この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
米川(よねかわ)は地名として存在せず、明治の町村制施行により、4ヶ村が合併した際に
新村名について、本区域は元組名の米川組から撰定したとされる。
その米川村の中心だった下谷(くだたに)と菅沢集落は、末武川上流の山間地域に位置し、
県道下松鹿野線と県道三瀬川下松線が交差する一帯に集落を形成する。
地名の由来について風土注進案は、東西北の三方から下る谷であるから下谷という。(約
3km)
この地を訪れるには下松市コミュニティバスがあるが、利便性が良くないため車対応と
なる。県道が交差する先に駐車すると末武川右岸に菅沢集落がる。
菅沢集落内のメイン道路。
傾斜地に沿って集落を形成する。
法界地蔵尊は、昔より道に迷う人のために道を教え、現在では、悩める人の人生を示す
道標となり、家内安全・交通安全を祈る人々を守るといわれている。「天正」(1573-15
92)とあるが建立年は読み取れない。
末武川の左岸に県道が走り、右岸の旧道に沿って集落が形成されている。
末武川に合わすと右手に米川小学校がある。1885(明治18)年瀬戸小学校として創立
され、その後、統合や校名変更などを経てきた。児童数の減少に伴い、2020(令和2)年
3月をもって休校となる。現在は7㎞離れた花岡小学校へスクールバスで通学している。
戦後の学制改革に伴い、米川中学校が創立されたが、スクールバスの運行と小学校の整
備を条件に、地区民の了承を得て、1968(昭和43)年3月に廃校となる。
その後、中学校の校舎を解体し、鉄筋コンクリート造2階建ての近代的な校舎が新築さ
れ、1970(昭和45)年小学校が移転する。校庭の片隅に中学校跡碑が建っているが、中
学校設立にあたって、安田家が所有地を提供されたが、安田家は萩藩士杉家に仕え、安田
郷に住み郷名から安田姓とし、のちにこの地に永住されたという。
コミュニティバスのうち下松市街地までの3便は、花岡駅・病院・買物ができるサンリ
ブ下松までと、米川地区内をエリアとする3便(予約制)がある。
昭和天皇即位を記念する御大典記念碑(1928)と御旅所。
右手に米川神社参道。
米川神社は、平安前期の貞観年中(859-877)出雲国より勧請して天王宮と称していたが、
明治政府の神社合祀政策により、1907(明治40)年河内社を合祀して米川神社と改称す
る。近くの墓地は妙音寺跡、1873(明治6)年創立の煤間(すすま)小学校下谷分校もこの地
にあったようだ。
下谷集落。
新万寿庵橋から見る菅沢集落。
多くの家は更新されている。
「牛神様」碑が田圃に中にあるが、農家が飼育する牛の無病息災を祈願して祀られた民
間信仰の神である。
耕運機が普及する昭和40年代(1965)に入るまで、農家は雌の子牛を飼育し、農耕に使
用すると同時に役牛として転売し、貴重な現金収入を得ていた。
緩やかな坂を下るが見るべきものはない。
この先で県道に合流する。(GSは自家消費とあり)
下松市米川出張所及び米川公民館の地には、1892(明治25)年から1970(昭和45)
年まで米川小学校があった。
1889(明治22)年町村制施行により、下谷、瀬戸、温見、大藤谷の各村をもって米川
村となり、1954(昭和29)年下松市に編入されるまで下谷は村の中心地であった。
米川神社近くに米川村役場があったが、1892(明治25)年1月火災により焼失。同年
10月この地に庁舎が新築され、1969(昭和44)年まで村役場、市出張所として使用さ
れた。右手に見えるのが村議会議堂棟。