ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市王司は宅地化と商業開発が進む地

2020年12月01日 | 山口県下関市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         王司(おうじ)
下関市の東部に位置し、域内の北側を神田川が東流して周防灘に注ぐ。南
        西は才川地域と接し、海側は江戸期から明治期に埋築されて塩田が営まれた。地名の由来
        は、域内の南西端にある四王司山にちなむという。
         1889(明治22)年町村制施行により、神田、山田、員光、宇部、才川、松小田の6ヶ
        
村が合併して豊東前村が発足。1898(明治31)年王司村に改称する。(ルート約3.6
        ㎞)

        
         JR小月駅からサンデンバス下関駅行き約10分、王司病院前バス停で下車する。ちょ
        うど1年前に新設されたバス停は普通便のみが停車する。

        
         バス停から国道を横断すると宇部八幡神社御旅所に永富独嘯庵(どくしょうあん)の顕彰碑
        がある。独嘯庵は江戸期の医師・学者で精糖業の創始者である。1732(享保17)
宇部
        村で生まれ、京都の山脇東洋などに医術を学ぶ。30歳のとき大坂で開業するが、
               1766(明和3)年「油断して川へ嵌(は)まるな独嘯庵」の句を残して35歳で病没する。

        
         山側に向かうと宇部八幡神社の一の鳥居。

        
         坂を上がって行くと周防灘が見えてくる。

        
         宇部八幡神社の由緒によると、平安期の866(貞観8)年宇佐神宮から勧請される。18
        74(明治7)年長府にある忌宮神社の末社となり、後に宇部八幡宮から宇部八幡神社に改称
        する。

        
        
         本殿の彫刻は見応えがある。

        
         境内に水神社跡の標柱があるが、農耕の豊穣を守護神として水の神を祀ったものと思わ
        れる。

        
         王司保育園前を過ごす。

        
         玉泉寺(曹洞宗)は、1876(明治9)年の火災により過去帳などを焼失したとされるが、
        1742(寛保2)年長門湯本の大寧寺29世を開山として創建されたといわれる。

        
         境内地より王司の町並みと周防灘。

        
         中宇部バス停前から国道を横断すると庚申塚。

        
         宇部一里塚は「地下(じげ)上申絵図」等の資料を基に、旧山陽道沿いに設置された。

        
         下関の「し」と市のシンボルマークの「ふぐ」、周りには海の波がデザインされたマン
        ホール蓋。

        
         海辺に下ってくると、橋の親柱が残る四差路に出る。

        
         次の通りに出ると右手に悪水溝が見えてくる。王司には「古浜、亀浜、千鳥ヶ浜」の3
        つの塩田が設けられ、本格的な製塩は1831(天保2)年から1839(天保10)年頃に始ま
        ったという。

        
         左手の千鳥ヶ浜は、北、東、南の3面を腰石垣の堤防を設えて、西の1面に悪水溝を掘
        削して分界としている。

        
         ナフコ長府店の隣、宇部字六町自治会館傍にある塩釜社がある。神社の由来によると、
        この付近は長府藩が塩・米作りのために干拓を奨励し、塩田や水田作りに従事する人たち
        を住まわせた。この神社は塩の安全増産を祈念して塩浜・製塩関係者等によって建立され
        た。

                
        
         橋柱のあった場所まで戻って、旧バス通りを長府方向へ進む。

        
         山口県漁協王司支店の先に旧三田尻塩務局長府出張所(現宇部西町公民館)がある。19
        05(明治38)年塩専売制が実施されると専売管理業務が開始され、後に専売局長府出張所
        となった。
         1955(昭和30)年代に宇部西町自治会に払い下げられ、今日まで公民館として活用さ
        れている。門柱とともに玄関横の守衛室(8㎡)もそのまま残されている。

        
         木造平屋建て瓦葺き寄棟屋根、面積186㎡の洋風建物である。玄関を入るとカウンタ
        ーを隔てて事務室があり、その横に所長室とがあったようで、現在も内部は当時の間取り
        を残している。

        
         右側の棟には検査室があって、船で運ばれてきた塩はここで検査され、2棟あった倉庫
        (解体)に一時収められ、再び送り出された。
         自治会では何度か大改造の話が持ち上がったそうだが、地域の歴史を語る貴重な財産と
        して、できるかぎり昔の姿を残すよう努力されてきたとのこと。

        
         この先の通りには家が点在する程度である。

        
         右手にNTT王司電話交換所の建物を見ると右折して、山陽本線南磯折第4踏切を横断 

        する。

        
         旧山陽道に出て小月方面に戻るが、旧国道と山陽本線に挟まれる格好でほぼ同じ道幅が
        続く。

        

         一里塚の左手には地蔵堂と先の大戦で亡くなられた方の顕彰碑が建つ。

        
         王司病院前の四差路を左折すると出発点のバス停前に出る。バスの便数は多いのでバス
        に合わせて、長府駅か小月駅に出ることができる。


この記事についてブログを書く
« 下関市小月は交通の要路とし... | トップ | 周防大島の久賀は屋代島の中... »