ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

防府市下右田の右田毛利家と旧石州街道界隈

2022年12月07日 | 山口県防府市

                                      この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         右田(みぎた)は佐波川下流の
右岸、右田ヶ岳東麓及び南麓に位置する。
         地名の由来は、佐波川の右岸の広大な耕地という意で右田になったとか、また、周防灘
        の北にあたる場所だから「海北(うみきた)」といったが、これがつまって「みきた=みぎた」
        という説もある。(歩行約6km、🚻天徳寺参道) 

        
         JR防府駅からJRバス山口大学行き10分、右田バス停で下車する。 

        
         バス停から山口方面へ向かい、信号機のある四差路を右折して道なりに進む。国道から
        信号機手前の道は近年に新設されたもので、もとはT字路で左右が萩往還道、新幹線の見
        える側が石州街道である。

        
         疫神社については詳細不明。 

        
         石州街道は右田市で萩往還道に分かれて、佐波川右岸沿いを堀に至ったのち、八坂、柚
        野を通って徳佐に行く道(石州道)と、堀から島地川に沿って鹿野に至る道(鹿野道)があっ
        た。

        
         「右岳山荘」と銘打った所から右田ヶ岳の峰が見られるが、鎌倉期から戦国期にかけて
        右田氏が築いた山城があった。頂上は東・中・西の3つに峰が分かれており、城があった
        のは西峰とされる。

        
         もとは妙見宮が祀られており、1871(明治4)年以降は天御中主神社といわれていたが、
        熊野神社に合祀されて跡地が熊野神社例大祭のお旅所となる。
         入口左手の石碑には妙見社が廃止されたことが記され、右手の幸神塚は、文化12年(18
        15)乙亥秋8月とある。

        
         右田小学校脇が天徳寺の参道で、石船山(せきせんざん)を背景に山門と大イチョウの木。
        イチョウは時期が遅かったので落葉を済ませていた。


        
         1192(建久3)年源頼朝が鎌倉幕府を開いた際、全国66ヶ国にそれぞれ一宇を建立し
        たといわれ、周防国ではこの地に創建し、記念樹として境内にイチョウを植えたと伝えら
        れている。
         往昔、寺号を総受寺と称したが、1625(寛永2)年毛利元俱(もととも)が右田に移ると、
        この寺を菩提寺と定め、父・元政の法名から天徳寺と改める。

        
         1870(明治3)年の脱退騒動で寺は兵火にかかり全焼したが、イチョウは兵火にも耐え、
        今なお高く聳えている。その根元には頼朝塚と称される五輪塔がある。 

        
        
        
         案内に従い寺右側の道を進むと右田毛利家の墓所がある。上段に元政の霊廟、下段に歴
        代領主や奥方の墓が整然と並ぶが、誰の墓なのかはわからない。

        
         右田小学校を左手に巻きながら旧道に入ると、家々は更新されているが農村集落にみら
        れる広い庭を有する家が多い。

        
         波川の鮎と右田ヶ岳、国天然記念物のエヒメアヤメがデザインされた防府市のマンホー
        ル蓋。

        
         右田毛利家の家老職を務めた桂家の庭は、「月の桂の庭」と呼ばれているが、1712
        (正徳2)年4代目が新居を建てた際に、築庭も行われたと伝わる。庭園の名は旧暦11月2
        3日の夜半に「月待ちの行事」が行われたことに由来しているという。毎年11月上旬の
        2日間だけ公開されていたが、2021年以降は公開中止となっている。

        
         三差路の角にある石柱は、一里塚跡の碑で「従鹿野郷川是迄9里(35.34㎞)・従右田
        市是迄8丁(0.87㎞)」と刻まれている。隣の宮灯籠は熊野神社に参拝する道筋の灯籠で、
        奉献と彫り込んである。
  
        
         三差路は左道を進む。

        
         地蔵尊の傍にある宮灯籠は、山手にある大岩八幡宮の灯籠とされる。

        
         士分の家は181軒あったといわれ、本藩の殿様の家来は「諸士」と呼ばれたが、右田
        のような給領主は「旦那様」、家臣は「陪臣」と呼ばれた。

        
         右田ヶ岳の塚原登山口には立派な石段があり、左手に墓地を過ごすと広い平坦地に出る。
        1868(明治元)年に廃寺となった曹洞宗の海宝寺があった地のようだ。

        
         毛利元俱(もととも)は、1628(寛永5)年郷校「時観園(じかんえん)」を創設。場所ははっ
        きりしないが、熊野神社参道北側から右田毛利邸との間とされている。
         その後、博文堂、脩来院と改称され、1846(弘化3)年校舎を迫山に移して学文堂と改
        め、大楽源太郎、青木周蔵、今川岳南など優秀な人材を輩出した。あった場所は、「迫の
        石垣の上の畑あたりらしく、石垣の下の田は馬場であった」というが、この石組みと土塀
        のある敷地が、移転後の郷校だったのかは分からず終いとなる。

        
         徳性寺(浄土宗)は、1536(天文5)年の創建とされ、初めは西雲寺と称していた。毛利
        元俱が右田に入った翌年の1626(寛永3)年、奥方・松崎の方が亡くなり、その菩提寺と
        して再建された。寺号は元俱の父・元政の法号「天徳性真大居士(こじ)」の中の2文字をと
        ったものである。

        
         寺裏には右田毛利初代の元俱の墓があり、寺を背に左手より就任母、元俱娘、元俱、元
        俱室、元俱生母の墓が並ぶ。
         ちなみに右田毛利邸から太平寺の前を通り、熊野神社の参道をよぎって徳性寺へ通じる
        小径は「念仏道」ともいわれていた。

        
         水子地蔵らしい飾付けがされている。

        
         熊野神社参道脇にキリスト教信者の遺物と考えられる灯籠がある。竿石の上部がくびれ
        て十字架を思わせる形をしており、その下にマリアを連想させる人物像が彫られている。
        宝珠、笠、火袋、中台が失われており、現在のものは後から補ったものとされる。 

        
         熊野神社の由緒によると、南北朝期の1391(明徳2)年大内氏の命を受け、野上修理亮
        が紀州熊野より勧請して創建したという。
         昔は熊野権現宮といい、地元の人は権現様と呼んで親しんできたお宮であるが、186
        8(明治元)年に現社号となる。

                
         分かれて延びた2本の樹が合体したように見えるクロガネモチは、縁結びの御神木とし
        て祀られている。

        
         太平寺(曹洞宗)は、1577(天正5)年現在の防府市小野に創建されたと伝えられるが、
        寛永年間(1624-1644)に毛利元俱が現在の地に移し、祖父にあたる毛利元就の牌所(位牌を
        祀る寺)とした。 


        
         1950(昭和25)年太平寺の住職が、寺の一部を利用して上右田保育園を開園、200
        2(平成14)年の閉園までの卒園生は824名と記す。 

        
         参道を下ると「この上に一畑やくしあり」とあったが、本堂と幼稚園跡、墓地は確認で
        きたが見落としたようだ。

        
         付近にお住いの女性にお聞きすると、この付近に「お田屋」と呼ばれた右田毛利家の屋
        敷があったようだが、今は何も残されていないとのこと。 
        
                
         県道に出ると「右田毛利邸前バス停」というのがある。どうも正面の山裾に北の山を背
        に、南に面して屋敷が設けられていたようだ。右田毛利氏は萩に大きな屋敷があり、右田
        には「御田屋」と呼ばれた別邸があったが、のちに右田の屋敷が本宅と定められた。 

        
         この地は滝鶴台(たきかくだい)の妻・世良竹の生誕地で頌徳碑が建立されている。19歳
        で滝の夫人となるが、1797(寛政9)年に77歳で死去し、夫ともに萩市亨徳寺に葬られ
        ている。
         鶴台は右田毛利の郷校「時観園」で28年間子弟を教育し、1761(宝暦11)年萩藩主
        ・毛利重就(しげたか)の招へいに応じて萩に居を移す。

        
         「良い心が起きた時は白い毬を巻きそえ、良くない心が起きた時は赤い毬を巻きそえて、
        白い毬が大きくなるよう心かけていたという。」という話は、戦前の尋常小学校修身の教
        科書に「よい習慣をつくれ」と題して掲載されていたという。

        
         県道筋に引き返し、薬師前バス停より防長バス防府駅行きに乗車して駅に戻る。(バス停
        は木材工場前) 


この記事についてブログを書く
« 防府市の勝坂峠から萩往還道... | トップ | 防府市の華城から新橋までの... »