ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

防府市の華城から新橋までの中関港道

2022年12月09日 | 山口県防府市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         華城(はなぎ)は佐波川河口の左岸に位置し、防府平野の中央にある桑山の西および南に
        位置する。
         1889(明治22)年町村制の施行により、仁井令村、伊佐江村、植松村の3村が合併す
        る際、県への申請は「華西村」であったが、地形から自然の城ということで「華城」が村
        名となる。
         防府平野の中央にある桑山は元来、九華山と呼び、その南麓を華南、東側の三田尻を華
        浦、西側を華西組と呼んでいた。(歩行約6㎞、🚻光宗寺)

        
         JR防府駅南口から防長バス小茅行き約8分、桑山中学校前の石ヶ口バス停で下車する。

               
         中学校西側に桑山八幡宮の参道が延びる。

        
         石段の上に2つの鳥居があるが、左手が桑山八幡宮、右が八重垣神社。この付近に日輪
        寺(曹洞宗)という寺があって仁井令八幡宮(現在の桑山八幡宮)の社坊であったが、187
        0(明治3)年大楽寺と合併して廃寺となる。

        
         桑山八幡宮の社伝によると、仁井令の開作ができる時に守り神として、奈良期の726
        (神亀3)年に宇佐八幡宮より勧請して創建されたという。
         「25年」を1つの区切りとして、その年を「式年大祭」と称し、特に重要なお祭りと
        して盛大に行われてきた。 

        
         神仏習合時代に設置されたものなのか、廃寺になった日輪寺の梵鐘を移設したのかはわ
        からなかった。

        
         八重垣神社は旧号を牛頭(ごず)天王社、又は祇園社といっていた。牛頭天王は、もと祇園
        精舎の守護神とも、薬師如来の化身ともいう。昔、小徳田(現華城中央2丁目)にあった大
        楽寺境内に鎮守として、南北朝期の1381(永徳元)年山城国祇園神社(元八坂神社)より勧
        請したと伝わる。大楽寺が桑山の東麓に移転した頃に遷座したものと思われる。

        
         八重垣神社より崩れ気味の石段を上がって行くと小祠が祀られていたが、これも不明の
        ままとなる。 

        
         華城地区の町並みと航空自衛隊北基地、昔は島だった田島山が遠望できる。

        
         参道入口に戻って市道を西進する。

        
         清水川バス停手前のT字路に猿田彦の石碑と北向き地蔵が鎮座する。 

        
         複雑な地形の中に鎮座する伊佐江八幡宮。伊佐江はもともと仁井令八幡宮の氏子であっ
        たが、南北朝期の1376(永和2)年仁井令八幡宮より勧請して創建したという。
         1943(昭和18)年9月に飛行場建設が決まり、その域内にあったため現在地に遷座し、
        現在の社殿は山口市にある大村神社の旧社殿を譲り受けて、1946(昭和21)年馬車によ
        り運搬して建立したという。

        
         四辻バス停の先が四差路で、直進道が植松への道、左右が中関港道である。(左折して自
        衛隊北基地へ向かう)

        
         第二次世界大戦の勃発とともに、防府市内でも軍事施設が造られた。1942(昭和17)
        年田島に海軍通信学校が設けられたのに呼応する形で、翌年には田島北、伊佐江南部に陸
        軍航空隊の飛行場が計画されて同年に完成する。
         中関港線はこのゲートより正面に見えて田島山の麓まで、ほぼ直線道であったが、飛行
        場建設により消滅しまう。戦後は連合国軍が駐留していたが、1955(昭和30)年航空自
        衛隊防府北基地となる。

        
         光宗寺(真宗)は、神保弥三郎景胤が毛利元就に従い、命により小早川隆景に仕え、芸州
        西条を治めていたが、老齢となり出家して一宇を建立する。
         1600(慶長5)年毛利氏の移封の後、息子弥七郎景行とともにこの地に来て、1605
        (慶長10)年寺を建立したのが始まりという。

        
         光宗寺の向い側にある妙玄寺(真宗)は、神保弥太郎景常なる者も小早川隆景の家来であ
        ったが、隆景の死後に無常を感じて方々を流浪する。毛利氏防長移封後にこの地で庵を結
        び、1716(享保元)年大島郡の了賢庵を引寺して寺を建立、後に現寺号に改めたという。

        
         玉祖大明神は、飛行場内にあったそうだが、建設のため現在地に遷座したという。この
        社は室町期の1506(永正3)年に玉祖宮を勧請したものとされる。

        
         同じ屋根の下に区分されたお地蔵さんが2基。これも飛行場建設の影響を受けたものだ
        ろうか。

                
         旧山陽道は、1874(明治7)年頃までは大体そのままであったようだが、1875(明
          治8)
年に佐波川新橋が架けられ、翌年から山陽道は新橋を通って佐波川右岸を通るように
        なる。
         その後、山陽道の重要性と貨物輸送の大幅な増により、新橋を通らない新路線ができた
        のは、1946(昭和21)年のことである。

        
         1628(寛永5)年に26町歩余の潮合(しあい)開作が、伊佐江の飯塚沖から赤石山へ築か
        れ、伊佐江と田島は陸続きとなる。

        
         四辻を直進すると森のような中にある大きな屋敷は、仁井令・西佐波令の庄屋を務めた
        吉武家である。建築年代ははっきりしないようだが、約363坪(1197.9㎡)の広い敷地に
        昔のままの姿をとどめる。南側に格子戸を引く長屋門があるが、無住なのか崩落の途にあ
        る。

               
                辻に立つ地蔵尊の建立年代はわからず。

        
         山陽本線の高架桁に突き当たる。

        
         直線道を進むと旧国道筋に出るが、この付近は足を止めるようなものは存在しない。

        
         昭和の初め頃まで防府平野に「角屋(つのや)造り」の民家が数多く見られたそうだが、こ
        の中関道筋では見ることができなかった。「角屋造り」は本棟より背戸側に2つの小屋根
        が突き出た「コの字型」の民家である。 

        
         ノンカラーのため何が描かれているかわかりづらいが、中央に佐波川と鮎3匹、下方に
        国指定の天然記念物「エヒメアヤメ」、上方に右田ヶ岳がデザインされたマンホール蓋。  

        
         防石鉄道の線路跡を横断するが、明治から大正にかけて鉄道建設ブームが起こり、19
        19(大正8)年7月5日に三田尻ー和字間、翌年に和字ー堀間が開業する。
         しかし、営業成績は延びず、堀以北は着工することができず、海岸線への延長計画(防府
        ー中関)も頓挫し、1964(昭和39)年7月1日に鉄道事業は廃止されてバス事業に転換さ
        れる。

        
         新橋郵便局前が旧山陽道。

        
         旧中関道は山陽道から分かれて光宗寺縄手を経て、赤石から中関に達する道があったが、
        道幅が4尺(1.21m)で右折左折の小道であった。1875(明治8)年と1881(明治14)
          
年に囚人を使って赤石より光宗寺前と、寺前から宮市市尻まで道幅1間(1.82m)の道が
        完成する。当時は山陽鉄道が開通していなかったので、中関港と三田尻港は重要な港であ
        ったようだ。
         のちに新橋の国道から中関間の道路改修が行われて直線道路となり、旧国道(現在の国道
        262号)との分岐には記念の石碑が建てられ、「中之関港道、明治廿二秊(年)五月 建」
        とある。
         見どころは少なかったが車窓から見える石碑の正体を知り得る散歩であった。コンビニ
        前の新橋バス停からJR防府駅に戻るが、便数の多いバス停である。


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