この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
仁井令・伊佐江は佐波川河口の左岸に位置し、防府平野の中央にある桑山の西および南
に位置する。
1889(明治22)年町村制の施行により、仁井令村、伊佐江村、植松村の3村が合併す
る際、県への申請は「華西村」であったが、地形から自然の城ということで「華城」が村
名となる。(歩行約8.3㎞)
JR防府駅からJRバス山口大学行き約8分、新橋バス停で下車する。
中関に至る道は山陽道から分かれて光宗寺縄手を経て、赤石から中関に達する道があっ
たが、道幅が4尺(1.21m)で右折左折の小道であった。1875(明治8)年と1881
(明治14)年に囚人を使って赤石より光宗寺前と、寺前から宮市市尻まで道幅1間(1.82
m)の道が完成する。当時は山陽鉄道が開通していなかったので中関港と三田尻港は重要
な港であったようだ。
その後、新橋の国道(旧山陽道)から中関間の道路改修が行われて直線道路となり、旧国
道との分岐には「中之関港道、明治廿二秊(年)五月 建」の石碑が建てられた。
新橋郵便局前が旧山陽道。旧山陽道は、1874(明治7)年頃までは大体そのままであっ
たようだが、1875(明治8)年佐波川に新橋が架けられ、翌年から山陽道は国道と名称変
更し、新橋を通って佐波川右岸に付け替えられた。(青色)
その後、国道の重要性と貨物輸送の大幅な増により、新橋を通らない新路線ができたの
は、1946(昭和21)年のことである。(赤色が中関港道、橙色は1875年までの山陽道)
防石鉄道の線路跡を横断するが、明治から大正にかけて鉄道建設ブームが起こり、19
19(大正8)年7月5日に三田尻~和字間、翌年に和字~堀間が開業する。
しかし、営業成績は延びず、堀以北は着工することができず、海岸線への延長計画(防府
~中関)も頓挫し、1964(昭和39)年7月1日に鉄道事業は廃止されてバス事業に転換さ
れた。
玉祖宮の常夜灯。
昭和の初め頃まで防府平野に「角屋(つのや)造り」の民家が数多く見られたそうだが、こ
の中関港道筋では見ることができなかった。「角屋造り」は本棟より背戸側に2つの小屋
根が突き出た「コの字型」の民家である。(2022年撮影)
直線道を進むと旧国道筋に出るが、この付近は足を止めるようなものはない。
山陽本線の高架下を潜ると、車ではお目にかかれない石仏がある。
辻に立つ地蔵尊は、三界萬霊とあるが建立年代はわからない。
四辻を直進すると森のような中にある大きな屋敷は、仁井令・西佐波令の庄屋を務めた
吉武家である。建築年代ははっきりしないようだが、約363坪(1197.9㎡)の広い敷地に
昔のままの姿をとどめる。南側に格子戸を引く長屋門があるが、無住なのか崩落の途にあ
る。(22年12月以降に消滅)
八幡宮常夜灯は現在の地よりもやや北寄りにあったという。常夜灯の文字の下には「右
おごおり 左 なかのせき」南面に「右 みたじり 左 うえまつ」とある。
常夜灯の前を通っている小道は、中関港道が整備されるまでは、旧山陽道の大崎の渡し
より中関に至る重要な道であった。
華城小学校内に「柳洲佐村市右衛門先生の碑」がある。私塾・佐村塾において多くの子
弟を育てていたが、1872(明治5)年の学制発布が施行され、翌年には仁井令小学が開校
する。塾は統合されたが、推挙されて主幹(現在の校長)になった。
1878(明治11)年に病気のため退職するまで主幹を務めたが、翌年に病没する。この
間の業績を後世に伝えるため、教え子たちが建立したという。
桑山の東麓にある大楽寺は、1871(明治4)年までこの地にあったとされるが、痕跡は
残されていない。
明治の文豪・森鴎外の父である森静男(1835-1895)の生誕地である。周防国植松村の大
庄屋・吉次家の五男として生まれ、18歳の時に医学を志す。1854(安政元)年津和野藩
医の森白仙に弟子入りし、1859(安政6)年温厚篤実な人柄により白仙の娘・ミ子(ね)の
婿養子になる。白仙の死後に津和野藩典医を継ぎ、その後、長男の林太郎(鴎外)が生まれ
る。
廃藩後、名を静男と改めて旧藩主に従って上京して医療活動を行う。この地は植松字野
地である。
生誕地からは畦道が最短距離である。
長閑な風景にしばし足を止める。
航空自衛隊防府北基地を右手にして植松から伊佐江に向かう。
中関港道はこのゲートより正面に見える田島山の麓まで、ほぼ直線道であったが、飛行
場建設により消滅する。
光宗寺(真宗)は、神保弥三郎景胤が毛利元就に従い、命により小早川隆景に仕え、芸州
西条を治めていたが、老齢となり出家して一宇を建立する。
1600(慶長5)年毛利氏の移封の後、息子弥七郎景行とともにこの地に来て、1605
(慶長10)年に寺を建立したのが始まりという。(境内に🚻)
光宗寺の向い側にある妙玄寺(真宗)は、神保弥太郎景常なる者も小早川隆景の家来であ
ったが、隆景の死後に無常を感じて方々を流浪する。毛利氏の防長移封後に現在の地で庵
を結び、1716(享保元)年大島郡の了賢庵を引寺して寺を建立、のち現寺号に改めたとい
う。
玉祖大明神は、室町期の1506(永正3)年に玉祖宮を勧請したとされる。現在の飛行場
内に創建されたそうだが、建設のため現在地に遷座したという。
1628(寛永5)年に26町歩余の潮合(しあい)開作が、伊佐江の大塚沖から赤石山へ築か
れ、伊佐江と田島は陸続きになる。
同じ屋根の下に区分されたお地蔵さんが2基。これも飛行場建設の影響を受けたものだ
ろうか。
佐波川の旧河道は伊佐江付近に流れ出ていたとのこと。伊佐江とはイサ(砂地)エ(入江)
で、つまり「砂地の入江」のことで、佐波川の流れ土砂によって河口付近につくられた土
地のことのようだ。(大きなウチワサボテン)
第二次世界大戦の勃発とともに、1943(昭和18)年田島に海軍通信学校が設けられた
のに呼応する形で、翌年には田島北、伊佐江南部に陸軍航空隊の飛行場が計画されて同年
に完成する。ここで飛行予科練習生訓練が行われ、特攻隊の訓練も始まった。
戦後は連合国軍が駐留していたが、1955(昭和30)年航空自衛隊防府北基地となる。
東門山地福寺とあるが詳しいことは知り得なかった。施錠されて内部を拝見することが
できなかったが、窓越しに十王のような木仏が安置されている。(堂の本墓地内)
同墓地内の五輪塔は二宮就辰(なりとき)の墓とされる。毛利元就と矢田元通の娘との間に
できた子どもで、正室が病床にある手前、側室が出産することは対面が悪く、妊娠7ヶ月
の娘は二宮春久に払い下げた後に出生したといわれている。
元服後は元就・輝元に仕え、数多くの功績を上げて旧領地を得た。毛利氏が防長二州に
移封された後は、妻(門田元忠の娘)ゆかりの地・伊佐江村に居住した。1607(慶長12)
年に死去し、伊佐江開作地内に葬られ、その地は「門田の森」と呼ばれたが、飛行場建設
に伴って現在地に移された。
清水川バス停手前のT字路に猿田彦の石碑と北向き地蔵が鎮座する。(奥側に住吉神社)
複雑な地形の中に鎮座する伊佐江八幡宮。伊佐江はもともと仁井令八幡宮の氏子であっ
たが、南北朝期の1376(永和2)年仁井令八幡宮より勧請して創建したという。
1943(昭和18)年9月に飛行場建設が決まり、その域内にあったため現在地に遷座し、
現在の社殿は山口市鋳銭司にある大村神社の旧社殿を譲り受けて、1946(昭和21)年馬
車で運搬して建立したという。
桑山方向へ東進する。
中学校西側に桑山八幡宮の参道が延びる。石段の上に2つの鳥居があるが、左手が桑山
八幡宮、右が八重垣神社。この付近に日輪寺(曹洞宗)という寺があって、仁井令八幡宮(現
在の桑山八幡宮)の社坊であったが、1870(明治3)年大楽寺と合併して廃寺となる。
桑山八幡宮の社伝によると、仁井令の開作ができる時に守護神として、奈良期の726
(神亀3)年に宇佐八幡宮より勧請して創建されたという。「25年」を1つの区切りとして、
その年を「式年大祭」と称し、特に重要なお祭りとして盛大に行われてきた。
八重垣神社は桑山八幡宮の境内神社となっているが、旧号は牛頭(ごず)天王社、又は祇園
社といっていた。牛頭天王は、もと祇園精舎の守護神とも、薬師如来の化身ともいう。昔、
小徳田(現華城中央2丁目)にあった大楽寺境内の鎮守として、南北朝期の1381(永徳元)
年山城国の八坂神社より勧請したと伝わる。1871(明治4)年大楽寺が桑山の東麓に移転
されるときに現在の地に移り、現社号に改める。
仁井令・伊佐江の町並みと航空自衛隊北基地、昔は島だった田島山が遠望できる。
八重垣神社より崩れ気味の石段を上がって行くと小祠が祀られていたが、これも不明の
ままとなる。
さらに上がって行くと井上山の頂上部に出るが、採石・採土が行われて山頂部は造成に
より削平されている。
北東に防府市街地、鳥居が見えるのは石鎚本教防府教会、山々は左から天神山、多々良
山、矢筈ヶ岳と大平山が平野の北面を囲む。
井上山の西麓にある墓地辺りに天徳寺があったとされる。この寺は律宗で開基年代は不
明で、1868(明治元)年頃に廃寺となる。
井上山の北麓に小川が流れ、小川のほとりに清水沼と呼ばれる沼があった。ある年の夏、
日照りが続いたため近くの百姓たちは沼の水を汲み出して田に引くことにした。昼ご飯を
食べていると、ひとりの僧が通りかかったので小豆飯を御馳走する。僧は「大きな沼には
主が住んでいる。主をとると祟りがあるので用心を」といって立ち去ったという。
底近くまで水を汲み出した時、大鯰が現われて捕獲し、処理について意見が分かれたが
料理することになり、腹を切り開くと小豆飯が出てきた。百姓たちは大騒ぎとなり天徳寺
の和尚に相談し、丁重に供養して境内に墓を建てた。そのおかげで百姓たちに祟りや不幸
はなかったという。
1954(昭和29)年2月に完成した旧防府市役所本館棟は、当時としては珍しい鉄筋コ
ンクリート造であったが、その役目を終えて姿を消すことになる。