ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市宮野下は雪舟四大庭園の1つがある地

2020年11月14日 | 山口県山口市

        
                  この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         宮野下は現山口市街の北方に位置し、三面を山に囲まれ、その中を椹野川、国道9号と
        JR山口線が走り、旧石州街道もその間を縫うように現存する。
         地名の由来について、仁壁神社前に開けた地という説がある。(歩行約6.
5㎞)

        
         1917(大正6)年に開業したJR宮野駅は、島式ホーム1面2線でホームへは構内踏切
        で連絡している。列車交換が可能なことや近くに県立大学があるので当駅までは便数が多
        いが、この先津和野方面への列車は極端に少なくなる。
         木造の無人駅舎は「地域交流ステーション宮野」として、地域交流の場として活用され
        ている。(🚻あり)

        
         宮野駅新設を記念して植栽されたイブキは見上げるように大きく生長している。駅から
        約90mで旧国道に出る。

        
         旧国道を横断して県立大学に向かう途中に旧寺内文庫がある。文庫は元帥で総理大臣を
        務めた寺内正毅の遺志を継いで、1921(大正10)年に子・寺内寿一が郷里の邸内一部に
        建設した私文庫である。

        
         鉄筋コンクリート造2階建ての建物には、正毅が朝鮮総督時代に集めた古文書などが一
        般に公開された。1850(昭和25)年隣接する女子短大図書館(現県立大学)となり、19
        78(昭和53)年新図書館が完成すると移管され、建物はクラブの部室に使用されたが、現
        在は空家である。(正面が玄関とホールで右側に閲覧室、左手の奥まったところが書庫)

        
         大小の立方体を組み合わせた独自な構成となっており、外部腰壁はタイル貼り、外壁は
        モルタル仕上げとなっている。右側の2階建て部分は事務室と研究室であった。

        
         引き返して交差点を右折して道なりに進むと、油川に架かる西桜畠橋に出る。

        
         付近は新興住宅地で、近くに県立大学があるためかアパートも多く見かける。

        
        
         国道9号手前右手に石風呂観音堂がある。宮野地区に残る唯一の石風呂だそうで、19
        
75(昭和50)年浄財を集めて石風呂の上に観音様を祀り、「願かけ石風呂観音」として崇
        敬されている。その上の宝篋印塔は寛政年間(1789-1801)建立といわれる。

        
         地下道を利用して国道を津和野方面へ進むと、左手に墓地を示す標柱がある。

        
         寺内正毅は市内の平川で生まれ、寺内家の養子となり、幕末維新の戦役に従軍して軍人
        として身をたてる。1902(明治35)年陸軍大臣に就任し、その後、陸軍大将、最初の朝
        
鮮総督を歴任し、1916(大正5)年内閣総理大臣になる。1918(大正7)年に辞職し、翌
        年の11月67歳で病没する。郷里の宮野に子・寿一と共に眠る。

        
         陸上自衛隊訓練場とこんもりした森が仁壁神社。

        
         国道から常栄寺まではの上り坂。

        
         二蕉庵紫香(にしようあんしこう・本名は鎌田三伯)は幕臣として江戸に生まれ漢方医であった
        というが、その履歴は明らかでない。山口に来住したのは日露戦争の頃で、近隣の青年男
        女に漢籍や俳句を教えたとされる。1919(大正8)年近くの寓居で没した。享年80歳。
         “もみじして 落葉して 呵々 朽ば哉”の辞世句碑は、門人一同により建立された。

        
         常栄寺(臨済宗)は、室町期の1563(永禄6)年に没した毛
利元就の長男・隆元の菩提を
        弔うため、安芸吉田の郡山城内に創建された。毛利氏の防長移封に伴い寺も山口に移転、
        上宇野令にあった国清寺を常栄寺とする。
         1863(文久3)年萩から山口に藩庁が移された時に、伽藍のみ洞春寺に譲り、潮音寺と
        改め現在地に移った。当地には妙喜寺という寺があり、毛利氏の時代に
妙寿寺と改名して
        毛利隆元夫人の菩提寺となっていた。1888(明治21)年に寺号を元の常栄寺に復した。

        
         山門を潜ると前庭「無隠」は、2012(平成24)年に作庭されたもので、名前の由来は
               
室号の「無隠窟」から名付けられたとか。建物は左から地蔵堂、本堂、鐘楼門。

        
         南溟庭(なんめいてい)は古典造園の大家・重森三玲が作庭。テーマは雪舟が入明し、帰国
        するまでに往復した海をイメージしたとされる。

        
         大内政弘が別邸として建てたもので、庭は雪舟に命じて築庭させたといわれている。室
        町期の1455(康正元)年大内政弘が母の菩提を弔うために別邸を寺とし「妙喜寺」とした。

        
         庭園は、東・北・西の三方を林地で囲んだ小谷地に築造され、東北の隅に竜門之滝を懸
        け、その前に広い心字池を設け、池には鶴島、亀島が浮かぶ。

        
         本堂から庭を挟んで直線的な位置に墓がある。

        
         幕末維新から第二次大戦まで山口県出身52,000名もの尊い命が失われたとされる。
        (山口県護国神社)

        
         仁壁神社の社伝によると、かって社は今の地より20余町(約2.2㎞)東北にあったとさ
        れ、平安期の1104(長治元)年現在地に遷座したという。
         地元では周防三の宮と呼ばれているが、室町期の1494(明応3)年大内義興が周防国5
        社に戦勝報告した際、3番目に詣でた故事によるとされる。

        
         山口線を横断して下恋路橋を渡ると、椹野川の袂に頌徳碑と石仏1体がある。碑文を読
        み取ることはできないが“妙喜寺32世‥”とあり。

        
         国道262号の函渠を潜る。

        
         国道に沿うとアメリカフウ(モミジバフウ)の紅葉が楽しめる。

        
         清水寺(せいすいじ)は宮野恋路の南、山の中腹標高130mほどの地にある。寺伝によれ
        ば平安期の806(大同元)年創建で、もとは天台宗であったが、室町期に大内政弘が真言宗
        に改めたという。
         仁王門には右に阿形、左に吽形の金剛力士(仁王)像が寺門の入口を守っている。南北朝
        期の作とされ、高さ約190㎝の榧材一本造りで・眼には玉眼があり、髪は蔓で結び、金
        剛杵を振り上げた忿怒の相を示している。

        
         石段の途中左手に庫裏と思われる建物があるが無住のようである。

        
         鐘楼と石段。

        
         大内氏の時代に中国・明の詩人趙秩が山口に来訪し、山口の名勝10ヶ所を選んで詩を
        詠んでいる。そのうちの1ヶ所が「清水の晩鐘」と題されたもので、漢文のため書下ろし
        文が添えられている。
         「暮の雲 雨まばらに 魂を消さんと欲す 独り西風に立てば 半ば門を掩(おお)さす 
        大内の峰頭 清水寺 鐘声、客を驚かすこと 黄昏幾し」

        
         かっては大伽藍であったとされる清水寺も、現在は訪れる人もまれで、紅葉に包まれて
        静かな佇まいをみせる。

        
         観音堂は千手観音菩薩の本尊を安置する建物で、茅葺きであったものを鉄板で覆ってい
        る。現在の堂は室町期の1493(明応2)年大内義興が建立。江戸期には度々修復され、建
        立された当時は9間四方の禅宗様式の大伽藍であったが、修復の際に5間四方に縮小され
        た。

        
        
         境内にある清水寺の鎮守・山王社の社殿は、南北朝期の1374(文中3)年に創建された。
        全体は覆殿の中にあり、浜床構えで小さく形の整った社殿である。

        
         寺から引き返し、函渠前を右折して田園風景を楽しみながら北上すると、左前方に足王
        神社内の五重の石塔が見えてくる。

        
         田んぼの中にある神社で、江戸期までこの地に洞泉院という寺があったと伝える。その
        ためか境内には天穂11年(1840)建立の五重の石塔や地蔵尊(1761)がある。足王様は足の
        病気にご利益があるとされ、小さなわらじを持参してお供えするとか。 

        
        
         山口市の定番である七夕ちょうちんがデザインされたものと、仁保地域にみられたパラ
        ボラアンテナがデザインされたマンホールが混在する。

        
         足王神社から西進し県営住宅群、椹野川に架かる中恋路橋を渡ると、前方に山口線が見
        
えてくる。

        
         線路を潜って右折すると駅に戻ることができる。   


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