亀の井ホテル)・亀の井バスを設立し
        て、日本初の女性バスガイドによる案内付の定期観光バス運行を始める。
         今では公費による観光地の売り出しは当たり前であるが、別府温泉の宣伝は熊八の私財
        と借財でまかなわれた。熊八没後、バス会社、旅館は借金の返済のため売り払われた。今
        でも彼が残した功績は数多く、湯の町別府を支えている。

          
         京都大学地球地熱研究所の本館は、1923(大正12)年に建築された赤煉瓦造の施設で
        ある。玄関と塔屋を中心に左右対称に振り分けられ、煉瓦の赤と石貼りの白との対照や、
        イオニア式を模した柱頭飾りを持つ特徴的な外観で、気品ある建物となっている。

               
         グローバルタワーは高さ125mで、突き出した形の展望デッキから別府を一望するこ
        とができる。展望デッキはワイヤーを張っているだけで天井がない。
         このため、このタワーは建造物でなく構築物だとか。デッキから旧中山別荘が見えてい
        たが、2006(平成18)年に取り壊され、跡地は複合施設となっている。

          
         別府を代表する三大別荘といわれた赤胴御殿、中山別荘および麻生別荘があったが、2
        006(平成18)年に麻生別荘も解体され、三大別荘の姿を見ることはできない。

          
          
         グローバルタワーが天空に向かって大きく弧を描く部分は、別府公園中央部の標高0m
        地点を中心として、直径1kmの巨大な仮想球の一部をなす曲面を想定しているという。

          
         別府市社会福祉協議会の鏝絵は、どこから移設されたのか不明とのこと。

          
          
         旧野口病院は大正ロマンあふれる洋風建築で、四角錐の尖塔屋根の玄関部分を中心軸に、
        左右対称の均整のとれた外観である。

          
         駅前高等温泉は、1924(大正13)年に建てられた英国の民家風建物である。白壁に緑
        色のトンガリ屋根で、大正浪漫をまとった温泉である。

          
         別府ブルーバード劇場は、1949(昭和24)年に中村弁助さんが開館する。現在は岡村
        照さんが、1971(昭和46)年に父から引き継いで続けられている。

          
         もう1つの映画館は趣が違うようだ。

          
         ホットストリートやよいのアーケード街を歩く。

          
         溝口青果の四差路を左折して竹瓦温泉通りに入る。

          
         1879(明治12)年創設の竹瓦温泉は、当初に建築されたものは屋根が竹葺きの浴場
        で、その後、改築されて瓦葺きになったため、竹瓦温泉の名称がついたと伝える。
         現在の建物は、1938(昭和13)年に建築されたもので、正面に唐破風造の豪華な屋根
        をもつ温泉となっており、別府温泉のシンボル的な存在になっている。

          
          
         入り母屋造の裳階付きや寄棟造といった変化を見せ、瓦屋根の美しさを持つ社寺風建築
        である。

          
         竹瓦温泉を訪れる人が雨に濡れないようにと、1921(大正10)年に完成した現存する
        日本最古の木造アーケードである。日が暮れると竹細工の照明が灯り、幻想的な雰囲気に
        なる。2009(平成21)年に別府温泉関連遺産として、近代化産業遺産に認定された。

          
         中浜地蔵尊は約1500年前に、百済帰りの僧・日羅法師が作った歴史ある地蔵尊で、        
        水害を鎮める神様として大切にされている。

        
          
         別府市児童館(旧別府電報電話局電話分室)は、1928(昭和3)年に建築されたもので、
        鉄筋コンクリート造煉瓦タイル貼でコの字型の建物である。全体に装飾的要素を極力抑え
        たシンプルな構成になっている。

               
         別府カトリック教会は、1950(昭和25)年にフランス・ルルドーの教会を模して、
        世界中の人々の寄付で造られた。左右対称型で窓や出入口の上に尖頭アーチを用い、鐘
        塔の4つの鐘が、1日3回ドレミソの音階で市民に時を告げている。      
 


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