ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市唐戸はセブンハーバーの町 ①

2024年03月13日 | 山口県下関市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         唐戸は幕末から明治期にかけて、世界に門戸を開く上で大きな役割を果たした7つの港
        町(函館・新潟・横浜・下田・神戸・下関・長崎)の1つである。1894(明治27)年に唐
        戸湾の埋め立て工事が開始され、1896(同29)年に完成してできた町で、市街地東部の
        中心的な地域である。
         地名の由来は、唐戸湾が入海であった時代の樋・樋門による説と、唐渡(唐への渡し)があ
        ったからとする説など諸説あるようだ。(歩行約8.9㎞)

        
         JR下関駅からサンデンバス長府方面行き約6分、三百目バス停で下車する。

        
         蜂谷ビルは、1926(大正15)年に「東洋捕鯨株式会社」の下関支店として建てられた。 
        近代における日本捕鯨事業の中核を担い、大正期に日本の捕鯨事業をほぼ独占していた同
        社は、昭和期に企業合併して日本捕鯨㈱(後に日本水産)となり、日本で初めて南氷洋捕鯨
        を行う。(国登録有形文化財)

        
         関門海峡に面する岬之町(はなのちょう)の段上に建つビルで、窓の間にある垂直の間柱に
        はタイルが貼られ、外壁はモルタル仕上げとなっている。

        
         今は施錠されて内部を拝見することはできないが、2019(平成31)年に訪れた時、近
        所の方(所有者?)に内部を案内していただく。外観は捕鯨業の盛行を偲ばせる事務所建築
        であるが、内部は古びた空間で意匠などは見られない。

        
         2017(平成29)年3月から一部を飲食店として利用されていたが、看板は目にするが
        閉じられたようだ。説明によると、絵画など当時にあったものがここに保管されていると
        のこと。

        
         ビルから見える海峡タワーと下関商港。

        
         国道9号線を横断して観音崎へ向かう。

        
         永福寺入口に山陽道・赤間関街道の起終点一里塚跡の碑がある。1739(元文4)年の
        「地下上申絵図」や有馬喜惣太の「御国廻行程記」によると、門前に一里塚が描かれてい
        るとのこと。 

        
         石段の左手にある宝篋印塔は刻銘が読めず。

        
         永福寺(臨済宗)の寺伝によると、飛鳥期の611(推古天皇19)年に百済の琳聖太子が入
        朝の際、風光明媚な関門の地に念仏観音像を安置し、一宇を建立されたことに始まり、こ
        の地の地名が「観音崎」になったという。初め天台宗であったが、のちに衰微して荒廃し
        たが、鎌倉期の1327(嘉暦2)年南禅寺三世が中興して臨済禅の道場に改めたとされる。
         その後は代々大内家、毛利家の庇護を受けたが、1945(昭和20)年7月の空襲で一朝
        にして灰塵に帰す。

        
         お堂の中に「お賓頭盧(びんずる)さま」がお座りになっているが、釈迦の弟子の一人で神
        通力に優れていたが、世間の人に多く用いたため、釈迦の呵責を受けて涅槃を許させず、
        釈迦入滅後も衆生を救い続けるとされる。
         この像を堂の前に置き、自分の悪い部分を撫でると徐病の功徳があるとされ、撫で仏の
        風習が広がったとされる。

        
         寺は現在のやまぎん史料館の地にあったが、1917(大正6)年諸堂の老朽化により現在
        の地に移転する。
         「港の見える丘の径」は、JR下関駅近くの大歳神社から永福寺を経由して、南部町の
        寿公園に至る散策コースである。境内からは港の見える丘の1つとして、関門海峡を見渡
        すことができる。

        
         1920(大正9)年まで永福寺があった地に三井銀行下関支店の建物が竣工し、1933
          (昭和8)年に山口銀行の前身である第百十銀行本店となり、山口銀行の創立(1944年)か
        ら本店新築(1965年)まで本店として使用された。
         建物の外部は御影石で覆われ、古典主義様式のデザインを採り入れた意匠となっている。
        2008(平成20)年にやまぎん史料館として開館し、銀行の変遷などが紹介されている。
        
        
         1階は高い吹き抜けの営業室で、営業カウンター、亀甲張りのロビーが復原されている。

        
         南階段は建築当時の欅造り、手摺りはワニス塗りで絨毯も当時のものとされる。

        
         格天井と内部の壁は漆喰塗で、2階部分の四周には回廊が設けられている。回廊は2階
        の窓を開閉するためと思っていたが、アメリカの銀行を真似て建築されたが、当時のアメ
        リカでは強盗が多く発生していたため、銃を所持して警備する回廊であったという。(現在
        は2Fに上がれない) 

        
         萩藩馬関越荷方役所は、もと伊崎新地にあったが幕末期に移転する。倉庫業や廻船の荷
        主に資金を貸し付けるなどの業務を行う。収益は「撫育方」という特別会計に蓄え、明治
        維新実現の軍資金となる。(現西尾医院前)

        
        金子みすゞ詩の小径① (明治安田生命ビル)
         1923(大正12)年20歳となった童謡詩人・金子みすゞは大津郡仙崎村から母の嫁ぎ
        先である上山文英堂書店本店に移り住む。この地で結婚したが、1930(昭和5)年2月に
        離婚し、3月10日この地で26歳の短い生涯を閉じる。
         終焉の地には「みんなを好きに」の詩碑がある。
              私は好きになりたいな、
              誰もかんでもみいんな‥‥
         1927(昭和2)年頃の作品とされ、子供ができたが夫の素行に悩まされ始めていた。

        
         専念寺(時宗)の寺伝によれば、福生寺と号して飛鳥期の611(推古天皇19)年、百済の
        琳聖太子が開いた霊場であった。久しく天台宗であったが、鎌倉期の弘長年間(1261-1264)
        に一遍上人がこの地に留まった時に、これに帰依し、時宗に転宗して現寺号に改めたとい
        う。
         1945(昭和20)年の戦災で堂宇を焼失したが、後に再建されて今日に至る。また、幕
        末の下関攘夷戦当時、当寺の横に木守社砲台があり、大砲一門が据えられていたという。

        
         境内には明和九壬辰(1772)九月吉日、願主・山内□□?と刻まれた山内家の宝篋印塔が
        ある。

        
         菅原神社は平安期の正暦年間(990-995)に太宰府より分霊を勧請する。江戸中期に建て替
        えられた社殿は、戦災で焼失して再建立された際に、拝殿は亀山八幡宮より移設されたも
        ので、現在は亀山八幡宮の末社である。
         恵比須神社は岬之町の海岸線(素浦)に鎮座していたが、1857(安政4)年に菅原神社に
        相殿となる。2月9日の「ふくの日」には、豊漁や航海安全・商売繁盛を願って祈願祭が
        行なわれる。

        
         「港の見える丘の小径」を歩いて終点の寿公園前に出る。途中の左手には浄土宗の酉谷
        寺(ゆうこくじ)がある。。1576(天正4)年に建立されたが、引接寺から見て酉の方向にあ
        たることから、酉谷寺と称したともいわれている。

        
        金子みすゞ詩の小径② (寿公園内)
         右側の碑文には、明治36年(1903)長門市仙崎で生まれる。本名 金子テル。
         左側の「はちと神さま」という詩は、蜂から始まって蜂に戻っている。この世のすべて
        は無縁な存在でなく、1つとして無用なものは存在しないという。

        
         店舗の片隅にある道標。

        
         ろうきん下関支店は、1934(昭和9)年に旧不動貯蓄銀行下関支店として建築された。
        飾り気の少ない建物でオーダーも一番おとなしいトスカナ式である。

        
         下関市役所本館棟の片隅にある大国神社は、1802(享和2)年に出雲大社の分霊が勧請
        された。何回か遷座した後、2014(平成26)年に市役所新庁舎建設のため、又も移動さ
        せられたという。

        
        
         奈良期の741(天平13)年聖武天皇が国家の平安を祈り、全国に国分寺を建立する。長
        門国では下関の長府に設けられ、大内氏や長府毛利氏の庇護を受けていたが、維新後に寺
        勢が衰退する。
         1890(明治23)年旧地から廃寺となった大隆寺跡に移転したが、1945(昭和20)
        の戦災で堂宇などを焼失する。

        
        金子みすゞ詩の小径➂ (黒川写真館跡)
         1923(大正12)年5月3日に20歳の記念写真を撮ったのが、この地にあった黒川写
        真館(現在は村田写真館)といわれている。この頃からペンネーム「みすゞ」で詩を書いて、
        雑誌「童話」などに投稿を始める。
         詩碑には「山の子濱の子」があるが、町を見てきた山の子が見つけのは「小さなグミ」、
        町を見て浜の子が見つけたのは「鱗(うろこ)」とある。

        
         下関役所立体駐車場の西側に「赤間関在番役所」碑がある。「在番役所」とは長府藩が
        赤間関の行政を行うために設けた役所とのこと。
         赤間関は赤馬関とも書いたので、「馬関(ばかん)」と呼ばれることが多かったという。

        
        金子みすゞ詩の小径➃ (田中川弁財天橋)
         みすゞが商品館に通勤するために利用した橋とのこと。橋の欄干には「すなの王国」の
        詩がある。
         この大通りは、かつてのメインストリートで、明治後期には外国系の商社が軒を並べ、
        華やかな洋館が数多く建っていたという。

        
         下関市役所第一別館は、逓信省が全国主要都市に建設した電話局舎の1つで、現存する
        のは門司郵便局電報局庁舎の2棟だけである。1924(大正13)年に建築されたもので、
        フルーティングのある柱が並び、階段室塔屋のパラボラ・アーチ、三階には半円形の窓を
        配置している。
         1966(昭和41)年まで使用されたが、その後、下関市の手に移り、市庁舎別館として
        使用された。現在は田中絹代ぶんか館として利用されている。

        
         宮崎商館は、宮崎義一により石炭輸送業を営む商社として神戸で設立され、1893(明
        26)
年に下関支店を開設後、拠点を下関に移し大規模な石炭事業を営む。
         棟札から1907(明治40)年築とされ、旧英国領事舘と同様に、赤い煉瓦と白い石を使
        用し、正面の1階には、中央にアーチの玄関を設け、左右に縦長の窓を納めている。2階
        は5連アーチのベランダや軒の持ち送りの意匠が施されている。

        
        金子みすゞ詩の小径⑤ (商品館跡)
         下関に移り住むと、この場所にあった商品館内の上山文栄堂支店で働く。1926(大正
        15)年23歳の時に上山文栄堂の店員・宮本啓喜と結婚し、文栄堂の2階で新婚生活を始
        める。4月に文栄堂を出て関後地村に新居を移し、11月に長女が誕生する。詩碑には
        「キネマの街」が掲載されている。

        
         県道57号線(下関港線)の傍に貴布祢神社(五穀神社)がある。この付近を田中町といい、
        大古、平地は唐戸湾の入海だった所で、川の土砂が堆積して河原になり、やがて土地や田
        ができたとされる。

        
         林芙美子は、1903(明治36)年貴布祢神社入口にあったブリキ屋の2階で生まれたと
        いわれている。自叙伝でもある「放浪記」に下関が書かれている。
            どんなに苦しくっても
            田舎に居た時代が今では
            なつかしくてなりません。
            わたしの生まれたのは、
            山口県の下関です。  「思い出の記より」の一文 

        
         五穀の神(保食の神)が祀られ、1799(寛政11)年に神社が建立された。境内には福徳
        稲荷社が祀られている。

        
         教法寺(真宗)は、鎌倉期の元応年間(1319-1321)の創建と伝えられるが、記録がないため
        不明とされる。
         1863(文久3)年長州藩士で結成された撰鉾隊の屯所となったが、この寺に奇兵隊士が
        押しかけて騒動となり、この事件で高杉晋作は奇兵隊総督を免ぜられ、奇兵隊の本拠は秋
        穂へ移された。事件当時の本堂は、1945(昭和20)年の戦災で焼失する。

        
         本行寺(法華宗)は本能寺12世日承上人が、1552(天文21)年に九州種子島からの帰
        途、当地に立ち寄り随行した日圓上人が、日承上人の命で当地に留まり、約20年間布教
        活動の後、1571(元亀2)年に創建された。
         1718(享保3)年4月の大火で一切を焼失し、その後に中興されて今日に及んでいるが、      
        1945(昭和20)年の戦災で再び焼失したという。

        
         境内左側には、1864(元治元)年8月の四ヶ国連合艦隊下関砲撃事件(下関戦争)で、戦
        死した11人の名を刻んだ戦士塚や、1866(慶応2)年の小倉戦争(幕長戦争)で、戦死し
        た奇兵隊士の墓がある。

        
        
         平安期の809(大同4)年創建の末広稲荷神社は、赤間関最古の稲荷神社で町名にもなっ
        ている。 

        
         稲荷神社麓の稲荷町は、平家伝説とかかわって古い起源をもつが、遊郭が整備されたの
        は近世に入ってからである。全国25ヶ所の公許遊女町の1つであった。
         菱屋平七の「筑紫紀行」には、稲荷町という遊女町はありて、遊女屋34軒ありと記す。      
        北前船が日本海の荒波を多くの日数をかけて赤間関に着くため、船員はここでしばらく休
        息するのが慣行となっており、遊里の発達を促すことになる。汽船が発達して北前船の往
        来が少なくなるとともに衰退し、遊里は豊前田、新地へと移った。

        
        
         この辺り一帯は戦災で焼失し、当時の面影は残されていないが、遊女たちが安徳帝の命
        日には綺羅(きら)をかざって御陵に参拝したのが先帝祭の始まりという。その参拝道中は稲
        荷町の大坂屋という奴楼から出発したという。
         大坂屋は東京第一ホテル(廃業)がある地にあり、戦災で焼失するまでは、3階建ての豪
        華な店構えが遺っていたという。

        
         大きなドーム屋根が載っている赤間本通商店街。

        
        金子みすゞ詩の小径⑥ (赤間町銀天街商店街)
         1927(昭和2)年の夏に下関駅で西條八十に会い、11月には夫が上新地で食料玩具店
        を始めるが、この頃に発病する。「日の光」と題する詩碑が建立されている。

        
         銀天街商店街はシャッター通りとなっている。

        
         1901(明治34)年に全国3番目(箱館、横浜)の英国領事館が下関に開かれ、その5年
        後に英国人技師によって建築された。
         1941(昭和16)年太平洋戦争が始まると領事館は閉鎖され、1954(昭和29)年に下
        関市が所有して、下関警察署唐戸派出所などに活用されたが、旧英国領事館として復活す
        る。(国重文) 

        
         延べ面積323㎡の本館は、イギリス積みされた赤い煉瓦と窓、戸口のまわりは石を配
        置するというビクトリア調ゴジックを基調としている。付属屋(68㎡)は厨房、使用人、
        石炭庫の部屋などとして使用された。
         正面切妻中央の石には「1906」の年号が刻まれている。

        
         三連のアーチと1・2階の軒および腰に、ハンドコース(帯状石飾り)をめぐらせている。

        
         1階は領事室、海事監督官室、書記官室などで構成されていた。(旧領事室)

        
         2階は居間、寝室、浴室だったが、現在は飲食店として利用されている。(2009年撮
        影) 

        ~唐 戸②へ続く。


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