小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

憲法審査会が再開されたが、自民党草案は「改正」か「改悪」か? ③

2016-11-27 11:24:39 | Weblog
 自民改憲草案に対する批判を続ける。今回も9条「改悪」に絞って検証する。正直前回のブログは中途半端な終わり方だった。私のブログは長文なので、しばしば友人たちからクレームを付けられていた。とりわけ9月1日と10日の2回に分けて書いた『アベノミクスはなぜ失敗したのか?』は全文で2万字を超えており、雑誌に掲載すれば20ページを超える長文だった。そのため、友人たちから「疲れる」という指摘をいただき、11月21日に投稿した憲法改正問題の検証記事は6000字を超えた時点でストップした。実はこの原稿はすでに21日前に書き終えており、前回ブログの閲覧者の増減状態を見ながら投稿することにした。そのため、前回ブログを読まれた方はやや消化不良を生じたかもしれない。

 前回のブログで私が検証した事実の一つを想起していただきたい。第2次世界大戦後、国連を中心とした国際平和秩序がそれなりに構築され、第1次世界大戦、第2次世界大戦で列強同士が激しく争った「植民地獲得競争」は、ほぼ完全に終焉した。唯一現代の国際社会で「侵略戦争」を行ったのはフセイン・イラク軍によるクウェート侵攻だけである。この事実を認めない人は、日本の平和についても憲法についても語る資格がない。
 そして「湾岸戦争」の発端となったイラクのクウェート侵攻は世界に激震を生じた。クウェートは国連に提訴し、「国連軍」がまだ創設されていなかったため「多国籍軍」と称する事実上の「安保理によるイラクへの軍事制裁」が発動された。
 第2次世界大戦以降の、国際間の紛争は、アメリカの妄想によるイラク戦争(フセイン・イラクが大量の核兵器・生物化学兵器を隠し持っている、という妄想)と、イスラム過激派が起こした9・11同時多発テロを契機にアフガニスタンを事実上制していたタリバン政権による「国家によるアメリカへの攻撃」と、これまたアメリカが確たる根拠もなくタリバン勢力を攻撃したケースのみである。
 アメリカが世界中で最も信頼している同盟国のイギリスは、アメリカの要請を受けてイラク戦争に参加したが、イラクは核兵器も生物化学兵器も隠し持っていなかったことが戦後明らかにされ、イギリス政府は国民から猛烈な批判を浴び、それ以降イギリスはアメリカにも距離を1歩置くようになった。
 これらのケース以外に国際間の紛争は、戦後一度も生じていない。この重要な事実を事実として認めるか否かが、憲法改正問題についてのスタンスを決定づける。
 しかし、戦後、国際間の紛争は上記したケース以外に生じていないが、同盟国や親密な関係がある国の国内紛争に、アメリカや旧ソ連が傀儡政権を助けるために軍事介入したケースは多々ある。アメリカが他国の内戦に傀儡政権を支援するために軍事介入し、結果的に日本独立のきっかけとなった「朝鮮戦争」やベトナムの国内紛争に軍事介入して世界から非難を浴びた「ベトナム戦争」、ハンガリーの反政府運動やチェコのプラハの春を戦車で押しつぶした旧ソ連は、明らかに内政干渉であり、国連憲章51条が認めた「集団的自衛権」などではまったくありえない。
 そうした観点から考えれば、国連憲章51条が定めた「集団的自衛権」を行使したのは、フセイン・イラク軍に侵攻されて、国連安保理に救済を求めたクウェートだけである。
 国連憲章は、国連加盟国に対し「国際間の紛争の平和的解決」を義務付けており、もし加盟国が他国から侵略を受けた場合は国連安保理があらゆる権能(非軍事的および軍事的)の発動を認めており、他国から侵略された加盟国は国連安保理が紛争を解決するまでの間に限って「個別的又は集団的自衛権」の発動を憲章51条で認めている。
 にもかかわらず、同盟国の傀儡政権を「他国からの攻撃ではなく、国内の反政府勢力からの攻撃」から軍事的に守るために行った行為(国連憲章のいかなる条文も認めていない内政干渉)を正当化するために米・旧ソ連が強引に主張してきたのが「集団的自衛権の行使」という屁理屈にもならない口実による軍事介入だった。そしてアメリカの傀儡政権である日本の自民党を中心とした勢力が、内閣法制局の公式見解として定義したのが「同盟国や親密な関係にある国が攻撃された場合、自国が攻撃されたと見なして同盟国や親密な関係にある国を軍事的に支援する集団的自衛権を、日本も固有の権利として有しているが、憲法の制約上行使できない」というデタラメ解釈をしてきたのである。
 改めて再確認しておくが、戦後「集団的自衛権」を行使したのは、フセイン・イラク軍の侵攻を受けたクウェートだけである。「個別的」(自国の軍事力、日本の場合は自衛隊)であるにせよ、「集団的」(密接な関係にある他国の軍事力、日本の場合は在日米軍)であるにせよ、日本が他国から攻撃された場合にのみ行使できる「自衛のための軍事行動」である。だから国連憲章は、自衛権を発動する条件として「国連安保理が紛争を解決するまでの間」に限っている。

 が、安倍内閣が閣議決定し、衆院・参院で強行採決した安保法制は、単に従来の内閣法制局のデタラメ解釈を変更しただけでなく、日本政府の勝手な判断で密接な関係にある国が攻撃を受けた場合、その国からの要請がなくても軍事行動ができることにした。「戦争法案」と言われる所以はそこにある。安保法制による「武力行使(個別的及び集団的)の新三要件」を明らかにしておこう。
 ①我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は我が国と密接な関係にある国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること。
 ②これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと。
 ③必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと。
 この「武力行使の三要件」について、いざというとき誰が判断するのか。まさか最新鋭の人工知能を擁したロボットではあるまい。ということは、時の内閣と総理大臣が判断することになるのは自明である。たとえば①の前半部分は自明であるとしても後半部分の「我が国の存立が脅かされ…明白な危険があること」に恣意的な判断が入り込む余地がないとは言い切れない。②においても「他に適当な手段がないこと」は誰がどうやって証明するのか。③の実力行使を行う場合も、誰が武力行使の「必要最小限度」の範囲を決めるのか。

 憲法改正の気運が国民の間で定着しだしたことを、これ幸いと安倍総理は自民党の党則を変更してまで総裁任期を3年延長し、自らの手で何が何でも憲法を改正しようとしている。
 確かに現行憲法は現実とそぐわない部分もある。たとえば「主権在民」と言っても、現行憲法自体、帝国議会で成立され、日本が独立を回復したのちも国民の審判を仰いでいない。
 国権と地方自治権の関係も明確ではない。柏崎刈羽原発の再稼働を巡って再稼働に反対の元民進党で無所属の米山隆一氏が新潟知事選で勝利したとき、菅官房長官は「県民の意思は尊重しなければならない」と記者会見で述べた。(もっとも地元の柏崎市長選挙では容認派が勝利し、原発再稼働を巡って県と市でねじれが生じたが)
 一方、沖縄では県知事選、那覇市長選、衆参国政選挙のすべてで普天間基地の辺野古移設反対派が勝利を収めている。なのに、政府はアメリカとの約束のほうが県民の総意より優先すると考えている。
 実は「辺野古移設をためらうな」と主張している読売新聞読者センターの方と議論したことがある。論点は二つに絞られた。
 一つは日本の安全保障の観点である。普天間基地が世界一危険な基地であることについては政府も認めているくらいだから、問題にもならなかった。問題になったのは、果たして辺野古基地は「日本の安全保障のためなのか」それとも「アメリカの東・南シナ海ににらみを利かせ、中国の海洋進出に対する抑止力のためなのか」という点だった。私が論点をそう絞ると読売新聞読者センターの方はしぶしぶ「両方の目的があるんでしょうね」と言った。私が、本土からはるかに離れた沖縄の米軍基地が、なぜ日本の安全保障にとって欠かせないのか、と問い詰めると黙ってしまった。
 もう一つは「総意」を巡っての解釈だった。読売新聞読者センターの方は「沖縄県民のすべてが米軍基地に反対しているわけではない」と主張した。私も沖縄県民のすべてが米軍基地に反対しているわけではないことくらい承知だ。基地で働いている人や、在日米兵を相手に商売している人たちにとっては基地がなくなることは自分たちの生活を直撃する。そういう人たちにとっては基地がなくなることは困るに決まっている。が、今の沖縄では、そういう人たちが声を出せないことも理解できる。政治は、そのために機能しなければならない。
 民主主義という政治のシステムは「多数決原理」という大きな欠陥を抱えているが、一歩後退二歩前進あるいは一歩前進二歩後退を繰り返しながら、2000年以上の歴史を経て人類は蟻の歩みではあっても民主主義の政治システムを少しずつ成熟させてきた。その歩みを一気に後退させようというのが安倍改憲の意味するものだ。自民改憲草案の検証を続ける。

 前回の検証記事でも述べたが9条はその1条だけで憲法の第2章をなしている。その章目次が現行憲法の「戦争の放棄」から「安全保障」に変更されている。「安全保障」のためなら戦争するよ、ということだ。さらに9条は3つに分けられ、「第9条(平和主義)」「第9条の2(国防軍)」「第9条の3(領土等の保全等)」とされた。
 第9条の1項は現行憲法1項をほぼ踏襲しているかに見えるが、微妙に改ざんされている。現行憲法では「(武力行使は)国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とされているのを「(武力行使は)国際紛争を解決する手段としては用いない」と書き変えている。つまり、私の頭の悪さを証明しているのかもしれないが、「国際紛争の解決」以外の目的なら武力行使もいとわないと読める。どういうケースを想定しているのかは、不明だ。
 さらに現行憲法の2項は完全に削除され、「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない」と書き変えられている。自衛権は、すでに明らかにしたように我が国が他国から侵略された場合にのみ行使できる権利であり(国連憲章51条の規定)、自衛権を発動せざるを得ないケースはずばり「国際紛争を解決するため」ではないのか。明らかに自民草案は1項と2項で矛盾をきたしている。それとも私の頭が悪すぎるのか?

 自民草案の「第9条の2(国防軍)」に移る。この条文は、明白にこれまでの自衛隊の矛盾を解決することを目的としている。現行憲法は「戦力の保持」を禁じており、そのため自衛隊は「戦力」ではなく「実力」だという苦しい規定をしてきた。「戦力」ではないのだから、当然自衛隊は「武力行使」ができないことになっている。たとえばPKO(国連平和維持活動)に自衛隊が参加する場合も護身用の軽武器しか持つことが許されなかった。いま問題になっている南スーダンでの「駆けつけ警護」は、現に戦闘状態にある地域の邦人などを助け出すために自衛隊員が駆けつけることを意味しており、軽武器では不可能な任務になる。戦車などの重兵器は想定していないが、護身用ではなく攻撃用の武器が必要になる。国民的議論を経ずして、そこまで現行憲法下で踏み込んでもいいのか。良し悪しはともかく、安保法制を可決したからといって現行憲法の枠組みを閣議決定だけでそんなに簡単に変えてよいものなのか。
 自民草案の9条の2ノ3項で「国防軍の武力行使の範囲」が定められている。
「国防軍は、第1項に規定する任務(我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保すること)を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協力して行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる」とされている。ここでの問題は「国連安保理の要請」という絶対に外してはならない前提を意図的に無視していることだ。つまり、アメリカの要請にも、時の内閣が「国際社会の平和と安全を確保するため」と解釈すれば、たとえばイラク戦争のようなケースにも「国防軍」が「国際協力」の名のもとに参加できる余地を作ったことである。「戦争法案」の骨子となる条項がここに記載されている。安倍総理がいち早く、この改憲草案を手土産にトランプ次期大統領と面談し、良好な関係を築けた事情がここに隠されている。

 最後に第9条の3(領土等の保全等)を検証する。9条の2に比して極めて単純で明快だ。が、その目的のために安倍総理は領土奪還の戦争を始めるつもりなのか。とりあえず条文を転記する。
「国は主権と独立を守るため、国民と協力して、領土領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない」
 一見、日本の正当な権利の確保を訴えているように思えるが、現に韓国に実効支配されている「竹島」をどうするのか。また旧ソ連に不法占拠され、今もロシアに実効支配され続けている日本固有の領土である「北方四島」問題をどう解決するつもりなのか。
 従来日本は領土問題は平和的に解決することを目指し、水面下も含めて外交ルートや首脳会談を重ねてきた。が、「領土等の保全等」の条項が憲法第2章『安全保障』の中に含まれ、かつ9条の2「国防軍」の規定に続いて規定されていることに、私は大きな危惧を覚えざるを得ない。しかも「国民と協力して」とされていることは先の大戦で一般国民(女性も含めて)も巻き込んだ歴史的事実をほうふつさせるものがある。私の杞憂にすぎなければいいのだが…。

 憲法9条についての自民改憲草案の検証は、とりあえずこれで終える。
 しかし安倍政権による憲法改悪は、9条にとどまらない。現行憲法が世界に優れて理想を高々と掲げているのは9条に象徴される「平和主義」だけではない。「主権在民」「基本的人権の保障」を含む三大原則が踏みにじられようともしている。先に述べたように、「国権」と「地方自治権」の関係など現実社会が生み出している矛盾を現行憲法が抱えていることも事実だ。
 果たして自民改憲草案は、そうした問題にどう対応しようとしているのか。この検証作業は今後も続ける。