ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市江崎は城の山一帯から相原山を巡る

2023年07月19日 | 山口県山口市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         江崎(えざき)は椹野川が流れ込む山口湾の西側にある。江戸中期頃までは嘉川村の内に含
        まれたが、1674(延宝2)年大渡開作などの完成により大村となり、1727(享保12)
        分村して現在は山口市大字江崎である。
         地名の由来は、干潟の入江であったことによるという。(歩行9.7㎞、🚻スーパー)

        
         JR新山口駅から宇部市営バス宇部新川駅行き約15分、幸(こう)の橋バス停で下車する。

        
         山陽本線を跨ぐ。

        
         国道190号線を南下すると、「城良輔の墓この奥50m」と案内されているので石垣
        傍の草道を辿る。

        
         城良輔は幕末から明治にかけて、医業のかたわら地区の人に漢学の私塾を開いていた。
        学制公布直前に閉じたが、屋敷・私塾の裏に墓所が残されている。

        
         さらに国道190号線を南下すると国道2号線が交差する。(歩道橋を利用)

        
         法正寺(真宗)は、推古期(7世紀初め)の頃、朝鮮半島より渡来した百済の琳聖太子が建
        立したと伝える。当初は同域内の原条にあったといわれるが、火災で記録を失い詳細は不
        明とのこと。
         もともとは天台宗であったが、室町期の1476(文明8)年改宗して浄土真宗になる。大
        内家滅亡の際に寺が炎上し、現在の地に移転したという。

        
         寺向い側の嘉川保育園には、1874(明治7)年岡屋・高根・原条の3集落と深溝地区が
        協力して岡屋小学が設置される。のち暴風被害や火災により校舎を失ったが、1881(明
        治14)年に再建されている。
         1888(明治21)年江崎・深溝両村の共有金で「興進小学校」が開校した時に廃された。
        ちなみに校名は江崎の「江」と深溝の「深」をとって「こうしん」と読み、「興進」の字
        をあてたという。

        
         国道2号線の開通などで一帯は大きく様変わりをしているが、大内氏時代には砦(出城)
        があったと伝承され、昔から「城の山(じょうのやま)」と呼ばれているという。
         その一角に厳島明神社が祀られているが、大内氏の重臣・内藤氏の鎮守社であったとい
        われている。

        
         明神社から直進して脇道に入り、国道の今津川第1函渠を潜ると左手に「井本文恭の墓」
        がある。
              文
恭(1795-1866)は嘉川村に生まれ、長じて三田尻(現防府市)に行き、能美玄順及び杉山
        宗立に医学を学ぶ。1825(文政8)年師・宗立に従って長崎に赴き、シーボルトの診察を
        見学した。嘉永年間(1848-1854)の初め、防長に天然痘が流行した時、藩が適任者を萩医学
        館(好生堂)に集め、種痘接種を伝授した時、文恭も宗立とともに加わる。

         1860(嘉永3)年夏から小郡地方の人々に種痘を行った。また、傍ら寺小屋を開いて付
        近の子弟の教育にあたるなど、大いに声望があったという。


        
         明神社まで戻って岡屋5函渠を潜り、国道190号線へ向かうとスーパーまるき前に「
        戦場ヶ原」の標柱が立つ。( )書きで「大内氏・毛利氏古戦場」とあるが詳細は知り得ず。

        
         再び歩道橋で国道を横断して岡屋ICを小郡方面へ直進すると、「海軍通信学校跡」の
        標柱がある。1944(昭和19)年海軍通信学校嘉川通信所が開設され、1945(昭和20)
        年7月戦局の悪化により長崎の海軍兵学校針尾分校が廃され、約600名が疎開してきた
        という。
         海軍防府通信学校内に針尾分校のために兵学校防府分校が併設され、78期生約4,00
        0名の少年たちが移ったとされ、その一部が分散されたのではないかと思われる。
防府分
        校では空襲で宿舎が消失したり、衛生状態が悪く
赤痢が流行するなど不運の中で終戦を迎
        えている。

        
         周防大橋を稲穂が取り囲むようにデザインされた農業集落排水のマンホール蓋。

        
         通信学校跡から南下すると興進小学校のグランド下に墓地があり、その一角に萩から岡
        屋に転居して漢学を教えたという「内山文平夫妻の墓」がある。道なりに南進すると今津
        川左岸に出る。

        
         今津川左岸を東進して東今津集落を過ごす。宇部線幸(こう)の江第2踏切を渡ってしまう
        と相原集落に行くことはできない。

        
         嘉川八十八ヶ所第36番札所付近に普賢堂(63番札所)があるとされるが、見つけ出す
        ことができず残念する。

        
         幸之江川に架かる今津橋で左岸に移動する。

        
         宇部線下今津踏切を過ごすと、再び今津川左岸に出る。

        
         相原山の麓に広がる相原(あいばら)集落。

        
         江崎開作の樋門は陸側に南蛮樋門(遮蔽版を上下に動かす)、海側には唐樋門(遮蔽版を海
        水圧で動かす)を設けている。
         波止の突端には漁業の神である「えびすさま」が祀られている。

        
         相原大橋(県道山口阿知須宇部線)の先に周防大橋(県道防府環状線)

        
         近世、干拓によってコメの生産が増大し、ここ相原港からも津出しされていたという。
        1965(昭和40)年代まで魚介類や海苔などの水揚げもあって栄えた港であった。(正面の
        山が相原山) 

        
         海岸線が整備されるまでは主要な道であったと思われる。

        
         集落内を周回して向原集落へ向かう予定にしていたが、登山道入口で出会った女性によ
        ると、道は整備されて小学生低学年でも登れるし、登山靴でなくても大丈夫とのことで登
        ることにする。先に進むと「やまぐち森林づくり県民税」で整備された旨の看板がある。

        
         ヒヨドリバナ(鵯花)と思われる花が見られる。

        
         歩きやすいように整備されており、坂には階段が設けてある。

        
         わずかで尾根分岐に上がると、道標には山頂まで5分と案内されている。

        
         山頂手前の石段を上ると、四等三角点と広場にはベンチと展望が用意されている。

        
         お伊勢信仰の名残りか「大神宮」の石柱が立つ。

        
         南に椹野川河口部と山口湾の先に九州の山々が浮かぶ。

        
         今津川と幸之江川が合流する地点には、コメの津出しだった今津港があったという。

        
         東に椹野川とその左岸に名田島開作、火の山連峰は横たわる。

        
        
         分岐まで戻って高見集落へ下るが、途中には道標もあって迷うことはない。(高見登山口
        から30分と表示)

        
        
         明神社の由緒等は不明とされるが、1907(明治40)年高見の厳島神社に岡集落の若宮
        八幡宮、相原集落の竜神社が合祀されたとされ、三対の狛犬があることに納得する。

        
         高見集落内を歩く。

        
         高見バス停より右手の路地に入り、31番札所前を右折すると原田宅があるが、私有地
        のため宅外より標柱のみ撮影する。(玄関先にあったと思われる)
         愛らしい赤子を抱いた石仏座像で、婚礼の際に地区の若い衆が婚儀の座敷に持ち込んだ
        ものとされる。

        
         相原集落からの道に合わすと向原集落。(振り返ると相原山) 

        
         向原集落内に「岡沖小学校跡」碑がある。1872(明治5)年に吉祥寺(大原)を借りて開
        校し、1875(明治8)年頃この地に移り、のちに江崎小学校と校名変更したが、興進小学
        校発足とともに廃された。

        
         この先、宇部線と山陽本線の踏切を越えてJR嘉川駅に出る。

        
         JR嘉川駅は、1900(明治33)年山陽鉄道三田尻(現防府駅)ー厚狭間の開通と同時に
        開業する。現在の駅舎は、1963(昭和39)年に改築された。
         長い歩きとなったが新山口駅から岡屋バス停(10:02)で下車して、向い側のスーパーまる
        き(10:37)よりコミュニティバスがある。高見さくら公園(10:46)で下車して逆回りをすれ
        ば時間と距離が短縮できたが、運行日が月、水、金に限定されている。