小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

朝日の論説委員室は精神分裂集団になったのか ②の続編

2008-06-04 10:02:59 | Weblog
 ひやひやしながらこの記事の前編を「投稿」したが、パソコン画面に無事「投稿が完了しました」との表示が出たのでほっとした。では続編を書く。

 朝日の「新人材バンク」に対する悪意丸出しの批判はまだ続く。6月2日には安倍首相に『少し頭を冷やしては』と、一国の首相に対し『赤旗』ならいざ知らず、子ども扱いするような表現で批判した。
 もちろん政府に対し、常に国民的視点から厳しい批判精神を持ち続けることはジャーナリズムの義務と言っていい。だから時には政治権力のトップにある首相に対しても厳しい表現で批判することは大切だ。が、「少し頭を冷やしたは」と言うのはたとえば親が子どもに対して、あるいは上司が部下に対して、小学校の先生が生徒に対して、半分からかい気味なニュアンスでたしなめるときに使う言葉だ。朝日の論説委員室はいつから一国の首相に対してそのように上から見下して「ご説教」が出来るほどの権力集団になったのか。
 政治家や官僚がちょっとでも口を出そうものなら、たちまち「言論の自由」を錦の御旗のごとく振りかざして「言論弾圧」と金きり声を上げて反発し、読者の批判はすべて黙殺(その証拠にどの新聞も読者の『投稿』欄は設けているがその新聞に対する批判的な投稿は採用されたためしがない。あげく、フェアで論理的な批判を受け、反論の余地がなくなってしまうと、私のように手厳しい批判をする読者に対しては「悪意の読者」と極め付け、「悪意の批判には一切答えない」と居直る。そのうえ同業者間では相互批判をしないという暗黙の「村社会」を構築し、言いたい放題、書きたい放題の絶大な権力をほしいままにしているのが読売と朝日である。
 ただ読売のほうがまだましなのは、読者センターの人数も朝日の読者広報のほば倍、朝日の読者への対応は平日の午前9時~午後9時、土曜日は午後6時まで、日曜・祝日は休みにしているのに対し、読売は年中無休で午前9時~午後10時まで読者の声に耳を傾けている。それだけでなく、読売の読者センターも個人差はあるが、おおむね私の批判に対しフェアに対応してくれる。たとえば新人材バンクについての社説(前編の冒頭で記述)に対して批判の電話をしたときも「おっしゃることはごもっともと思います。必ず論説委員に伝えます」とフェアな対応をしてくれた。私のブログで『読売の年金改革提言は中学生以下のレベルだ』と題した記事を読んだ読者センターの人は「よくここまでお調べになりましたね。計算方法もフェアだし、私には反論できません」と正直に話してくれた。
 それに引き換え、私の批判に反論できなくなったとたん、私を「悪意の読者」と極め付けて批判を免れようとする朝日。私が子どものころは朝日が新聞界の王者として君臨していたが、今は見る影もない。読売に200万部も差をつけられて、さらに部数は減少の一途をたどっているようだ。読売との比較は本題から外れるし、私は読売をヨイショするつもりもないので本題に戻るが、朝日の読者広報が読者の善意の批判(朝日のためを思っての批判は当然厳しくなる。そういう認識を読売の読者センターの多くの社員は持っているようだ)に対して敵意をむき出しにしている間は、朝日の論説委員室の体質も変わらないだろう。なぜなら朝日の読者広報が社説への読者の批判に対する防波堤の役割を果たすことが自分たちの義務だと考えている間は、読者のどんな批判も絶対に論説委員室に伝わらないからだ。ただし読売にも私の批判に敵意をむき出しにして「聞く耳持たぬ」人もいないわけではない。
 さて阿倍首相に対して『少し頭を冷やしては』と思い上がりも甚だしいアドバイスをした朝日の社説はこう述べた。
   政府の新人材バンク構想は、そもそも天下りを前提にしたものだ。それで談
  合社会の根を断てるとはとても思えない。あっせんを一元化しても、政府の予
  算や許認可と引き換えに民間が再就職を受け入れる、天下りの構図は変わりそ
  うもないからだ。
   公務員の再就職と役所の権限とが絡む構造をどう断ち切るか。公務員の意欲
  をそがないような人事制度も含め、幅広く対策を考えねばならない。
 一見もっともな主張に見える。「絵に描いた餅」に等しい主張をいかにももっともらしく書くテクニックだけは、朝日の論説委員も身につけているようだ。もし朝日が、政府構想に替わる「政官財癒着のトライアングル」を一気に破壊できるアイディアを提言して、それが実現可能なものだったらこの社説を私は諸手をあげて支持したし、朝日は往年の権威を取り戻すことも出来たとすら思う。しかし朝日の主張は常にそうだが難癖をつけるだけで、本当に日本を変えようという建設的な提案など一度もしたことがない。ただひたすら「絵に描いた餅」をいかにもっともらしく見せるか、という詐欺師的テクニックを磨くことにのみ研鑽を積んできただけなのだ。
 東名高速道路で酒に酔っ払った状態でトラックを運転し、乗用車に追突して乗用車を炎上させ、後部座席に乗っていた二人の幼い女の子を殺した運転手が裁判で受けた量刑がたったの4年だったことに、世論の憤激が社会的なうねりとなって道路交通法が改正され、危険運転致死罪が新設されて最高10年(その後も改正が続き現在は20年)の量刑が課せられるようになったが、それで飲酒運転は断ち切ることが出来たであろうか。『交通安全白書』によれば、確かに飲酒運転事故は減少しているが完全に飲酒運転を撲滅することなど、大昔にアメリカが作った「禁酒法」がどういう結果を招いたかを考えてみるだけで明らかだ。朝日が政府に要求したような「天下り絶滅」「談合社会の根絶」など絵にも描けない餅でしかない。そんなバカな主張をした社説に社内から批判の声が上がらないほど朝日の現状は絶望的状態になっているのだ。
 朝日の非論理的主張はまだ続く。6月21日の社説ではこう主張した。
   いまは省庁ごとに行っている官僚の天下りを禁じる代わり、内閣に新人材バ
  ンクをつくって一元的に再就職をあっせんする。それが(新人材バンク)法案  の核心だ。
   つまり、政府案が通っても、依然として天下りはなくならないのだ。これで
  官製談合や税金の無駄遣いを根絶すると言われても、説得力を欠く。
   首相にすれば、年金問題への有権者の怒りをかわすためにも、この法案を成
  立させて「公務員たたき」を焦点のひとつにしたいのだろう。だが、天下り温
  存では真の対策にはならない。
 もうこの主張に対する批判を繰り返す必要はないだろう。朝日が社説で一言一句変わらないと言い切ってもいい主張は4度目の繰り返しであり、いちいちそれに反応して同じ批判を私も繰り返すことは、このブログの読者に対してあまりも失礼だからだ。
 すでに書いたが、私は朝日の読者広報の大半から「悪意に凝り固まった読者」と思われている。どうやら読者広報ぐるみで私をそう極めつけることにしたようだ。 実は今年3月18日、朝日は17面の半分の紙面を割いて『朝日新聞出版4.1START!』と題する「記事っぽい書き方をした広告」(私の認識)を掲載した。が、紙面のどこにも「広告」という表示がない。で読者広報の「問い合わせ」のほうに電話して、この紙面になぜ「広告」表示がないのかと聞いた。電話に出た方は紙面を仔細に検討した後「何故でしょうかね。私にもわかりませんので広告審査に回します」と電話をつないだ。その電話に出たのが広告審査の岡野氏だった。彼は即座に「記事だからです」と答えた。広告審査部門の岡野氏が即座に「記事だ」と答えることが出来たということは、この紙面を広告審査部門が担当したことを意味する。もし彼がこの紙面にぜんぜんタッチしていなかったら、「私は関与していないからわからない」と答えるはずである。つまり「記事」だったらタッチできるはずがない岡野氏が「記事だ」と断定したことで彼は自ら墓穴を掘ってしまったのである。
 私は即座に岡野氏が「記事だ」と主張した根拠を聞いた。岡野氏は「この紙面は編集部が作成し、編集部の記者が書いたから記事です」と答えた。だがその後の私の調査によって岡野氏の言ったことがまったくのウソであることが判明した。実際には出版局が作成した紙面で、編集部はまったくタッチしていなかったのである。その事実を知った上で岡野氏に再度電話して「あなたウソをつきましたね」と言ったとたん、岡野氏は「申し訳ありませんでした」と謝った。
 ところが、読者広報の「意見」のほうにこの紙面について聞くと全員が「記事です」と岡野氏と同じくウソをついたのである。部長代理の一人だけが「稚拙な紙面だと思います」と言ったが、その部長代理ですら「記事扱いしたのは間違いだった」とは言えなかった。そうした経緯を経て私は、その紙面は朝日のトップが「記事扱いにする」と決定したのではないかという確信的疑問を持ったのである。
 もし朝日が組織ぐるみで「記事扱いにする」と決めていなかったら、読者広報の「意見」担当者がそろって「記事だ」と主張するはずがない。問題はそうした決定に対して「読者からの批判に答えられない」と反旗を翻した社員が一人もいなかったということである。さらに朝日の読者広報には部長代理が二人いるが、二人とも調べもせず、「岡野は勘違いしたんです」とかばったのである。
 もし本当に記事だとしたら、朝日の編集長が、朝日の出版局が分離独立することは全紙面の半分を割くに足るだけのビッグニュースと判断したことを意味する。そうなると今年に入ってから出版界を本当に揺るがした二つのビッグニュースである草思社の倒産や漫画全盛時代を築いたマガジンとサンデーの提携を、朝日はどれだけのスペースを割いて報道したかを問題にせざるを得なくなる。当然朝日は、草思社の倒産やサンデーとマガジンの提携という、まさに出版界に激震が奔った大事件より、朝日が出版部門を分離して子会社化したことのほうをニュース価値が大きいと判断したことになり、そうなると朝日のジャーナリズムとしての資格さえ問われかねなくなることに誰も気づかなかったのかという疑問が生じる。そのことを指摘し朝日の危機的状況に対する告発を文書にして朝日の秋山社長宛てに送り、今は削除したがブログでも告発したことが、朝日が私を「悪意に満ちた読者」と位置づけることにした原因である。私は悪意があってこの事件(いずれ朝日も私の批判を記録に残していれば、大きな汚点を作ってしまったと、反省される時期が来ると思うが)をしつこく追求したわけではない。ただこの事件を追及した私を「悪意の読者」扱いすることで、自浄能力をもう失っていることを自ら明白にした朝日の体質改善は、明治以来続いてきた「政官財癒着のトライアングル」を崩すのと同じぐらい困難な道になるだろうことだけは疑う余地がない。

 もうこの記事の文字数が4500を超えた。この続きは続々編で書く。