ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

光市島田と束荷に難波覃庵と伊藤博文の旧宅 

2020年02月02日 | 山口県光市

        
            この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         立野は島田川中流域の東部に位置する山間の地である。地名の由来を風土注進案は、「
        古ハ楯野と書記仕候由、当村之産土神今山宮の祭神楯野媛命之由縁ヨリ唱来候」
という。
         束荷(つかり)は盆地で中央を島田川の支流である束荷川が西流、流域に集落が点在する。
        地名の由来について「稲の荷を束ねる所」とあるが、信ぴょう性は薄いという。(歩行

        6.8㎞)

        
         1897(明治30)年に開業したJR島田駅は、静岡県の東海道本線に島田駅があるが、
        漢字は同じでも呼び名が違うようで、静岡は「しまだえき」、山口は「しまたえき」だそ
        うだ。

        
         駅前には「あの旅 この旅 想いでの旅 人生 いつまでも 楽し」とある。

        
         永明寺先で右折して道なりに進み、山田公会堂前を左折する。

         
         坂を上がると左手に正義霊社がある。

        
         正義霊社は萩藩寄組で立野村給領主であった清水家の氏神である。社伝によると寛永年
        間(1624-43)清水景治(宗治の嫡子)が、備中国清水村にあった同家の氏神(稲荷神社)を分霊
        し、宗治の神霊を合祀したのに始まるという。
         また、禁門の変後に藩内の政争に敗れ、切腹した清水親知(清太郎)も神霊として合祀さ
        れている。

        
         清水宗治は、1582(天正10)年羽柴秀吉の備中高松城水攻めで、自らの命と引き換
        えに城兵を助命させた武将である。6月6日に水上の舟にて自刃し、弟の難波宗忠(伝兵
        衛)らは城内で自刃する。

       
         参道中腹左手には幕末期の幕長戦争では第二奇兵隊総督で、親知の養父であった清水親
        春(ちかはる)の墓がある。

       
         ウオーキング中の方にお聞きすると、正義霊社南側が島田と立野の境界で、この一帯が
        立野とのこと。(ゴルフ練習場と老健施設)

        
        立野の宮河内地区に入る。

        
        立野神社は閑吟山(かんざんざん)の麓に鎮座し、古くに糘塚(すくもづか)・今山両社権現と
        し、立野村の氏神として崇敬されてきた。1871(明治4)年に現社号となった。

        
         寺社由来によると、今山権現は往古に熊野から勧請し、糘塚権現は立野村給領主・清水
        就信が、1650(慶安3)年に備中高松城の鎮守を勧請して2社が連立していたが、168
        8(元禄元)年火災で焼失し再建されたが1社となった。

        

         この集落も空家が目立つ。

        
         宮河内自治会館と児童公園の地には立野小学校があった。1874(明治7)年に創立され
        たが、1965(昭和40)年に廃校となる。(車の場合、会館に駐車可能)

        
         束荷川に架かる橋は老朽化で車両通行禁止となっている。

        
         橋の西詰には幕末期に多くの事績を残した難波覃庵(たんあん)顕彰碑がある。1905(明
          治38)年孫の難波作之進が郷土の有志と建てたもので、篆額は当時枢密院議長の伊藤博文、
               撰文は楫取素彦、筆は当時日本書道界の第一人者高島張輔(萩市出身・日本画家の高島北
         海の
兄)である。

        

         束荷川沿いにある旧難波家には四脚門が残る。難波周政(かねまさ)は備中高松城
       に籠城し、城主清水宗治の自決に際し、殉死した伝兵衛から11代目にあたる。   
        覃庵という名は南画家になってからのことである。

       
        覃庵の20~30代は国内外において、国の存亡にかかわる非常時に遭遇していた。奇
        兵隊など諸隊が各地に結成されると、清水家家臣団も地域の青壮年による「慕義隊」を結
        成するが、新兵法に対処できる武器は乏しかった。


             
        覃庵48歳の時、私費を投じて樟脳(無煙火薬の製造原料)製造工場を設立するなど殖産
        にも力を尽くす。財政ひっ迫の折は自領の田畑などを売却して主家の軍資金を捻出する。


       
        1862(文久2)年には主君の命を受けて、私塾「養義場」を自邸に創設して国家の急務
        に備えた。世子清水親知(ちかとも)の切腹後、親知の蔵書を加え、法名「仁沢院殿向山義雄」
        に因んで「向山(こうざん)文庫」と名付けた。


       
        1871(明治4)年に覃庵は一線から退き、余生は南画家として過ごす。1883(明治
          16)
年には邸宅内に土蔵1棟を建てて、三條実美筆の「向山文庫」の額と、毛利元昭の額
        を掲げ、室内に旧主親知の霊を祀り、孔子廟を設けたが5年後に他界する。

        
         1923(大正12)年12月27日に覃庵の曾孫・難波大輔(26歳)は、皇太子(昭和天
        皇)の暗殺未遂、いわゆる「虎ノ門事件」を起こす。事件により山本権兵衛内閣は総辞職し、
        難波家は絶家、大助は刑死、衆議院議員だった父・作之進は絶食のすえ他界する。「革命
        万歳!」と叫ぶ大助が皇太子に向けたスッテキ銃は、伊藤博文の洋行土産であったともい
        われている。

        
         この先、束荷川に沿って旧束荷村に入る。

        
         県道23号線(光上関線)を横断し、県道159号線(束荷一の瀬線)を北上すると野尻集
        落。

        
         伊藤公記念公園に入ると正面に旧伊藤博文邸(無料)、左手に資料館(有料)がある。

        
         当時、伊藤家の生家はすでになく、実家である林家の300年祭(伊藤公の遠祖・林淡
        路守通起の没後300年)に、林一族及び伊藤家を集める場所がないため、この建物が計
        画されたのである。

        
         邸宅前には完成を見ることができなかったため、旧邸を見守ってもらうためと像が建立
        されている。玄関ポーチは吹き寄せ柱を用いた半切妻造りの屋根。(当初は切妻造り)

        
         ホールの左右は洋間となっている。設計は自らが基本設計を行い、下関の地元業者清水
        組が施工した。1910(明治43)年3月に着工して翌年の4月に完成、総工事費2万1千
        余円である。

        
         棟札などが置かれている展示室(2)

        
         左手洋間の奥に和式便所。

        
         中央にある階段親柱には、伊藤家の家紋フジの装飾が施されている。

        
         2階の間取り。

        
         半円形の小部屋が設けられている洋間。

        
         洋間にある椅子には菊の紋が施されている。

        
        
         天井の空気孔にも意匠が凝らされている。

        
         木造モルタルの2階建て寄棟造り、桟敷瓦葺きで延べ280㎡の洋風建物である。洋風
        とはいうものの2階は8畳と6畳の和室を設け、床の間、欄間には月(左)と雁(右)があし
        らわれている。

        
         和室には広縁が設けられ解放感ある造りとなっている。

        
         1991(平成3)年が伊藤博文生誕150年にあたることから、木造茅葺平屋建の生家が
        復元される。

        
         伊藤博文(1841-1909)は林十蔵・コト(琴子)の長男として、この地で生まれた。父は金銭
        トラブルを幾度か起こしたためこの地に居られなくなり、妻と利助(博文の幼名)を妻の実
        家である秋山家に預け、萩城下に出て行く。利助5歳の時である。

        
         中間(ちゅうげん)の伊藤直右衛門に拾われた十蔵は、妻子を萩に呼び寄せ、一緒に暮らし
        始めた。利助9歳の時で人生を大きく変えることになる。1854(安政元)年に家族ともど
        も伊藤家の養子となり、下級武士の身分となる。(生家の裏側にある井戸は産湯の井戸とさ
        れる)

        
         この地には、1919(大正8)年に伊藤博文を祭神とする伊藤神社があった。老朽化に伴
        い1959(昭和34)年に束荷神社と合祀され、社跡には座像が設置された。台座には「人
        は誠実でなくては何事も成就しない。誠実とは自分が従事している仕事に対して親切なこ
        とである」とあるが‥?。

        
         1909(明治42)年満州視察の直前、帰国するまでに完成させるように指示して大陸に        
        渡る。視察途中の同年10月ハルピンの駅頭で安重根の銃弾に倒れ、故郷に戻ることなく
        その生涯を終えた。

        
         奥の建物は初代内閣総理大臣・伊藤博文の遺品等が展示されている資料館。

        
         伊藤記念公園前から光市営バスに乗車すれば、山陽本線・岩田駅に出ることができる。
        便数は6便のうち3便は、11:42、14:01、16:25であり、駅まで17分程度の所要時間で
        ある。

        
         バスの乗車時間には余裕があったので、束荷村の中心地だった新市まで歩を進める。交
        差点から束荷小学校方向へ行くと、右手に三隅塾跡の碑がある。伊藤博文が幼少期の18
        49(嘉永2)年に学んだ寺小屋で、実際の所在地はこの地より南東の方向、約70m先の町
        中にあったとのこと。

        
         1889(明治22)年の町村制施行時に、近世以来の束荷村が単独で自治体を形成する。
        1943(昭和18)年に4村(束荷、塩田、三輪、岩田)が合併して大和村が発足するまで、
        この地に村役場が置かれた。現在は駐車地として利用されているが、片隅に当時の塀が残
        されている。

        
         旧束荷郵便局舎だったと思われる建物がある。玄関ポーチ、屋根、窓に意匠が見られる。

        
         伊藤邸とアジサイがデザインされた旧大和町のマンホール蓋。

        
         新市の静かな町並みを見て、14時8分にコミュニティーセンター前バス停から市営ス
        でJR岩田駅に出る。

        
         日曜日のためか5つのバス停に乗降客もなく駅に到着する。

        
         1899(明治32)年開通していた山陽鉄道に新たに岩田駅が新設される。同じ呼び名で
        静岡県に磐田駅があるが、こちらは島田駅と違って呼び名は同じだが漢字が違う駅である。


この記事についてブログを書く
« 山口市秋穂の秋穂浦 <大内時... | トップ | 光市浅江は駅周辺と虹ヶ浜海岸 »