小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

改めて集団的自衛権問題と普天間基地移設問題を考えてみた…「民主主義とは何かがいま問われている⑬」

2015-05-11 06:18:57 | Weblog
「集団的自衛権」とは、いったいどういう権利なのか。国連憲章51条には、こう書かれている。

この検証のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国が取った措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。

 公式文書だから、堅苦しいのはやむを得ないが、私が分かりやすく要約したりすると、たちまち筆者の主張にとって都合のいいように解釈したという非難が飛び交いかねないので、原文を忠実に転記した。集団的自衛権について、国連憲章で扱われているのは、この51条だけである。憲章の他の箇所には「集団的自衛権」については一言も書かれていない。
 そのことを前提に51条を縦から読んでも、横から読んでも、はたまた斜めから読んでも、逆さまに読んでも、「集団的自衛権」は他国の攻撃から自国を防衛することに限定して、国連憲章が「国連加盟国の固有の権利」として認めた「自衛権」の一つであることに疑問の余地はない。しかも他国の攻撃から自国を防衛する手段として、国連安保理があらゆる権能を駆使しても紛争を解決できなかった場合にのみ、攻撃を受けた国には「自衛権」(個別的又は集団的)を行使してもいいですよ、と規定したのが憲章51条である。
 もともと「個別的自衛権」については国際間で議論になるようなことはなかった。他国から攻撃を受けた場合、自国の軍事力で対抗する権利は、わざわざ明文化しなくても歴史上「すべての国に認められている普遍的な権利」として世界共通の認識になっていたからだ。
 そういう「個別的自衛権」とともに「集団的自衛権」の行使を国連加盟国すべての「固有の権利」と憲章が認めたのは、素直に解釈すれば「自国の軍事力だけでは自国を守れない場合、親密な関係にある国に自国防衛の協力を要請してもいいですよ」というのが子供にも理解できる文理的解釈のはずだ。
 その自衛権の解釈を日本の場合に当てはめれば、敗戦によって日本の軍事力はGHQが完全に解体してしまった。いかなる場合でも、占領下に置いた国の防衛については、占領国側が責任と義務を負うというのも、歴史上「世界共通の普遍的認識」である。事実、日本を占領下に置いたアメリカは日本各地に米軍基地を作って日本の平和と安全を守る義務を果たしてきた。
 が、朝鮮半島で有事が生じ、日本を防衛するために配備されていた米軍の兵力は根こそぎ朝鮮戦争に駆り出されてしまった。その時期、日本は完全に丸裸になっていたのである。そのためGHQは日本政府に命じて警察予備隊を創設させた。日本が丸裸になったことによって国内の共産勢力が台頭するのを恐れたためである。だから警察予備隊には、他国からの攻撃に備えられるような軍事力を持つことまでは許されなかった。この、日本にとって戦後最大の危機とも言える状況について、のちにGHQ総司令官のマッカーサーは『回顧録』でこう語っている。

 ところで日本はどうなるのか。私の第一義的責任は日本にあり、ワシントンからの最新の指令も「韓国の防衛を優先させた結果、日本の防衛を危機にさらすようなことがあってはならない」と強調していた。日本を丸裸にして、北方からのソ連の侵略を誘発しないだろうか。敵性国家が日本を奪取しようとする試みを防ぐため、現地部隊を作る必要があるのではないか。

 こうしてGHQは日本の再軍備化に着手していくことになる。警察予備隊はあくまで国内の治安を守ることに限定されていたため、米軍から貸与された武器類もカービン銃、機関銃、ロケット弾発射筒、迫撃砲などにすぎなかった。これらの装備で国内の治安は維持できても、万一外国(当時の仮想敵国はソ連)からの攻撃を受けた場合、日本には自力で国土と国民を守る手段がなかった。こうして警察予備隊は「保安隊」に発展解消され、保安隊が「自衛隊」の母体になる。戦後、自衛隊の戦力も次第に整備され、いまでは中国に次ぐアジアの軍事大国として、アメリカから頼りにされるほどになった。
 一方サンフランシスコ講和条約調印によって独立を回復した日本は、しかし自国防衛のための十分な軍事力は有していなかった。そのため当時の吉田総理は講和条約調印と同時にアメリカとの間に日米安全保障条約を締結し、日本の安全と防衛を米軍に委ねる方針を採用した。もちろんアメリカにとっても共産勢力の南下を防ぐ軍事拠点として設けた日本や韓国、フィリピンなどにおける米軍基地は、自らの国益にとっても十分かなうものでもあった。
 日本は高度経済成長期を経て国力を回復させると同時に、自衛隊の軍事力の強化にも力を注いでいった。その過程で日米安全保障条約も改定され、日米軍事協力の在り方を細部にわたって定めるガイドラインも、たびたび改正されていく。集団的自衛権問題が浮上していったのも、そうした過程を経てであった。
 集団的自衛権の行使と憲法の関係について政府が正式にまとめたのが1981年5月に鈴木善幸総理による「答弁書」である(内容は内閣法制局が作成)。

 国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利を有しているものとされている。
 わが国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法9条のもとにおいて許容されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えている。
 なお、我が国は、自衛権の行使に当たってはわが国を防衛するため必要最小限度の実力を行使することを旨としているのであるから、集団的自衛権の行使が憲法上許されないことによって不利益が生じるというようなものではない。

 この「憲法と集団的自衛権」の関係が、従来の政府の公式見解であり、防衛省のホームページでも2014年7月7日15時までは、この政府見解がそのまま踏襲され「集団的自衛権は認められない」としてきた。
 なぜ「集団的自衛権」についての、こうしたおかしな解釈がまかり通ってきたのか。すでに書いたように国連憲章で「集団的自衛権」についての記述は51条に記載されているだけである。そして51条は、国連安保理が国際の紛争を解決できなかった場合に、他国の攻撃を受けた国連加盟国が「自衛」のためにとりうる手段について設けた項目であって、「自衛=自国の防衛」以外の目的での軍事力の行使を規定した項目ではない。そういう意味では、1981年に政府を通じて内閣法制局が発表した公式見解にある「集団的自衛権=自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」では、明らかにない。あまつさえ「わが国が国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、…憲法上許されていない」といったバカげた見解まで述べてしまった。
 なぜ内閣法制局ともあろうものが、このような集団的自衛権について誤った解釈をしてしまったのかは不明だが、我が国の憲法9条の解釈いかんにかかわらず、国連憲章は自国の防衛以外の武力行使(自国軍による個別的自衛手段および自国軍だけでは防衛できない場合に密接な関係にある国に自国の防衛に協力してくれるよう要請する権利=集団的自衛権)以外の武力行使は、いかなる国にも「権利」として認めていない。
 しかし実は米ソは冷戦時代、国連憲章が認めていない他国への軍事介入(内政干渉)を、「集団的自衛権の行使」を口実に行ってきた。
 例えばベトナムでの内乱へのアメリカの軍事介入(ベトナム戦争)、東欧共産圏のチェコスロバキアやハンガリー、ポーランドなどの反政府運動に対するソ連軍の弾圧など、どのケースをとっても外国からの侵略行為に対する防衛のための軍事介入ではなかった。が、国連憲章が認めていない「密接な関係にある国」に生じた国内紛争への軍事介入を米ソが「集団的自衛権の行使」と正当化し続けたため、いつの間にか法的根拠がないにもかかわらず、「集団的自衛権は紛争当事国以外の第三国が紛争に軍事的に介入できる権利」という誤解が定着してしまったのだろう。
 わが国内閣法制局が集団的自衛権について「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」と勝手に解釈し、「我が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法第九条のもとにおいて強要されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えている」としたのは、米ソの屁理屈に振り回されたためと考えるのが文理的である。
 改めて、今回のブログの冒頭に帰した国連憲章第51条を熟読してみて頂きたい。個別的自衛権も集団的自衛権も、「国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」にのみ行使できる固有の権利であり、武力攻撃を受けた国が自国の軍事力で防衛する権利(個別的自衛権)と、自国の軍事力だけでは自国を防衛できなかった場合に密接な関係にある第三国に軍事的支援を要請する権利(集団的自衛権)であることは中学生にも理解できる文理的解釈である。国連憲章51条のどこをどう読めば、内閣法制局のようにチンプンカンプンな解釈が可能になるのか、中学生でも頭を抱えてしまうに違いない。

 これまでも何度も書いてきたように、私自身は一国平和主義者ではない。戦後70年、日本がそれなりに平和を維持できたのも憲法9条のおかげだなどと考えている「平和ボケ」した連中とも違う。現行憲法の作成過程にはGHQの関与が相当あったことも事実だが、GHQによって日本が武装解除されていなくても、戦後の日本には戦争によって外国を侵略できる軍事力などなかったし、また「先の不幸な時代」と異なり力で他国を支配するようなやり方は、憲法9条がなくても国民が許さなかったに違いない。
 だが、戦争直後の日本の国力や国際社会に占めていた地位や国際の平和と安
全のために果たすべき責任は、現在のそれとは雲泥の差がある。経済力においては中国に抜かれはしたが、世界3位の地位を維持しており、アジア太平洋地域においてもわが国の軍事力は米中に次ぐ規模に達している。GHQとすったもんだの交渉を経て現行憲法を作り上げた日本側の最高責任者だった故・吉田茂総理も、1992年1月に上梓した回顧録『世界と日本』(中公文庫)において、
「すでに経済的にも技術力においても世界の一流国と伍するようになった現在、いつまでも自国の安全を他国に頼ったままでいいのか」と、憲法改正の必要性を訴えている。
 現在、安倍総理は憲法改正も視野に入れながら、憲法を改正しなくても「憲法解釈の変更」によって事実上、憲法による制約を無効化しようとしている。集団的自衛権は、すでに述べたように自国防衛のために密接な関係のある国に軍事的支援を要請できる権利のはずなのに、他国(具体的にはアメリカとオーストラリア)のために実力を行使出来る(つまり自衛隊の軍事力を行使すること)ようにしようとしている。憲法を改正せずに、アメリカやオーストラリアのために自衛隊の軍事力を行使できるようにするのであれば、ことさらに憲法を改正する必要はあるまい。
 安保法制については、これから国会で集中的に議論されるはずだから、野党がどこまで安倍内閣の「憲法解釈の変更による集団的自衛権行使の容認」方針の欺瞞性を追求できるか注視していきたい。
 
 今回のブログを終えるにあたって最後に普天間基地問題に改めて触れておく。9日に中谷防衛相が翁長知事と初めて会談した。さすがに「粛々と…」という言葉だけは中谷氏も使わなかったようだが、政府の主張が一歩でも軟化したわけではなかった。
 中谷氏は辺野古移設について「日米同盟の抑止力の維持と普天間基地の危険性の除去を両立させるための唯一の解決策だ」と改めて強調しただけだった。一方、翁長氏は「移設は不可能であり、絶対に反対する」として政府に移設計画の断念を求めたようだ。
 私はこれまでもこの問題に関して、一貫して沖縄県民の総意を無視した安倍内閣の中央集権主義的手法であり、民主主義とは相反すると、ブログで書いてきた。あくまで政府が中央集権主義的手法を貫くというなら、地方行政の在り方を一変して県や市町村などすべての地方行政組織は国の出先機関に変えるべきだとすら申し上げてきた。もちろん膨大な税金を使っての地方議会議員選挙など直ちに廃止すべきだとも。そんな「歴史を逆行させる行為」を国民が総意として認めるならば、という前提だが…。
 ここまで国と県の対立が深刻化してしまった以上、政府は政府がアメリカと
約束したことのほうを強行すべきか、それとも沖縄県民の総意を尊重すべきか、について国民投票を行うべきだろう。その場合、政府は国民に対して、「沖縄に米軍基地を集中させていることが、なぜ日本にとって最大の抑止力になるのか。米政府は沖縄基地の負担軽減を約束していると主張しているが、基地負担を軽減するというのが単なる口約束でないなら、まず世界一危険とされる普天間基地を廃止するか、即グアムに移設できない事情の説明。アメリカの沖縄基地負担軽減プログラムを具体的に開示したうえで、普天間に限らず沖縄に偏在している米軍基地をどう軽減していくのか、米政府の具体的なタイム・スケジュールを公文書化すること」が最低の説明義務になる。
 翁長知事もかたくなに「移設計画は絶対に認めない」との反対姿勢を繰り返すだけでなく、「沖縄の米軍基地が日本の抑止力として必要だというなら、その理由を日本国民や沖縄県民が理解できるように説明せよ」と要求すべきだし、まして普天間基地の辺野古移設が「誰にとっての唯一の解決策と政府は考えているのか」という最も肝心な点を厳しく追及すべきだろう。「日本の抑止力維持にとっての唯一の解決策」というなら、少なくとも日本の国防計画の中で米軍辺野古基地建設がどういう位置を占めるのかを明確にすべきだと主張すべきだ。アメリカのアジア東南海支配のために沖縄の基地が必要だというなら、それは沖縄県民の了解をとってからの話ではないか、とも。

 いずれにせよ、沖縄県民の総意を無視して政府が普天間基地の辺野古移設を強行するのであれば、「日本の民主主義は死滅の危機に瀕している」ことを全国民は噛みしめるべきだ。私自身は何度も書いてきたが、沖縄には観光旅行で2,3度訪れだけだ。とりわけ沖縄に親しみを感じているわけではない。だから今回の問題に関してはいっさい私の私情が入り込む余地がない状態で『民主主義とは何かがいま問われている』というブログ・シリーズを書いてきた。
 橋下徹・大阪市長の「大阪都構想」は大阪市民による投票だけで是非を問おうとしており、民主主義的手法としてはやや乱暴という感じを受けざるを得ないが(大阪都構想は大阪市を大阪都に変えるのではなく、大阪府を大阪都に変える構想である以上、大阪府の有権者すべてを対象に府民の総意を問うべきだからだ)、一方普天間基地移設問題は名護市長選、沖縄県知事選、先の総選挙のすべてで沖縄県民の総意が明確に示された。日本の民主主義の在り方を考える場合、そのことの意味は地球より重い。