ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市小郡の東津と元橋付近および石ヶ坪山

2023年05月28日 | 山口県山口市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         この地域は椹野川流域に位置し、河岸段丘に立地する。小郡の地名の由来は、吉敷郡に
        属し、古くから交通の要地として小さくまとまっているところから、吉敷郡の中でも別に
        1つの郡をなすという意味で、小郡と呼ばれたという。(約8.4㎞・🚻東津橋と昭和橋の
        中間付近の車道)

        
         小郡駅は1900(明治33)年に開業し、山口線・宇部線の開通後は陰陽交通の拠点とし
        ての役割を果たしてきた。
         新幹線開通にともない、山口市は「新山口駅」にすべきとしたが、当時の小郡町民の反
        対もあって実現しなかった。2003(平成15)年10月小郡駅を新山口駅にするという条
        件で「のぞみ」が停車し、その2年後に小郡町は山口市と合併する。

        
         南口(新幹線口)から新幹線高架筋を東進する。

        
         椹野川からの用水がJR山陽本線下を流れるところに、長さ約40mのトンネルがある。 
        その一部の8mが、1900(明治33)年山陽鉄道が敷設された時に造られたもので、当時
        は単線だったことを示す赤煉瓦造で、現在もこの上を本線の上りが走る。

        
         用水路に沿って旧国道、新幹線高架下を潜り、突き当りの三叉路を右折すると椹野川土
        手に上がる。

        
              土手下に江戸期の萩藩米津出(こめつだし)倉庫跡。萩藩が小郡、山口、美祢の3宰判の年
        貢米を集めて保管し、大坂や萩などに送っていた。
         倉庫が建てられた時期は不明だが、1756(宝暦6)年には既にあったとされる。海岸線
        に近く大型船が入港できたが、その後、河口部の開作や洪水による土砂の堆積で使用困難
        となる。その1つが残されて地区の祭礼用倉庫として使用されている。

        
        
         明治前半の東津付近の絵図と、今の東津橋から見る米及び物貨輸出所付近。

             
         旧山陽道の時代には、東津橋が架かっている地点に「東津の渡し」があった。1649
        (慶安2)年の防長両国絵図によると、干潮時には徒歩で渡り、
満潮期には川幅が28間(5
        0.9m)、深さが2尺(6
0.6㎝)にもなるので、満潮時及び雨後の増水時には船を利用し
        たとある。
         1872(明治5)年に木橋が架けられ、以後何回か架け替えられたが、現在の橋は197
        9(昭和54)年に架橋される。(正面に石ヶ坪山)

        
         東津橋を渡って変則四差路を直進すると、左手の路傍に「一里塚」がある。萩藩の一里
        塚は石盛りで塚を作り、上に里程を記した塚木が立てられたようだが、
石ケ坪山の麓にあ
        ったとされるが正確な位置は不明とのこと。
         この碑は、1989(平成元)年地元教職員の有志が建立したものである。

        
         中央に「あめんぼの親子」、周囲にSL山口号がデザインされたマンホール蓋。

        
         ウオーキング中の方が、「石ヶ坪山は標高100mちょっとの山で、20分位で山頂に
        立てる。小郡や椹野川が見渡せて百谷(ももだに)へ下ることができ、巡拝路の先からはロー
        プが渡してあるので迷う心配はない」とのことで、悩んだが車道よりもいいかなと大聖院
        の長い石段を上がる。

        
         急傾斜地に佇む大聖院(真言宗)は、1917(大正6)年東津の有志数人が発起となって開
        山。当時は大師堂と称したが、1946(昭和21)年に寺号(じごう)を得る。

        
         境内は新幹線よりも高い位置にあり、寺への道は石段のみのようで、景色と足腰の鍛錬
        にはよいが、高齢者にとっては辛い石段かも‥。

        
        
         本堂左側に「新四国八十八ヶ所霊場」碑があり、ここから巡拝路に取り付く。樹林の中
        をジグザグに辿り32番で巡拝路と分かれ、登山道に入るとロープが張られた道になる。

        
         前方が明るくなると、はためくような音が聞こえてきたので見上げると、東津橋から見
        えていた鯉のぼりが泳いでいる。 

        
        
         南に椹野川河口、南西に新山口駅、西に小郡上郷一帯が見られるが、木が生長してぐる
        りと見渡すことはできない。

        
         山頂には種田山頭火の「分け入っても 分け入っても 青い山」の句碑や四等三角点の
        ほか、構築物があったようだが崩壊している。小休止した後、お会いした方の情報に従い、
        東に連なる尾根伝いを辿る。

        
        
         山頂から百谷への道に取り付くと、登山道にはロープが設置されて迷うことはない。小
        さなピークを越えて鞍部へ下って行くと、山頭火の句や火の用心の看板が設置されている。
         正面に「火の用心」の看板を見て左折すると、ロープのおかげで不安なく下山できる。

        
         百谷コースの登山口に出ると、車道を右折して百谷遺跡へ向かう。

               
        
         途中の左側に広場があるが、かってここに石鎚社のお堂があったという。車道に向かっ
        て大師像など3体が並んで鎮座するが、お堂がなくなってもお参りされる方があるようだ。
         広場奥は「東津総区の森」として整備されているようだ。

        
         百谷遺跡入口からは苔生した滑りやすい道となっている。入口先の右手にブルーのマー
        クがあるが、石鎚山奥の院への道のようだ。 

               
                 百谷窯は石鎚山の南西山麓斜面、標高約75mに構築された窯である。平安期(9~10
                世紀)の登り窯の1つとされ、須恵器という土器を焼いていた。当時は朝廷や身分の高い人
                たちが供膳用に使ったといわれている。 

               
                 窯体は両側の壁と奥壁を残して、天井部分は破壊を受けているが、焼成中に天井が落下
        して放置されたのか、後の代に地滑りによるものではと考えられている。

        
         引き返して元橋地区に出ると、左手の東津墓苑には童謡詩人の斎藤(家)正一の墓があり、
        その傍に斉藤正一の詩碑がある。
            ねんねよねんね おねんねよ
            おせどのしの竹 ゆれる夜は
            こひなは親の  羽根の中
         正一は山形県生まれ。朝鮮で教員をしていたが戦後小郡に移り住み、山口市教学課に勤
        める。若い頃から北原白秋らに交じって活躍していた童謡詩人である。

        
         三差路で「百谷遺跡 これより600m」を見て右折すると、家々は更新されたのか新
        しい家屋が並ぶ。

        
         妙湛寺の参道は深い緑の樹々に囲まれ、苔生した参道は趣もあって寺らしい雰囲気が味
        わえる。

        
         妙湛寺は臨済宗東福寺派で山口の常栄寺末寺で、大内氏の時代には大伽藍として多くの
        建物があったが藩政時代に衰退する。1892(明治25)年再興されて境内は緑の庭園とな
        っており、その閑静な佇まいに触れようと訪れる人が多いとか。

        
         境内の片隅にある豊久丸の墓は、大内盛見(もりはる)の時代、戦死した兄・義弘の長男で
        ある持世を世子とするため、盛見は相続争いのタネにならないよう、我が子・豊久丸を船
        遊びにかこつけて椹野川に突き落として水死させた。死体は流れて東津の対岸に上がり、
        ここに一宇を建立して霊を祀ったという。

        
         東津橋東詰にある六地蔵。

        
         東津橋西詰から椹野川沿いを北上すると、「椹野川修工碑」と左右に東津橋の名を刻ん
        だ親柱がある。
         相次ぐ洪水から住民を守るうえで椹野川の改修は永年の課題であった。大庄屋であった
        林勇蔵は流域10ヶ村とともに県当局に要請し、1881(明治14)年フランス人技師・モ
        ルトルの設計により1884(明治17)年に着工する。堆積土砂の浚渫、堤防、堰堤の改修
        工事を経て1896(明治29)年に完成する。
         中心的な役割を果たした林勇蔵が、1899(明治32)年9月に没したため、事業を後世
        に伝えるため一周忌の秋分の日に、経過を巨石に刻んで東津橋のほとりに建立された。

        
         椹野川東津河川公園には、種田山頭火の句碑があるというので、河川敷を歩いて駅に戻
        ることにする。
                  「咲いて こぼれて 萩である」
         其中庵に移ってきた喜びの句で、1932(昭和7)年9月お彼岸の中日、庭には萩が咲き
        乱れていた。矢足(庵のある地区)では新入りだから近所の挨拶は欠かせない。世話をして
        くれた国森樹明と伊東啓治の3人で4,5軒まわり、「これで私も変則ながら矢足の住人
        になった」と記す。

        
         江戸期の椹野川河口は海運上重要な位置にあったため、御米蔵に並んで河口御番所が置
        かれ武士1人、地下(じげ)人1人が常時勤めていた。
         現在は痕跡を見ることはできないが、平屋建てだったようで昭和の初め頃まで、老女が
        駄菓子屋をやっていたという。 

        
                  「寝ころべば 青い空で 青い山で」
         1933(昭和8)年9月12日防府市三田尻の松富屋に宿泊し、翌朝6時に出立。我なが
        らさっそうと歩く。見渡すかぎりの青い空、末田海岸の濤声(大波の音)、こゝにも追懐が
        あると記す。

        
                  「曼殊沙華咲いて ここが私の寝るところ」
         1932(昭和7)年山頭火は川棚に草庵を結ぶことを決意したがままならず、同年9月2
        0日故郷のほとりである小郡に草庵を見つけて「其中庵」と名付け、そこに移り住むこと
        ができた。やっと見つけた庵で詠んだ句とされる。 

        
                      「山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く 
                   春夏秋冬 あしたもよろし ゆふべもよろし」
         江戸後期から明治にかけての俳人・井上井月(いのうえせいげつ)の墓参のため、1934
        (昭和9)年信州の旅に出る。しかし、肺炎を患い墓参を残念している。(第3集「山行水行」
        1935年発刊の中の句)
         1939(昭和14)年信州の旅に出て墓参を済ませ、同年10月四国遍路の旅に出て、松
        山の庵で生涯を閉じる。

        
         昭和橋を見上げると橋脚の基礎部分が残されている。1966(昭和41)年に架け替えら
        れたが、当時は国道で往来も多くて同じ場所に架橋することができなかったようだ。旧橋
        の東詰と西詰の道路端が、不自然に広く残されているのも橋の影響のようだ


        
                 「雑草に うずもれてゐる てふてふと わたくし」
         公園にはまだ句碑があったようだが、遊歩道を歩いたため見つけ出すことができなかっ
        た。

        
         風の並木通りに出て新山口駅新幹線口に戻る。


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