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ぶら~と散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

津和野町畑迫‥山間に堀庭園と病院跡

2020年11月17日 | 島根県

        
                   この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         畑迫(はたがさこ)は西方山口県境山地から東流する白石川、西谷川の本流津和野川との合
        流地点付近にあり、笹ヶ谷鉱山の鉱床に富む須郷田山が北から迫っている。
         地名については、銅が湧いて出て人家多く稼ぎがあり、家の四辺が畑地になったことに
        よるという。江戸期から1955(昭和30)年までの畑迫村(一時喜時雨村となる)として村
        立していた。(歩行約1㎞)

        
         JR新山口駅9時13分の列車に乗車すると、JR津和野駅から津和野町営バスに連結
        し堀庭園バス停11時46分に下車できる。

        
         津和野の町中から山間に向けて約25分。バス停前に石見銀山で繁栄した堀家の主屋と
        長屋蔵が見える。

        
         堀家は、鎌倉期の1282(弘安5)年吉見頼行が能登から木部に入部した際、頼行に従っ
        て当地に移住する。吉見氏は殖産を奨励し、特に銅の採削においては、堀氏を山口の長登
        銅山に派遣し、後に畑迫の山ノ内、木部の石ヶ谷、笹ヶ谷の3ヶ所で採掘を始めたとされ
        る。(堀庭園案内図)

        
         受付と駐車場に挟まれた地が御米蔵跡。

        
         受付は邸内でなく道路を挟んだ反対側にある。(入場料500円)

        
         吉見氏の萩への撤退後は萩へ赴いたが、帰国して畑ヶ迫村に居住する。江戸期には天領
        だった当地は、大森代官による管理下に置かれ、堀家は代々銅山年寄役を務める差配家と
        なった。

        
         表門を潜ると正面に主屋の玄関。

        
         1733(享保18)年1月8日火災に遭い、建物および当家の記録を焼失する。1785
          (天明5)年に建築された木造2階建ては、入母屋造りの石州赤瓦葺きである。
         玄関が2つあって左手の式台がある玄関は、身分の高い来客を迎い入れるために設けら
        れた。

        
         玄関から座敷に上がると電話室があり、その奥に主室がある。

        
         8畳2間で構成されている主室。

        
         1875(明治8)年第15代藤十郎(礼造)が家督相続を受けて、鉱山経営は笹ヶ谷を主採
        掘場とし、石見、出雲、摂津、因幡、山口の長登など数十ヶ所の銅山を経営し、盛況を呈
        した。(囲炉裏の間と台所)

        
         1920(大正9)年鉱山経営は堀鉱業㈱に引き継がれ、日清・日露戦争後は笹ヶ谷と石ヶ
        谷を残して売却し、1928(昭和3)年に解散する。笹ヶ谷鉱山も日本鉱業㈱に営業委託し
        たが、1949(昭和24)年廃山となった。(2階の間より表門)

        
         主屋から楽山荘の門を潜る。

        
         1900(明治33)年に建てられた客殿の「楽山荘」は、木造瓦葺二階建ての数寄屋建築
        である。「楽山」の名は造営した堀藤十郎(礼造)の号によるとされる。(玄関前)

        
         楽山荘庭園は背面の岩山を背景とし、その一部を削って滝や平場に池泉回遊式庭園を設
        け、園内を散策できようになっている。滝の水源は、裏山の廃坑となった旧山ノ内鉱山の
        坑道から引き込まれている。

        
         玄関は式台を備えた格式高い造りとなっている。

        
         1階の主座敷は庭園に面した8畳の座敷で、床柱や付書院などに数寄屋風の意匠が見ら
        れる。

        
         池泉には六角雪見灯籠と立石で岩島が設けてある。

        
         階段を上がると、この空間から四季折々の色が楽しめそうだ。

        
        
         各階とも庭園に面した東面に濡れ縁・広縁が設けてある。

        
         2階の主座敷は琵琶床(床の間の脇半分が高く琵琶を飾ったことに由来)を備えた書院造
        りとなっている。

        
         和楽園側から見る楽山荘。

        
        
         1915(大正4)年に作庭された「和楽園」は、楽山荘の2階座敷の縁先に展開するよう
        に設けられている。

        
         県道17号線からの堀家。

        
         緑橋の脇にひっそりと建つ観音堂は、毎年秋祭りも行われていたようだが詳細不明とさ
        れる。

        
         中堀家。

        
         地域の児童のため堀家が私費を投じて建てた旧畑迫小学校跡地。今は空地となっている
        が、かつては4間×10間の木造2階建ての校舎が建っていたとのこと。
         周辺には映画館などもあって、町の中心部まで出かけなくても日常生活が可能だったほ
        ど栄えていたという。

        
         和堀家。

        
         和堀家と並ぶ家も堀家と関係筋と思われる。

        
         新堀家は堀家の分家で、入口の坂と石組みを残して、屋敷は山口県山陽小野田市にある
        洞玄寺の庫裏として移築されたといわれている。

        
         学校の校舎を思わせる旧畑迫病院の建物。右側が診療棟、左側が病棟の造りとなってい
        
る。

        
         堀藤十郎(礼造)は銅山経営の傍ら、1892(明治25)年巨費を投じて畑迫病院を創設す
        る。1917(大正6)年には莫大な費用を投じ手術室や病室などを増築、いち早くレントゲ
        ンなども取り入れている。官立の病院はともかく当時の私立病院で、このような先進的な
        治療器具や薬品などを取り入れていた稀にみる施設であった。(左側玄関が診察用)
         白石川に架かる病院橋付近が、天領と津和野藩領との境だったされる。

        
         1931(昭和6)年以降は鉱山業が不振で堀家が経営権を手放したが、1984(昭和59)
        年まで医院、診療所と名称を変えながら地域の医療を支えた。(見学はこちらの入口)

        
        
         病棟廊下と病室は畳敷きベッド。

        
         島根県内でもいち早くキング型第2号レントゲン装置が導入された。

        
         昭和初期の様子が再現された診察室。

        
         手術室や外科室、検査室、薬局などもあった。

        
         随所に洋風建築の要素が取り入れられ、大正時代の風情を呼び起こす優れた建物である。

        
         白石川の両側は石積みで、所々に川に下る階段がある。これは汲み地と呼ばれ炊事や洗
        
濯に利用された。

        
         庭園バス停から旧畑迫病院までぶらぶら歩きにちょうどよい。(掘庭園前バス停15時
        14分)
 


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