小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

悲惨な交通事故の責任はだれが負うべきか……検察はなぜ警察庁長官を起訴しないのか。

2019-05-13 01:37:40 | Weblog
 高齢者の自動車事故が急増している。最近も(4月19日正午過ぎ)、東京・池袋で、自転車で横断歩道を渡っていた31歳の若い母親と3歳の女の子が87歳の高齢男性が運転する乗用車にはねられ死亡する事件が生じた。この男性は旧通産省工業技術院の元院長、2年前の17年には免許を更新して、75歳以上の更新者に義務付けられている認知機能検査を受けて「記憶力や判断力に問題はない」と判定されていたという。事故当時、元院長は時速100キロ程度の猛スピードで暴走していたとみられ、警視庁は元院長を自動車運転致死傷処罰法違反(過失運転致死傷罪)容疑で捜査するという。
 一瞬にして最愛の妻と幼い娘を失った夫は4月24日、都内で記者会見を行い悲痛の声を振り絞った。
「この悔しさはどれだけ時間がたっても消えない。娘がこの先どんどん成長して大人になり、妻と私の元を離れ、妻と寿命が尽きるまで一緒にいると信じていた」
 夫の男性は、必死に涙をこらえながら、「(ドライバーが)不安を感じた時の運転、飲酒運転、あおり運転、運転中の携帯電話の使用などの危険運転をしそうになった時、思いとどまってくれるかもしれない」と、妻と娘の死を無駄にしたくない思いを切々と訴えた。
 が、この元院長の事故を含め、増え続ける高齢者の自動車運転事故を、運転手の責任を問うだけで終わらせてはならない。最大の問題は高齢者の運転免許更新制度にあり、当然、警察機構の最高責任者である警察庁長官の責任問題にまで発展させるべきだと、私は考えている。

 平成29年度の『交通安全白書』によれば、75歳以上の運転手の死亡事故件数は75歳未満の運転手と比較して、免許人口10万人当たりの件数が2倍以上発生しているという(警察庁資料による)。また警視庁のホームページによると、高齢者(65歳以上)が起こした自動車事故件数は平成22年の6979件をピークに減少に転じ(※免許返納キャンペーンによると思われる)、28年度には最少の5703件に減ったが、その後再び微増傾向に入っている。自動車事故そのものは毎年減少しているが、自動車事故全体に占める高齢者ドライバーの割合は年々増加している。
 実は私は70歳の誕生日を迎えた時点で免許を更新しなかった。当時はまだ返納制度がなかったし、マイナンバー制度もなかったので、本人確認の証明書はパスポートと健康保険証だけとなった。私が70歳になったら免許の更新をしないことを決めたのは67歳の時で、その時警察庁長官あてにかなり長文の文書を送った。もちろん返答はなかったが、朝日新聞お客様オフィスには電話でそのことを伝えたら、「もし、その文書の原文が残っていたらFAXしてほしい」と言われFAXしたが、朝日新聞も私の提案を紙面に反映することはなかった。私が警察庁長官に送った文書は2通あり、1通目は2008年5月10日、2通目は25日である。全文を転載するのは消耗なので、要約する。
5月10日付の文書ではこう書いた(要約)。
「私は毎日フィットネスクラブで汗を流しており、エアロビクスもやっていますが、運動神経(反射神経?)が確実に年とともに後退していくことをいやというほど知らされるのがエアロです。私が70歳になった日、つまり免許の有効期間が切れる日に運転を辞めることにした最大の理由です」(※この後、この文書では免許証発行の手続きの簡素化についての提案を書いた)
2通目の文書では高齢者免許更新について具体的な提案をした。2通目の文書を書く前日、娘の家に行って5歳の孫と任天堂のテレビゲーム「ウィ・フィット」で遊んだ。この文書では「前の文書で、私は70歳の誕生日を迎えた時点で免許証の更新をしないことをお伝えしたが、その理由はエアロをしていて、高齢者になった時、例えば路地から子供が飛び出したようなとき急ブレーキを踏むか、急ハンドルを切って電柱に車をぶつけても子供を避けるかといった、とっさの時の正確な判断と、その判断を下す反応スピードについて自信が持てなくなったからです」と書き、「じいちゃんもやってごらん」と挑発されてウィ・フィットに挑んだが、5歳の孫にまったく勝てなかったことで、かなりのショックを受けたことも伝えた。そのうえで、最寄りの教習所に電話をして更新時の講習内容を聞いたことも書いた。その個所だけ全文掲載する。
「私の提案ですが、任天堂と共同で判断力や反応速度を3分くらいで測定できる装置を開発し、70歳以上の高齢者の免許更新時には視力だけでなく、とっさの時の反応スピードと判断力を検査項目に加えられてはいかがでしょうか。現在70歳を超えた人が免許の更新をする場合は民間の教習所で3時間の高齢者講習を受けなければなりませんが、講義を除けば本当に必要なとっさの時の反応スピードや判断力の検査は行われていないのが実情です(実際に最寄りの教習所に高齢者講習の内容を聞きましたが「15分ほど車に乗ってもらうが、ハンドルを握らなくても乗っているだけでいい」ということでした。
 いま私の手元にはインターネットで検索した交通安全白書の19年版に記載されている『道路交通事故』をプリントしたもの(8ページ)がありますが、高齢者が起こす自動車事故は平成元年の3倍に達しています(全年齢層の事故総数は65%に減っているのにです)。この高齢者事故をどうやって減少していくかが、飲酒運転の撲滅とともに全国の警察組織が全力で取り組まなければならない課題だと考えています」
 この文書がある程度効果あったのかどうかは、警察庁から何の返答もないので不明だが、その後、高齢者免許更新時には実際に教習所で運転操作の実技テストが行われるようになったし、75歳を超えた後期高齢者には認知症検査も義務付けられるようにはなった。が、実際に認知症検査で高齢者ドライバーの事故を減らすことができたのか。「減らすことは不可能だ」という検証をする。

 警察庁のWebサイトによれば、認知症検査は「記憶力や判断力を測定する検査で、時間の見当識、手がかり再生、時計描画という3つの検査項目について、検査用紙に記入して行います」とある。具体的には、
① 時間の見当識…検査時における年月日、曜日および時間を回答する。
② 手がかり再生…一定のイラストを記憶し、採点には関係しない課題を行った後、記憶しているイラストをヒントなしに回答し、さらにヒントをもとに回答する。
③ 時計の文字盤を書き、さらに、その文字盤に指定された時刻を表す針を書く。

おい、高齢者をバカにするのもいい加減にしろよ。こんなテストは幼稚園の入園試験レベルではないか。確かに幼稚園児並みの記憶力があるかどうかのテストにはなるだろうが、このテストで「とっさの時の判断力」が分かるのか。あっ、そうか。警察が要求しているのはとっさの時の判断力ではなく、数時間考えて結論を出せばいいということか。ということは、高齢者は自動車を運転してはいけないということになるではないか。
肝心の事故を起こした87歳の男性は骨折(ホント?)で入院したということで、警視庁は現行犯逮捕を見送ったというが、ネットでは「高級国民だからか?」といった批判が殺到しているらしい。「高級国民=元高級官僚」という意味のようだが、警察機構もそこまでは腐っていないと思う。政治家でも、悪さをすれば「お目こぼし」などしないから、元高級官僚だからといって特別扱いすることはありえない。が、元高級官僚といえども、とっさの時の判断力は加齢とともに失われていくのは当然だ。そういう意味では、そうした人に幼稚園の入園試験程度の「認知症検査」で免許を更新させた側、つまり警察機構の責任のほうが、事故を起こした元高級官僚よりはるかに重い。が、その責任を問うべきなのが、警察機構そのものなのだから、始末に負えない。
私は14年1月10日から17日まで5回連載で『法務省官僚が世論とマスコミの感情的主張に屈服して、とんでもない法律を作ってしまった』と題するブログ記事を書いた。実は危険運転致死傷罪が成立したのは1999年11月に飲酒運転のトラックが前方を走行していた乗用車に衝突し、乗用車が炎上して後部座席に乗っていた幼い姉妹が亡くなった事故がマスコミで大きく報道され、その事故を起こした運転手に対する罰則が当時は自動車運転過失致死傷罪(業務上過失致死傷罪の中で自動車事故に限って設けられた量刑)の適用で、7年以下の懲役または100万円以下の罰金とされており、「飲酒運転によって失われた幼い姉妹の命の代償がそんなに軽くていいのか」という怒りの声が全国的に広がったことがきっかけだった。私が書いたブログのさわりの部分を転載しておく。官僚がいかに場当たり的な対策しか考えないという貴重な証拠だ。

(法務省官僚が)世論やマスコミの主張に配慮して業務上過失致死傷罪から切り離して悪質な自動車事故に対する刑罰として2001年に危険運転致死傷罪が設けられ(最高懲役20年)、さらに自動車事故抑止のため2007年には自動車事故過失致死傷罪(最高懲役7年)が設けられた。(中略)裁判官が運転手を危険運転致死傷罪に問うケースはほとんどなく(適用要因が極めて限定されていて、立証が困難という検察側の事情もある)、大半は最長7年の懲役刑である自動車運転過失致死傷罪しか適用できない状態が続いていた。その後しばらく社会問題化するような自動車事故が発生しなかったため(厳密に書くとマスコミが大々的に報道するような事故のこと)矛盾が表面化するようなことはなかったが、11年4月に栃木県鹿沼市でてんかんの持病を隠して運転免許を取得していたクレーン車の運転手が児童6人を死亡させ、翌12年4月には京都府亀岡市で無免許の少年が集団登校の列に突っ込み生徒と保護者が死傷した事故が発生し、被害者や遺族が危険運転致死傷罪に問えるよう声を上げ、マスコミもこれを支持したため法務省も無視できなくなり、13年11月に「自動車運転致傷行為処罰法」という法律(あくまで罪名ではない。つまり道交法と連動した自動車事故の加害者に対する刑罰の隙間を法律で埋めるという小手先のごまかし)を成立させた。この法律の施行により危険運転致死傷罪の適用対象の拡大と同時に「過失運転致死傷アルコール等影響発覚免脱罪」(最長12年の懲役刑)が設けられた。
何度も繰り返すが、私は法曹家ではない。一人の良識人として素朴な疑問を呈しておきたい。
まず、なぜ自動車事故の加害者に対して一般刑法の中での量刑を適用しないのか、という疑問である。わざわざ自動車事故に関してのみ一般刑法とは別の量刑体系の罰則をなぜ設ける必要があったのかという問題である。(中略)この事実はかなり知られていると思うが、空手やボクシングの選手がけんかをして相手を殴って怪我をさせたり死に至らしめた場合、こぶしは凶器とみなされる。
では道交法は何を目的に作られているのか(自動車を運転する場合に限定する)。「車は走る凶器だから、安全に運転するよう規則を定めたもの」のはずだ。だからスピード制限や飲酒運転、薬物使用運転、てんかんなどの持病のある人の運転規制を定めているのである(運転状態にない駐停車禁止は別の目的=交通の妨害行為になるという理由)。つまり制限を超えたスピードで車を走らせたり、飲酒して車を走らせたりする行為は自動車を「走る凶器」と化す危険性があると取り締まる側(つまり警察)は考えており、スピード超過の度合いが増すほど危険性は高くなり、飲酒量が多いほど危険性が高くなるという前提で道交法の罰則は定められている。(中略)
言っておくが、私は犯罪者の個人的事情を斟酌すべきではないと言いたいのではない。道交法は個人的事情を斟酌していたら成立しない。たとえば制限速度を個々人の運転技術によって変化させるなどということは不可能だ。
ということは道交法と連動させた自動車事故の罰則を一般刑法から外すべきではないという結論にならざるを得ない。「車は走る凶器」という認識を前提にすれば、道交法に違反した時点で車は「凶器」になったと判断されるべきで、従ってそういう状態で起こした事故に対しては一般刑法の傷害罪あるいは殺人罪を適用すれば済む話だ。そうすれば、個人的事情も勘案できるし、事故を起こした状況に対する情状も、一般刑法と同じ基準で考慮すればよいということになる。(中略)
私は刑罰の目的は三つあると思っている。
①  犯した罪に対する社会的制裁
②  反省の機会を与え、社会復帰への意欲と努力を促す。
③  犯罪に対する抑止力
この三つのうち何を優先すべきかは、その時代における国民の意志であるべきだと思う。国民の意志は時代とともに変わるし、いかなる時代にも通じる絶対的基準というものはない。国民の意思がその時々の感情に左右されることも承知のうえで、民主主義とはそういうものだという認識を国民すべてが持つようになれば、一時的な感情に流されて国の針路を誤らせる選択をしてはいけないという、集団心理的感情に対するコントロール機能が働く。民主主義とはそうやって遅々たる歩みで成熟していくものではないだろうか。
法律用語の一つに「未必の故意」というのがある。推理小説や法廷小説の愛読者ならご存知だと思うが、明確な目的と意志をもって犯罪を行った場合は明らかに「故意」の行為だが、「ひょっとしたら、そうなるかもしれない」という認識を持ちながら結果的に障害や殺人に至る行為を行った場合に適用されるのが「未必の故意」である。例えば包丁自体は凶器ではないが、包丁をぶらぶらさせながら繁華街の人込みを歩いたら、だれが考えても他人に危害を与える危険性があることはわかる。そして実際に人に危害を与えたら、この行為は「未必の故意」と解される。
同様に「車は走る凶器」という認識は運転手ならだれでも持っている。免許を取得する過程や更新するときの講習や警察署で見せられるビデオで何度も耳にタコができるほど教えられている。その認識を持っていない人は、そのこと自体で免許を取得したり更新したりする資格がない。様々な交通法規は、車を「走る凶器」にさせないために設けられているはずである。だから飲酒運転や一定以上のスピード違反は、その時点で車を「走る凶器」にしていると考えるべきである。つまり包丁をぶらぶらさせながら繁華街を歩くのと同じだということだ。そういう認識に立てば、交通事故に対する刑法上の扱いは、一般刑法の傷害罪や殺人罪、器物破損罪で扱えばいいということになる。池袋の事故の場合も、87歳の運転手は運転操作が困難になってきたことを認識していた事実が認められ、かつアクセルやブレーキを踏む右足が不自由である状態で車を運転していた。彼が起こした事故は当然、一般刑法の「未必の故意」による殺人罪・傷害罪・器物破損罪に問うべき性質の犯罪行為である。
そういう認識に立って法制度を整備すれば、何も危険運転致死傷罪などという自動車事故に限定した刑体系をつくらなくても、自動車事故は大幅に減る。

官僚機構は、監督権限がある団体や企業と長年にわたって構築してきた、よく言えば信頼関係、実態は癒着関係がある。パチンコ業界や競馬・競輪・競艇などの公認・公営ギャンブル関連をはじめ、全国の警察署の敷地内に設置されている交通安全協会や免許更新時に義務付けられている安全運転講習の講師もすべて元警察官である。当然、そうした関連業界とは利害関係において切って切れない関係にある。高齢者ドライバーも警察機構にとっては「おいしいお客様」であり、簡単には免許を更新させないという方針は取りづらいのだろう。
4月24日のテレビ朝日の「羽鳥モーニングショー」でも報道したが、後期高齢者に義務付けられている実技試験でも、縁石に乗り上げたり一時停止を怠ったりした「運転不適格者」も全員合格にしている実態を明らかにした。「運転実技をした」というお墨付きを与えることが実技試験の目的だということを、恥ずかしげもなく実技講師が証言していたくらいだ。はっきり言う。高齢者に義務付けられた免許更新のための試験は、警察機構によるアリバイ作りのためでしかない。その責めを負うべきは当然最高責任者の警察庁長官だ。
もうこの稿も実数で5500字に達し、読者も連休疲れだろうから、この辺で終える。(4月25日記す)

【追記】 5月8日午前10時15分ごろ、大津市琵琶湖近くの道路で痛ましい自動車事故が発生した。10連休明けの保育園の園児10人が3人の保育士に連れられて歩道を散歩中に、車道で前方をよく見ずに右折しようとした乗用車が直進してきた軽自動車に衝突、軽自動車の運転手は避けようと左にハンドルを切ったが避けきれずに衝突、はずみで信号待ちしていた園児たちの集団に突っ込み、園児2人が死亡、1人が意識不明の重傷を負った。(8日夕方時点)。
 本文で私が主張してきたように、「クルマは走る凶器」として交通違反による人身事故を起こした場合は、否応なしに「未必の故意」による死傷行為として厳罰に処するようにしていれば、「前方をよく見ずに」というような無謀な運転は激減するはずだ。あおり運転も絶滅とまではいかなくても、相当激減するだろうし、高齢ドライバーはためらいなく免許を返納するようになる。自動車事故に対する処罰の甘さが、こうした悲惨な事故の原因であることを、検察は厳しく認識し、事故を起こした当事者だけでなく、警察庁長官を「不作為犯」として起訴すべきである。
何気なくその日の夕方、TBSのNスタを見ていたら、保育園側の記者会見を生中継していた。
 なぜ、被害を受けた側の保育園が記者会見を行ったのか。通常はありえない光景が、そこにはあった。
 保育園側が自ら記者会見を行うことは考えにくいから、おそらく記者クラブの要請によって記者会見が行われたのだと思う。記者たちは、それでも多少は気を使っている様子は見られたが、「安全対策は十分だったのか」といった厳しい質問も飛び交った。が、事故現場のストリートビュー(グーグルが提供している道路沿いの風景画像)によれば、事故直前の園児たちは保育士に守られて車道からかなり離れたフェンス際に固まって信号待ちをしていたことが明白であり、保育園側には何の落ち度もない。そうした事故について保育園側の安全対策を問うという記者クラブの姿勢には、いったい人間としての正常な感情があるのか、という疑問を持たざるを得なかった。
 この事故を起こした乗用車の運転手(女性)は52歳で高齢者とは言えない。こうした事故が発生した責任を問うなら、大津警察署の道路管理と安全対策だろう、が、仮に記者クラブが大津警察署に記者会見を要請しても警察側が応じるわけがない。そうした記者クラブの体質については知る由もない保育園側が、二次被害にあったのが、この記者会見だ。
 もしこの事故が起こるべくして起きたというなら、この交差点が「魔の交差点」と近所の人たちから恐れられているような事故多発地点であり、そうした事情を知りながら保育園が園児の散歩通路にしていたというなら、保育園側の責任を問うのはジャーナリストとしての当然の義務だ。同時に道路の安全管理の責任を大津市や大津警察署にも問うべきだろう。
 自分たちの仕事をつくるために、えげつない記者会見を保育園側に要請するなど、記者クラブは少し思い上がってはいないか。(5月8日記す)



【追記】12日、アメリカの陸上競技でサニブラウン選手が100メートル競走で9.99秒の記録を出した。桐生選手に次ぐ快記録だ。そのことを日本人として、実は素直に喜べない。
 私は単純な国粋主義者ではない。サニブラウン選手は日本人の母を持つ。国籍も日本だ。日本語もテニスの大坂なおみ選手よりはるかに流暢だ。なのに、なぜか大坂選手には抱かなかった違和感が、サニブラウン選手には持ってしまう。後期高齢者だからなのか。若い人たちには違和感がないのか。私には分からない。
 私は学生時代、解放運動にも参加したし、人種差別には強烈な反発がいまでもある。最近、韓国政府の反日政策をきっかけに日本各地でヘイト・スピーチが活発化しているという。私は心を痛めている。なぜ人々はいがみ合うのか。日本人の血は流れていなくても、日本に永住している人たちだ。でも、私のような純血日本人とは精神的規範が異なっているのかもしれない。
 日本には、聖徳太子の憲法のトップで書きこまれた「和」の精神が日本人のアイデンティティとして刻み込まれている。日本人の精神的規範と言ってもいいだろう。私は純血日本人であっても、実は「和」の精神に疑問を抱き続けてきた異端児だ。別に喧嘩がしたいわけではない。非合理的なことが「和」によって罷り通ってしまうことに強烈な反発を感じてしまう。
 いまは亡き私の母は敬虔なクリスチャンだった。小学生のころから母と一緒に近くのプロテスタント系教会に通っていた。ある日、教会の長老が「自転車が壊れて困っていた。神様に祈ったら新しい自転車が買えた」という証(あかし)をした。当時私は小学年の5年か6年だったと思う。その長老の証を聞いて。思わず立ち上がり「おかしい」と叫んだ。「物欲」などという言葉を知っていたとは思えないが、信仰は物欲をかなえるためのことか、と言い募った。牧師は困惑したが、なんとかその場をくつろった。教会からの帰り道で、母は「お前が言ったことは間違っていない」と言ってくれた。その一言が、私の生き方の精神的規範になっている。
 にもかかわらず、大坂選手に抱く親和観と、サニブラウン選手に抱く違和感はどこから生じているのだろうか。私には、いま戸惑いしかない。単純に姓名が日本的かどうかの違いなのか、あるいはそれ以外の何かの要素があるのか、私には今答えがない。その答えをこれからの日本がどうつくっていくのか。日本人のアイデンティティとは何かが、これから問われる時代になる。(5月13日、記す)







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