ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

美祢市厚保は厚保栗と来嶋又兵衛旧居地 

2021年08月27日 | 山口県美祢市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         厚保本郷(あつほんごう)は、東端を厚狭川、中央部を東へ原川が流れ、その谷底の平野に
        立地する。域内にはJR美祢線、主要地方道下関美祢線が通り、南部を中国自動車道が横
        断する。
         難読な地名の由来は、神功皇后の朝鮮出兵伝説に関わりがあり、当地で兵を集めたこと
        から集めの村と称し、誤って厚保の郷といわれるようになったとか。
         また、「阿」は湿地の意味で、「津」は交通位置を示し、「厚津」がのちに厚保になっ
        たという説もある。(歩行約4.7km) 

        
        
         JR厚保駅は、1905(明治38)年大嶺線開通とともに開業した駅で、相対式ホーム2
        面を有する列車交換が可能な駅。駅舎は「厚保地域交流ステーション」として利用され、
        駅前には手書きの「駅長さんが書いた駅名ものがたり」の看板がある。

        
         厚狭川を挟んで右岸に県道下関美祢線、左岸をJR美祢線が走る。

        
        
         県道沿いに「目のお薬師様」を祀る薬王寺があり、階段には男の厄坂42段、女の厄坂
        33段という厄坂が設けてある。
                  1950(昭和25)年5月に開山され、翌年4月臨済宗一畑薬師寺より薬師如来を分霊し、
        のちに宗教法人となる。

        
         駅前の千歳橋まで戻って旧道に入る。 

        
         この筋に厚保公民館、市厚保出張所および厚保中学校が並ぶ。

        
         公民館前から県道を横断して次の集落に入ると、高く積まれた石垣と古民家。

        
         色づき始めた田園風景を眺めながら山裾を巡る。

        
        
         注連縄があるので猿田彦か庚申塚と思われるものと、高台の離れた場所にお地蔵さんが
        一基。

        
         神功皇后社の社叢が見えてくると神社前に出る。

        
         社伝によると、室町期の1425(応永32)年長府の二宮神功皇后宮(忌宮神社)から勧請
        したというが、当地方には二宮の社領なく由来はわからないとする。由緒書きには神功皇
        后三韓へ出陣の際、この地にて兵を集め給うとある。

        
         この道筋にはハス、アジサイなどの花もあって、四季を感じることができるとのことだ
        が、この時期はハスの花が見られたようだが、時期遅しで一輪のみだった。

        
         厚保小学校が見え、カーブミラーのある所を右折すると栗畑。この地は江戸時代から続
        く栗の名産地だそうで、自家選果、選果場での選果をクリアし、甘くて大きいものだけが
        「厚保栗」とされている。

        
         厚保小学校の近くに来嶋又兵衛の自邸があったため、1934(昭和9)年鎧を身に着け、
        陣笠を被る姿の像が建立された。

        
         来嶋又兵衛は、1817(文化14)年厚狭郡西高泊村(現在の山陽小野田市)で、無給通組
        の下士(37石余)だった喜多村正倫の次男として生まれる。
         1836(天保7)年大津郡俵山村の大組の上士である来嶋政常の婿養子となり、政常の近
        親で庄屋・来嶋清三郎の長女タケと結婚する。
         1837(天保8)年又兵衛が何を思って移り住んだかは定かではないようだが、政常が手
        習い師範として多くの弟子を抱えていたためとか、あるいは清三郎が総領娘を養女に出す
        際の条件だったなどの説がある。

        
         1848(嘉永元)年剣術修行から帰国して家督を継ぎ、藩世子の駕籠奉行などの要職を務
        める。1851(嘉永4)年に義父が死去したため、来嶋家累代の名前を継承して来嶋又兵衛
        を名乗る。
         1863(文久3)年10月世子上京の前衛を仰せ付けられ狙撃隊を組織するが、8月18
        日の政変で尊皇攘夷派が追放され萩に戻る。
         その後、遊撃隊を組織し、1864(元治元)年7月国司勢の前軍として蛤御門で戦うが戦
        死する。像は戦時中に金属供出で失われたため、1998(平成10)年再建された。

        
         銅像の隣には「世外候養痍隠晦之處(せがいこう よういいんかいのところ)の碑がある。世
        外こと井上聞多(のちの馨)は、1864(元治元)年9月山口で刺客に襲われて瀕死の重傷を
        負う。
         療養しつつ隠れ住んだのが厚保の来嶋家で、妹の厚子が来嶋家の長男森清蔵に嫁いでい
        た縁による。又兵衛の長男亀之進は、藩命で森清蔵を名乗っていた。

        
         学校横を抜けると三重塔の相輪が見えてくる。

        
         光専寺(真宗)の寺伝によると、豊後の大友宗麟の家老・三原加賀守清光が仏門に入り、
        真宗に帰依して清光と称し、1528(享禄元)年当地に来住して開創したとされる。

        
         1983(昭和58)年建立とされる三重塔。

        
         三戸酒造㈱の裏手側だが、既に酒造りはされてないようだ。

        
         旧道筋の家並み。

        
         三戸酒造の入口左手に蛭子神社。

        
         来嶋又兵衛の妻である父・来嶋清三郎は、1795(寛政7)年本郷村で生まれる。先祖は
        尼子経久の子・森親久の末孫と伝え、親久のとき毛利氏に仕え、旧地出雲国来嶋庄(飯石郡)
        より来嶋氏に改めた。

         親久の嫡子が辞して当地に住して農民となり、のちに大庄屋格となる。厚保村原の酒造
        株を買得し、1813(文化10)年に本郷へ酒造場を移した。
三戸酒造がその場所であるか
        否かはわからないが、1845(弘化2)年に建てられた堅固な家屋が現存する。

        
        
         旧道筋の家並み。

        
        
         1934(昭和9)年築の旧厚保郵便局。蔦に覆われて窓も見えない状態であった。中を見
        ることはできないが、ガラス面に「厚保郵便局」の字が微かに読み取れる。

        
         来嶋又兵衛と森家累代の墓について地元の方にお尋ねすると、原川右岸の山手にあると
        いう。丁寧に道順を教えていただくが、歩行距離が長そうなので残念する。


        
         旧道からJR厚保駅へ戻る。


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